三百四十話 蜂に伝えよ
暦は進み、場所も変わる、と言うか戻った。
私は今、首都の河旭の皇城区画にある、大司直院と呼ばれる建物の一室にいる。
要するに、最高裁判所である。
「まったく異論はございません。その件に関しましても、斗羅畏大人のおっしゃる通りでございます」
私はここで朝からずっと、斗羅畏さんが今まで証言した内容に関して同意するBOTと化していた。
姜さんと戌族のみなさんがどう戦ったのかという事実確認のために。
これまでに私以外にも証人はたくさん呼ばれており、おおよそ必要な情報は出揃った。
私は最後にハイハイ言ってるくらいしかすることがないのだ。
なんと、もう三日もこれと同じことを続けて過ごしている……。
私も今の身分は宮廷付き女官、いわば国家公務員。
縦割り行政の闇を、まさに自分の身で体験している真っ最中であるのだ。
「しんどい。座りすぎてお尻痛い。椅子がかてーんだわ」
その日の聴取も終わり、司午別邸に戻った。
女勢で夕食中に私は愚痴る。
「お疲れさん。私はジュミン先生がだいたい喋ってくれるから楽だな。半分寝ていた」
「けれど翔霏さんの記憶力には、本当に驚かされます」
「いやはは、それほどでもありますが」
翔霏とジュミン先生も、別の部屋でヒアリングを受けている。
西方の小獅宮の人たちがどのような形で北方での騒乱に関わったのか、説明しなければいけないからね。
基本的な情報の確認だけなのでトラブルと言うほどのこともない。
退屈な以外は、順調らしい。
「こうやって後始末してると、やりたい放題やってぽっくり逝った姜さんが、つくづく憎たらしいなあ」
「確かにな。どうして私たちがこんな面倒を引き受けなきゃならんのだ」
くっくと笑う翔霏にジト目で優しく睨まれる。
他の誰かのせいにしたいと強く思うけれど、残念ながら自分の顔しか思い浮かばないのであった。
そしてうんざりしながらも出仕した、次の日。
「では、これにて麗女官への質疑を終える」
幾ばくかの応答ののち、無表情な司法官吏が唐突に言った。
「え、ホントにおしまいですか」
拍子抜けして訊ねた私に、彼はどこまでも事務的で義務的な口調を返す。
「新たに話を聞く必要が生ずれば、再び召喚されることはある。連絡のつかぬような行動はしばらく控えられたい」
「はあ。まあ大丈夫だと思いますけど」
今のところ、私の予定は神台邑で過ごすか、そうでなかったら首都か角州の司午本家に顔を出すくらいしかない。
こうして姜さんに関わることのすべては私の手から離れ、公の調査と判断に結末を委ねられた。
今まで鉄面皮しか見せて来なかった、担当の文官さん。
帳簿を閉じ、どこかぎこちない笑みを浮かべて言った。
「記録や証言には矛盾がないにもかかわらず、これほど信じられない案件は過去、まったく例がない。奇跡で拾った命、これからは一層大事に使うように」
「はい、心に刻みます」
私も気不味い苦笑いで答えた。
本当に終わったんだなと実感が湧く。
ああ、久しぶりに体も心も羽のように軽くなった気がする、けれど。
「さまざまな重荷にヒィヒィ言ってた日々を思うと、なんだか寂しいなあ」
なんてことを呟いてみたくもなる。
もちろん、これからは頑張って邑の立て直しに力を尽くすのだけれどね。
「相変わらず、独り言が多いですね」
「ひゃぁい!? あ、孤氷さん。どうもどうも」
感慨に耽っていたら、唐突に見知った顔の侍女パイセンに声を掛けられた。
朱蜂宮に四人だけいる貴妃、その一人である漣さまのお部屋で筆頭侍女を務めている孤氷さんである。
私もその節はずいぶんとお世話になりました。
皇城大路のど真ん中でブツブツ言ってる哀れな後輩を見るに見かねて、教育的指導を施しに来たのだろうか。
「ところで麗、明日の昼は空いていますか?」
