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三百四十一話 私の青春、未だ終わらず

 よく晴れた初夏の吉日。

 この日を選んで、皇城では特別な朝儀が開かれた。

 殿上に在らせられる皇帝陛下、りょう子春ししゅんさまが、普段より声を張って、まだ陽の低い天に告げた。


「天下万民、兄弟姉妹の健勝を祝福する。居並ぶ諸官、諸将軍はこれに倣い、空と大地に称揚し、山海と風雲に祈祷せよ。万歳、万歳」

「万歳! 万歳ーーーーッ!!」


 朝堂の両脇に整列した文武百官が、陛下に続いて万歳を唱和する。

 私も文官の最後列に立ち、手を挙げて目いっぱいの大声を出した。

 これは一体なにごとか。

 陛下の脇に控える一番偉い宦官さん、司礼しれい総太監そうたいかん馬蝋ばろうさんによるアナウンスが告げる。


「先に八州および北方を騒乱せしめた『除南じょなんの乱』は、英明なる陛下のご指揮と文武諸官の働きにより収束を見せた。これなる嘉日、まさに天下に秩序の保たれたことを記念し、祝いと慰労の儀を執り行う」


 再びみなさんから、万歳万歳と声が上がる。

 要するに、戦争終結記念式典なわけだ。

 除葛氏じょかつしが南部の兵を唆して起こした事件なので、除南の乱と呼ばれる。


「あの二人も来てたんだ」


 武官たちの先頭には、突骨無とごんさんと斗羅畏とらいさんも参列していた。

 乱が終わったことを一緒にお祝いするため、今日も駆けつけてくれたのである。

 もう片方、私たち文官たちの列の前の方には、ジュミン先生もいる。

 外国からの賓客、重要な協力者と言う立場でこの場にいるわけだ。

 まったくの下っ端役人でしかない私に、ここは大きく場違いすぎる。

 私なんて銀府の市場で翔霏しょうひと一緒に、揚げ豆腐あたりを食ってるのがお似合いなんや。


「落ち着かないし、もう帰りたい」


 横に並ぶ百憩ひゃっけいさんにだけ聞こえるように、私は呟く。

 知らない大人の中にボッ立ちしている状況を憐れんでか、始まる前に傍に来てくれたのだ。


「そう言わずに、これも学びですよ。ほら、今から大事な儀が始まります」


 促されて殿上を見る。

 突骨無さんと斗羅畏さんが揃って進み出て、一段低い場所から陛下と向かい合っている。

 その場にどこからか、元気のない仔牛が連れて来られた。

 