「はい、おかげさまで聴取の方も滞りなく終わりました。なにかあるならどうぞお申し付けください」
用事があるらしい。
たまの休日に旧交を温めるくらい、お天道さまも許してくれるだろう。
翔霏とジュミン先生の方も、もうじき事情聴取は終わっちゃうし、そうしたら私たちは神台邑に戻らなければならないからね。
ウンウンと納得の相槌を小さく打って、孤氷さんは内容を告げた。
「わかりました。では明日の正午前に朱蜂宮に来て下さい。漣さまがみなさまを集めてお茶をしたいとおっしゃられていますので」
「わあ、それは楽しみです。ぜひお邪魔させていただきます」
みなさまとは具体的にだれなのか。
そもそも、客として招かれているのか、それとも労働力の足しとして召集されているのか、よくわからないけれど。
まあいいや、どっちでも。
たまには女の園でゆるふわタイムを満喫したいんじゃ。
後宮の中に入るのは久しぶりだから、ドキドキウキウキしちゃうわぁ~ん。
「とういうわけで、明日はお出かけの予定が入っちゃったんだけど」
司午別邸に戻り、翔霏に報告する。
「そうか。私とジュミン先生はまだ少し、役人どもが話を聞きたいと引き止めてきているからな。一緒には行けないが楽しんできたらいい」
「うん、なにか良いものをお土産にせびって帰るね」
「お上品な場なんだ。あまりごうつくばりを見せない方がいいぞ」
「あっはい、そうします」
まさか、遠慮のえの字も知らない翔霏にお説教されるとは……。
どうも私、自覚せずに浮かれちゃってるのかもしれない。
後宮の中で粗相なんてしては末代までの恥、気を付けねば。
ん? もうすでに火を点けたりありとあらゆることをしでかしてるだろうって?
なんのことやら、聞こえんな~。
と、自分の記憶を改ざんしながら過ごして迎えた翌日。
「よく来てくれました。って、仕事着じゃないですかあなた」
朱蜂宮の南門まで迎えに来てくれた孤氷さんに呆れられた。
「不味かったでしょうか……?」
「悪いことはありませんけれど。ま、それもあなたらしいと言えますかね。後宮にいるときはいつでも、誰かの部屋付き侍女だったのですし」
「そうなんですよ。この建物の中で、ただのお客さんである自分を想像できないと言いますか」
フフっと優しく笑う孤氷さんに導かれ、私は東苑の漣さまのお部屋へ向かう。
様々な香木が焚かれた、なんとも言えない柔らかい空気。
大声を出す人はいないけれど、それでもこしょこしょと飛び交う話し声の響きが絶えない廊下。
懐かしいなあとちょっとウルっと来た。
出て行って余計に痛感するね、ここが世界で最も優しく幸せな空間なのだと。
「漣さまにお目通りする前に、あなたには伝えておきますが」
途中で、孤氷さんから言い含められることがあった。
「は、なんでしょうか」
「漣さまは、あなたが姜帥と敵対してしまった過程と結果について、なにひとつ含むところを持ち合わせていらっしゃいません。なにか聞かれても、素直に思うところを述べなさい。余計な気を遣わないように」
「わかりました。ありがたいことです」
なにもない、というわけはないと思うのだけれど。
それでも「気にしなくていい」と言ってくれるお心に、涙が出そうになる。
私は、良い人たちに仕えた。
「ご無沙汰しております。麗、お招きに応じて畏れ多くも参りました」
お部屋の前で挨拶し、中へ入る。
「ごきげんよう。ずいぶんと陽に焼けましたね」
最初に挨拶を返して下さったのは、塀紅猫貴妃殿下である。
漣さまとはズッ友の関係で、今日もいらっしゃるんだろうなと言うのは想定済みだ。
最近ちょっと顔を出せてなかったので、この機会に会えてラッキーとか失礼なことを考えてしまった。
「なによその格好。あたしたちがいつもあんたをこき使ってることに対するイヤミかなにかなの?」