「ふんっ」


 宦官の一人が仔牛の脳天に棍棒を振り降ろす。

 どうやら生贄の儀式の一種らしい。 

 昏倒した牛の耳を、陛下がおん自らの手で刀を用いて切り取った。

 右耳を突骨無さん、左耳を斗羅畏さんへと渡し、陛下が宣言なされた。


「朕、ここに北の弟たちとにえを分かち合う。この盟が永遠なることを、強く天の神に願う。万歳、万歳」


 突骨無さんと斗羅畏さんも、万歳を唱えて陛下に両拳の礼を捧げた。

 なんのこっちゃいなと半開きの口で見ている愚かな私に、百憩さんが小声で教えてくれる。


「昂国と北方の氏部が、正式に兄弟の同盟を結んだのです。牛耳を斬るのは盟主である長兄の証し。それを北方のお二方が認めたということですね」

「あ、そうなんだ。あの二人がねえ……」


 いつまで独立独歩でやって行くのかと疑問に思っていたけれど。

 突骨無さんも斗羅畏さんも、とうとう腹をくくったんだね。

 昨日までのプライドより、明日からの希望のために。

 昂国と北方の共存共栄が、名実ともに始まったのだ。

 優しく理知的だけれど、暴力の要素をまったく持ち合わせない我が国の皇帝陛下。

 頭も良く頼りになるけれど、イマイチ調子が良くて軽いところが抜けきらない突骨無さん。

 そして、男性性が服を着て歩いているような、剛直剛健の斗羅畏さん。

 タイプの違う三人だけれど、実の兄弟のように仲良くして欲しいものだと、私は素直に思った。

 私の知らないところで、世の中はどんどんめまぐるしく変わって行ってるのが、嬉しいような、寂しいような気分だ。

 置いて行かれないように、頑張らなくっちゃね。


「大事な儀式も終わったようですし、後はお偉方たちの挨拶が続くくらいでしょうか」


 式次第を見つめながら百憩さんが言う。

 すいさまから「今回はあんたも出なさい」とろくな説明もなく命じられて出席したものの、その意図はいまいち不明。

 凛として朝儀を取り仕切る皇帝陛下のお姿を、私に見せたかっただけなのだろうか。

 自分の彼氏や旦那自慢はさぞかし楽しいでしょうねえ、と喪女の私は心の中でボヤく。

 なんて、小市民的感情で油断していたのもつかの間。

 馬蝋さんがどこかドヤ顔っぽい楽しげな笑みを浮かべ、こう言った。


「加えて、特にこの儀で褒賞すべき人材を挙げる。女官麗、及びその後見人たるちょう将軍、前へ」

「ファッ!?」


 あろうことか、この大がかりで厳かな朝儀の真ん中に、名指しで呼ばれてしまった。


「えっえっちょっと待って意味わかんない。助けて百憩さん」

「殿上からご指名あるときは、すなわち遅滞なく赴かねばいけませんよ」


 百憩さんがニコニコと笑って、文字通り私の背中を押す。

 き、貴様―ーーーーッ! 

 知ってやがったなこうなることを!?

 迷子の犬みたいにきょろきょろしながら、居並ぶ百官の面前に出て行かされる哀れな私。


「落ち着け。主上の御前であるぞ」

「は、はひぃ」


 叱るように言った、私の戸籍上の世話人である軍務官僚の兆閣下。

 後宮西苑の美妃、博柚はくゆうさまの父でもある。

 彼のエスコートで、私は震える足を無理矢理に運ばせ、陛下のおわす正殿の前まで進む。

 屈礼する私に、皇帝陛下がおっしゃった。


「先の乱における女官麗の働き、国益に資すること甚だ大なり。しからばここに白青はくせいの衣を授け、その功績を賞する」


 陛下のお声に反応して、横の方に控えていた銀月ぎんげつさんが、テトテトと歩いてきた。

 両手に服らしき布地を抱え、私の前に。


「おめでとうございまする、麗女史。さ、謹んでお受けなされ」

「えっえっ、あっ、はっ、はいぃ……?」


 言われるがままに。

 私は両膝を屈した状態で、掲げるように頭より高い位置で受け取った。

 白青二色に分かれた生地だった。

 

「さ、両手を横に広げて」

「え?」


 いつの間にか私の背後には、れんさまの侍女である孤氷こひょうさんと。


「この役を誰が任されるかで、翠さまと漣さまが喧嘩までしたのよ。結局二人でやることになったのは、へい貴妃のお口添えのおかげ」


 面白そうに私の耳元で囁く、毛蘭もうらんさんまでいる。

 あんたらみんな、前もって知ってた共犯かよ!

 私は二人に促されるまま、両手を広げて衣の袖を通してもらった。

 きょうさんが着ていた青地に白い襟と裾の衣とは、正反対のカラーパターン。

 白地に青い襟、青い裾の絹の衣を、私は膝立ちの状態で着させられた。

 どう見ても服に着られている、だぼだぼ袖のちんちくりんが出来上がってしまった。

 なんか、両脇に並んでる偉い人たちにも失笑されてる気がするし。

 できそこないの人形みたいな有様を見て、陛下は優しげに頷いている。

 混乱して引き攣っている顔の私を面白がるように、兆閣下が笑いをこらえながら、けれど内容は真面目なことを言った。


「青と白は、大地を見守る蒼穹の色。それは『功臣』の証しである。その評価に恥じぬように努めるべし」


 混乱しながらも私は、思い当たることがあった。

 おそるおそる、小声で兆閣下に訊ねてみる。


「ひょっとして姜さんが着ていた青白の衣も……」

「うむ。十余年前、尾州びしゅう大乱を平定した折にな。今日こんにちのお前と同じように、先帝から賜ったのだ」


 震える手で、私は滑らかな絹地を撫でた。

 空のように青い衣を着て、北の草原で笑って兵の指揮を執る姜さんの顔。

 今さら強烈に脳裏に浮かんだ。

 目にこみ上げるものを耐えるように俯いた私。

 孤氷さんと毛蘭さんが優しく私の背中を撫でてくれる。

 まばらに周囲がざわつく中、司会進行役の馬蝋さんが告げた。


「かような若齢で青き衣を賜るは、王朝開闢以来、例のないことである。それを英断なされた主上の恩寵を知り、臣民は末永く名君の治世を語り継ぐであろう。諸官は高らかにこれを寿ぎ、今一度、声を大にして唱和されたし。万歳、万歳と」


 その呼びかけに、真っ先に応えた声が高らかに鳴り響いた。


「ばん、じゃーーーーーーーーーい!」


 明晴みょうせいさまだった。

 正殿の奥で、一部始終を見守っていた翠さまの足下に屹立し。

 私のために、一生懸命に声を張り、手を掲げて叫んでくれていた。


「万歳ーーーーーー!」


 つられたように大臣、将軍たちもろもろが、赤子には負けぬと大声を張り上げて万歳を叫ぶ。


「ばん、じゃーーーーーーーーーーーーい!」

「ばん、ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!」


 朝堂が、百を超える祝福の声で満たされる。

 私は嬉しくて、ありがたくて。

 でもなんだか恥ずかしくて、申し訳なくて。

 涙で前が見えないから、平伏するしかできなくて。


「ばん、ばん、じゃーーーーーーーーーーーーーーーい!!」

「万、万、歳ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」


 みんなの大きな声を、小さな体ひとつで受け止めるだけしかできなかった。

 そんな中でも、ちらっと殿上の奥を見たら。

 嬉しそうに、恥ずかしそうに、翠さまも涙を浮かべ、笑っていた。








* 


 



* 





 その後。

 私や翔霏しょうひが慌ただしく首都を撤収して、神台邑じんだいむらに戻ったのには、いささか面倒な事情がある。

 白青の絹衣を賜ったその日の夕方。

 後宮にいる兆美人から呼び出しを受けた私は、以下のことを聞かされたのだ。

 

「あなたが大きすぎる功績をその歳で上げてしまったせいで、朝廷も後宮も、少し面倒なことになってしまったわ」

「どういうことですか?」


 なにも知らぬ平和な私を嘲るように皮肉な笑みを浮かべて、兆美人は次のように説明した。


「まずあなた、北部出身のお妃さまたちとばかり仲が良いでしょう。角州かくしゅうの翠さましかり、翼州よくしゅうの塀貴妃しかり、毛州もうしゅうの正妃さまや、玉楊ぎょくようさまを輩出された環家かんけもそうね」


 博柚さまの実家、兆家も西北の鱗州りんしゅうである。

 確かに南部出身のお妃とは、あまり縁がなかったかも。


「あ、でも漣さまとは一応、仲良くやってるつもりですけど……」

「尾州は北部でも南部でもない西部と言う扱いだから、少し違うのよ」

「そんなもんですか」


 へえとアホ面下げて聞く私に、博柚子さまは続けて言う。


「南部出身の妃たちは、特定のお偉方とばかり縁を結んだあなたのことを、そもそも良く思っていないのよ。あなたが後宮にいたときからね」

「言われてみれば、なんか嫌がらせとか受けてた気がしないでもないです。悪い記憶なので無意識に消去してましたけど」


 要するに。

 私と言う人間を基準にして見てしまうと、後宮の中は今、南北二つの出身勢力で真っ二つに割れているような、緊張状態が発生してしまっているらしい。

 重ねて博柚さまが説くには、こうだ。


「それと、あなたは中書堂に関係した若手の学務官とばかり仲良くしていて、そうでない実務官僚の知り合いはほぼいないでしょう。私の父の縁で工兵部に少し知り合いがいるくらいじゃない?」

「その通りですね。そもそも私、女官になってまだ日が浅いし、半分は腿州たいしゅうで野菜いじりしてましたんで……」


 私は首都にいる若手の実務系役人とほとんど交際する縁がないまま、皇帝陛下から特別に褒賞されてしまった、ということだ。


「それが、若い役人の大部分から反感を受けている理由になってしまってるってことですか?」

「ええそうよ。考えてもごらんなさい。これから先、首都の若手官僚がみんな、あなたと比較されて評価されてしまうのよ。麗は十代で青衣せいいを賜ったのに、お前はいったいその歳になってなにをしてるんだ、って。言われる側の気持ちを考えてみなさいな」

「私に言われてもなあ……どうしようもないじゃないですかぁ」


 情けない声を漏らすしかできない私に、その通りと博柚さまは頷く。


「そう、どうしようもないのよ。だからあなたはさっさと首都を離れて、神台邑の工事に没頭した方がいいの。田舎で土いじりしてる分には、あなたに嫉妬の目が向くことはないでしょうから」