キツイ対応の主は、我らがヒロインにしてロイヤルマザー、翠さまであった。
今日は明晴さまのお守り当番ではないらしく、心なしか普段よりボケっとした、気の抜けた顔をしていた。
母にも休日は必要なのだ。
「おっひさっしちゃ~ん。えらい難義したみたいやなあ。除葛氏のアホどもが面倒かけて堪忍やでホンマ」
そして今回の招待主、漣さま。
本当になにひとつこだわるところもなく、かんらからと笑っている。
この人の場合、本当に気にしていない可能性も大いにあるので、真意は読めないけれど。
今日は、私も深く考えないで楽しもう。
と思っていた矢先に、漣さまがいきなり爆弾をブッこんできた。
「んで、姜おいちゃんが去んでまうときまでそばにおったんやろ? どないな顔を晒しとってん?」
いきなりそんな質問かよ~。
ま、こういう人だったよと諦めて私は素直に答える。
「満足げに、笑ってました。やりたいことは全部やり切った顔で」
「ズルいな~! 今までさんざんようけむごたらしく殺てもうたくせに、ワレの番が来よったときだけ勝ち逃げかいな~~!!」
ケッタケタと足をバタつかせてバカ受けする漣さま。
困ったような顔で塀貴妃が突っ込みを入れる。
「よくそれほど無邪気に笑えるものですね。漣にとっても複雑な関係の方だったでしょうに」
「もうおらんなってもうたんやさかい、笑うしかあらへんやろ~。そない仲ようした覚えもないしな」
「あたしもその境地に立ちたいもんだわ」
翠さまも呆れていた。
他の人に聞いたところでは、漣さまと姜さんは高祖父の代まで遡らないと繋がりのない、結構な遠縁らしい。
一族の有力者同士と言うことで顔を合わせる機会は多かったけれど、個人的な交際はほぼなかったというのが実情のようだ。
それだけ聞けば満足とばかりに、漣さまは自前の玩具を箱から引っ張り出して、お酒を飲みながら手慰みを始めた。
中には小獅宮の学僧、山泰くんから贈られた模型の鳥もある。
「羽が破れてますね。直しましょうか?」
「頼むわ~。めげてもうたさかい上手く飛ばんねんな」
変な流れで、お茶会に参加ながら玩具修理者となってしまう。
猫の目のように瞳孔を収縮させ、ちまちまと手仕事をしている私。
「結局は働くのね。言っておくけどあたしが命令してるわけじゃないわよ」
「手先が器用なのは羨ましいわ。私なんてなにをやっても中途半端で」
その様子を観察しながら、翠さまと塀貴妃がそれぞれのお人柄に合ったコメントをくださる。
なにか手を動かしていた方がむしろ会話も進む気がするのは、侍女根性が叩き込まれてしまったが故であろうか。
ついつい、この場で言わなくてもいいような言葉が、不意に口をついた。
「少し前は、誰かの役に立つことばかりを自分の生きがいや存在意義にしちゃいけないって思ってたんです。自分の大事ななにかを、他人に預けて生きてるような気がして」
私は作業の手を止めずに言う。
しみじみといった面持ちで塀貴妃が同意なさった。
「わかるわ。誰かのためにってことばかりを考えてしまうと、誰かに振り回されっぱなしで、自分が自分で無くなってしまうような気がするもの」
「そない難しいこと、考えたこともあらへんわ~」
紙飛行機が飛ばずに墜落してもまるで気にしてない漣さまには、どうやら伝わらないようだった。
一方で、いつものつまらなさそうな感じで下唇を突き出している翠さま。
彼女なりの解釈はこうだという、突然の金言が下された。
「それはあんたたちが『自分』って感じてる幅が狭いのよ。例えばあたしの周りには主上や明晴や朱蜂宮の妃たちや宦官や役人や玄兄さまをはじめとした実家の連中やありとあらゆる人がいるでしょ? 言ってしまえばそれ全部ひっくるめて『あたしの世界』じゃないの。ならみんなが笑ってることはあたしが笑ってることと同じだしあたしが楽しければみんなが楽しくて幸せじゃない」