 政治ってのは、面倒臭いなあ。

 朝儀に参加していたのは、かなり偉い人たちばかり。

 だから根無し草の小娘である私に、いちいちやっかみの感情を持たないだけの余裕があるわけか。

 反面、若年から中堅クラスで頑張っている人たちにとって、私の存在は単純にウザいのだろう。

 ま、私としては当初からやると決めていたことに邁進できるので、嫌なことはない。


「承知いたしました。わざわざ知らせてくれてありがとうございます」


 お礼を述べて頭を下げる。

 博柚さまは溜息と一緒に言い添えた。


「……正直言うと、翠さまの方からすでにこの話が行ってると思ってたのよ。けれどあのお方も、今ではご身分が高くなりすぎてしまったから、こういった下々の世界の情動に疎くなってしまわれたみたいね」

「確かに……」


 今の翠さまは皇帝陛下の準妃であり、なおかつ皇子の母である。

 後宮のことすべてに目を配らせていた西苑貴妃のときとは、役割も生きている階層もまるで違うのだ。

 いつまでも私の翠さまであってほしいけれど、人は変わるし状況も変わるのだよな。

 博柚さまは、失礼だけれど以前から人間の悪意、ケチな嫉妬心に通じている、その分野の解像度が高いお人だった。

 だからいち早く気付いて、忠告してくれたわけだ。


「私からはそれだけよ。あなたが邑の工事に尽力してくれるのなら、兆家としてもなんの心配もないのだし、他に言うべきことはありません。あなたならしっかりやってくれると信じています」

「なにからなにまで、本当に感謝のしようもありません。兆家の名に恥じぬように頑張ります」


 という経緯があり、次の日には荷物をまとめたわけなのだ。

 なにか変わったことがあれば、翠さまや司午別邸から連絡は来るだろう。

 バタバタしてはいたけれど、後ろ髪をひかれることもなく私は首都を後にした。


「わあ、なんだか邑に見慣れない土塀が建ってる」


 愛しの翼州に到着。

 神台邑よ、私は帰って来た!

 着いたなり私を驚かせたのは、邑をぐるりと囲む土塀、土の防壁だった。


「俺たちがいねえ間、おっちゃん先生たちが造ってくれたんだ」

「メェ~」


 出迎えた軽螢けいけいが教えてくれる。

 邑の生き残りである若者たちは、農業博士であるせき先生の指導の下、いくらかの土木工事を進めてくれていた。

 聞けば土壁だけではなく、これからの邑の再建に必要なあれこれに手を付けているとのこと。

 籍先生が少しはにかみながら説明する。


「邑の横にある丘に、丈夫な岩盤があってね。そこから石材を切り出して、水路を補強したり家屋の建材にしようと思っているよ。岩盤をくりぬいた後の土地には、ちょうど遊水地、溜め池を造れるだろう」

「確かに池があれば、いろんな作物を育てるときに便利ですね。それ以外の生活用水にも使えるし」


 さすがプロだ、違うなあ……と私は腕を組んで感心顔。

 軽螢が私の手を引っ張り、その丘がある方へと導く。


「実際に見てみないとピンと来ないだろ。麗央那もなんか考えがあるなら言ってくれよ。なんだかんだ、こン中で一番偉いのは麗央那だからな」

「あー、私が都でなんかご褒美をもらったこと、もう伝わってるんだね」


 人の噂はまさに馬より風より速いのう。


「メェメェ~」

「私がちょっと偉くなったからって媚び売って来るんじゃねえよこのヤギ畜生め」


 馴れ馴れしくお尻にすり寄って来るヤギに罵声を浴びせる。

 私は邑の脇に位置する丘を登る。

 邑に隣接する麓には柿の木を植えているけれど、ちょっと登ったところはほぼ手つかずの自然が広がっている。

 樹木が生えていたり生えていなかったりするのも、岩がちの地形だからだろう。

 そのせいで稀に鉄砲水が発生し、邑に被害を与えるのは哀しい事実だ。

 一つ一つ、徹底的に改善しなくちゃな。


「ここから、邑が見渡せるね」


 景色の良いところを丘の中腹に見つけた私。

 腰を下ろして、軽螢に飴玉を分ける。


「だな。いつかみんなの墓を、ここに移そうと思ってンだ」

「いいね、それ。じゃあまず手始めにさ」


 私は今まで大事に懐に持ち歩いていた、あるものを取り出す。

 尾州出身の女性で、姜さんの指揮下で間者をやっていた、乙さんの形見。

 小さい刀を手に持って、軽螢に言った。


「乙さんも、生まれ変わったときに神台邑がどこか迷わないように、ここに埋めておこうよ」

「そいつはいいや。これから忙しくなッからな。あのねえちゃんも、ここから見てれば退屈しないだろ」


 そうして私と軽螢はその場にせっせと穴を掘り、乙さんの小刀を土に埋めた。

 目印に木の杭を打ち、石をなんとなく並べて。


「うん、なんか気合入って来た! みんながビックリするくらい、凄い邑を造れそうな気がする!!」


 どこからか不思議な力を貰って、私は天に宣言した。

 小さな小さな女でしかない、私と言う物語。

 青春の第一幕がここに完結して、これからはちゃんとした、普通の大人の女になるんだ。

 誰かのために頑張って、誰かの役に立って。

 周りにいるみんなと、苦労も幸福もなんでも分かち合うような。

 そんな、ごくありきたり、当たり前の人生を、これから送るのだと、気負うことなく感じられる。

 いつか、この邑に生まれてくる新しい命、この邑を訪れる誰か知らない人々も。

 きっと、一緒に笑い合える。

 その未来が、まさに私の手の中にあるんだ。


「じゃ、そろそろ戻るか。夜飯にしようぜ」

「そうだね、たまにはヤギ鍋でも」

「メェッ!?」


 などとアホを言い交して、丘を降りる私たち。

 さっきとは反対側を見て帰ろうという軽螢の提案で、普段はまず滅多に足を踏み入れない区画、ほぼ藪の中をもさもさと分け入る。


「って、なんだこりゃあ」


 途中、足を止めて軽螢が驚きの声を上げる。


「どしたの?」


 うっそうと草木が茂る中。

 ぽつん、と。

 いや、どどーん、と擬音を当てたいくらいに。

 ありえないものが、そこにある。


「木、木の、家……? いや、なんかのお社みたいな……」


 恐る恐る近付いて、目の前にある非現実物体を観察する軽螢。

 突如として、脈絡もなく目の前に現れた、それ。

 私は、その正体を知っている。

 呆然として言葉を出せずにいる私を尻目に、軽螢とヤギは物珍しいものに興奮し始める。


「す、すっげー立派なお屋敷だぜこれ? 見ろよ麗央那! 屋根なんて板葺きの上に銅を重ねてる! しかもこの柱と梁! 木と木を組み合わせただけでガッチリハマってビクともしねえ!!」

「メェ! メメメェ~~!!」


 なんで、こんなところに。

 なんで、昂国の翼州、神台邑に。

 なんで、なんで、どうして、これがあるの!?


「麗央那! どうしたんだよこっち来いよ! こんな上等な建物見たの、俺はじめてだよ! 中が凄く涼しくて気持ちいいぞ!? うおっなんだこの龍神さまの彫り物!? とんでもねえやー、はっはっはー!!」


 無邪気に喜び盛り上がる軽螢と対照的に。

 私の頭から血の気は失せ、体が急激に冷えて行くのがわかった。

 感情も理性も、目の前の現実を認識するのを拒んでいるのに。

 なにか、それ以外の目に見えない力が、私の口を動かした。

 直面しろ、と。

 逃げるな、と。

 まるで私に、命じるかのように。


「ち、秩父神社…………」


 私が赤ちゃんのころから、盆正月には必ず訪れていた、父方のおじいちゃんの住む、秩父市。

 そこで数えきれないくらいにお参りし、目に焼き付いている、親しみしかない社殿。

 木造、銅板葺き屋根。

 左甚五郎の作と伝わる各種の木彫り。

 埼玉県が誇る古跡、ヤゴコロノオモイカネノカミを主祭神とする、秩父神社が。


「なんで、ここにあるの……?」


 わからない、なにもわからない。

 私は声を失い、自分を喪い、その場に立ち尽くすしかできなかった。


『こんな形で、終わらせたりしないんだからね』


 聞き慣れたような、でも誰のものかわからない声が、頭の中に響く。


『あんたにはまだ、やってもらうことがあるんだから』


 実はまだ終わっていなかった、私の青春の舞台、その最後の演目が。


『私を置いて、一人で完結しようとするんじゃねーわよ』


 わけもわからないままに、いつの間にか始まっていた。

 戦いは。

 哀しいことに、まだ終わらない。

 これが円環の宿命なのだろうかと、私はぼんやり考えていた。












山河の果て蒼穹の彼方、響いて届け私の聲よ 

 ~泣き虫れおなの絶叫昂国日誌・第七部~     完





第八部へ続く

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