翠さま以外の全員が、黙った。
司午翠蝶と言う女性が賢く勇気があり、そして優しい人であることは誰もが知っている。
けれど、そのバックボーンとなる意識、彼女を支えている世界観のなんと深淵で広大なことか。
きっと翠さまは誰に教わることもなく、天与のものとしてその答えにとっくの昔に辿り着いていたのだろう。
まさに、グレートマザーとなるべくして生まれたお方なのだ。
降参とばかりに私は両の掌を軽く上げて、補修作業の終わりを示す。
「私が言いたかったのもそこなんです。どうしたって人は一人じゃ生きられないんだから、ときには人に振り回されることも、頼ることも頼られることもある。それは当たり前なんだといつしか気付いたんです。だからそれを頑なに拒否して、私は他のなにものでもない私なんだと思い込むのは、傲慢なんだって思うようになりました」
それを学べた、大きな理由は。
彼とは別の生き方を選ぶと私は決めたからだろうな。
なんでも自分でやってやるんだという生きざまを見せつけた、除葛姜という自己完結の化物。
私は彼に憧れたけれど、彼になれるわけじゃないし、なりたくもないとハッキリ悟ったのだから。
「回り道の果てにでも気付けたのならいくらか上等じゃないの。一生そのことに気付けないで死んじゃう不幸なボンクラにならずに済んだわね」
珍しくお酒の混ざったお茶を飲みながら、翠さまは私の道行きに及第点をくださった。
世界は私で、私は世界。
ならば私が明るくなれば、世界は照らされるのだ。
その尊い答えを、我が半身である翠さまと共有できるなんて、どれほど嬉しいことか。
私がありがたさに目尻を濡らしていると、塀貴妃はハァと溜息を吐いて吐露した。
「きっとそう思える人こそ、大事なときに勇気を振り絞れるのでしょうね。遠く離れた他者の苦しみだとしても、自分のことのように切実に捉えられるのですから」
「知らん人のためにまでしんどい思いしたないわぁ。うちなんて自分の身ぃ一つも自分でよう世話せんのに」
確かにその通りだ、と声にならない突っ込みが場に飛び交い、みんな笑った。
そして翠さまが、たまにしか見せない優しい穏やかな面持ちで、私に問われた。
「あんたがよく頑張ったことはあたしたちちゃんと知ってるわ。でもどうして最後までこらえて突っ走ることができたのか思うところがあるなら聞いてみたいわね。特に今回の戦はその気になれば途中で辞めていくらでも帰って来れたでしょ?」
「あー、確かにそうなんですけど……」
改めて指摘されると、先の戦いは誰かに強く命じられたわけでもなく、放置したとしても私や仲間が死ぬような目に遭うわけでもなかった。
それなのに最後まで駆け抜けられた、一番の要因はどこまでも明確で。
考えずとも、自ずと口から出た。
「立ち止まった後悔は、取り返しがつかないと思ったんです。そのせいで今までも嫌になるくらい、流したくもない涙を流してきましたから……」
新宿の雑貨店で火事に遭ったときから数えて、もう思い返したくもない。
なにもしなかったせいで、後悔の海に溺れ続けたのだ。
言葉の中に疑問を感じた塀貴妃が質す。
「けれど進み続けるためには、文字通りなんらかの力が必要でしょう。覚悟だけでは踏みとどまることはできても、次の一歩を踏み出す原動力になるのでしょうか」
さすがに真面目な彼女だけあって、論理的な問いである。
自分の中に芯があっても、その芯は硬いだけで前に進んではくれない。
動力は、別のところから来るんだ。
けれど私はその難しい問題に対する、とてもシンプルで分かりやすい答えを提示できる。
今までの道のりが、それを教えてくれたから。
「ちっぽけな私が諦めずに一歩ずつでも先へ進めたのは、大切な人たちの顔を思い浮かべたおかげです。本当にたくさんの人たちの顔を、できる限り、一人でも多く……」
お守りとして隠し持ち歩いている乙さんの形見、指ほどの刃しかない小さな刀。
服の内でキュッとそれを握り締め、私は思い出す。
今回の戦に関係ある人も、関係ない人も。
もうこの世にいない人も、またいつか再会できる人も。
多くの人から私は勇気と決意の種をもらい、それにせっせと水をやるのをサボらなかっただけ。
「そうしていると、気付いたときにはいつの間にか、姜さんの前に立っていました」
私の命をあの決戦まで運んだのは、決して私の力と意志だけではない。
本当に、数えきれないくらいの「みんな」の想いがあったおかげなのだ。
その答えに辿り着くことができて、この話を彼女たちに聞いてもらえて。
私は今、とても幸せだ。
「それとは別に私、もう一つみなさまに白状しなければならないことがあるんですけど」
幸せついでに、この素敵な人たちに、私の秘密を正直に話しておこう。
なぜかわからないけれど、急にそう思ったのだ。
いつか誰かに話したかったと思い続けていたことが、今まさに最高のタイミングなのだと天啓が下りたのだろうか。
「なによもったいつけるわね。今さらなにを聞かされたって驚きはしないわよ」
「隠し子でもおるんかいな。ならむしろめでたいこっちゃで」
「なにか重大な問題を抱えているのなら、解決に力になるわ。なんでも言ってみて」
三者三様の反応を貰い、妙に面白くて気持ちも軽くなる。
そして私は。
今まで誰にも、翔霏にも軽螢にも、もちろん姜さんにも告白したことのない、たった一つの隠し事を打ち明けた。
「実は私、この世界の人間じゃないんです。故郷が遠いとかそういう問題ではなくて、理屈もなにもかも違う世界、神さまも怪魔もいない、八氏が使える不思議な法術も存在しない世界で生まれ育って、二年前になぜかここに来ちゃったんです。理由はホント、わからないんですけど」
固まるお三方。
とうとう頭のおかしなことを言い始めた、可哀想なやつだ、と思われているのだろうか。
気にせずに私は続ける。
「だから私は、家族も仲間も友だちもいない、この世界でたった一人ぼっちなんだって思っていた時期がありました。私一人で生きて行くんだから、もっと強くならなくちゃ、賢くならなくちゃ、しっかりしなくちゃってずっと思ってて……」
話しながら様々な思い出が胸に去来し、涙が溢れる。
けれでこれは哀しい涙ではない。
私はもう、悲哀と孤独の先にある答えを見つけたのだから。
「でもいつの間にか、私は一人ぼっちでもなんでもなく、私の心の中はたくさんの大事なもので満たされていたんです。どうしてこうなっちゃったんだろうと泣いた夜も数えきれないくらいありました。けど、今は堂々と自信を持って、そのとき泣いていた過去の私に、こう教えてあげられるんです」
涙を拭いて、顔を上げ、胸を張り。
三人のお顔をゆっくり順に見つめ、私は晴れた気持ちで言い切った。
「私、今、すごく幸せなんだよって。私は幸せになるためにここに来て、そのためにここにいるんだよって、昔の自分に言ってあげられる。長い時間がかかりましたけど、やっとそう思える自分になれたことが、本当に嬉しくて、幸せです……」
論理は循環し、因果が意味を成していない。
始まりと終わりは曖昧なもので、明確に区別をつけることはできない。
それも、私が円環の哲学の徒であるからか。
幸福な落涙にただ身を任せている私の頭を、翠さまが優しく薄い胸に抱いた。
「そうよね。あんたもあたしもみんな幸せになるために生まれて来たのよ。あんたが自分の幸せを見つけられてあたしも幸せだわ。あたしたちのところに来てくれてありがとうね」
「はい、はい、私こそありがとうございます……」
翠さまの深く柔らかい慈愛に包まれながら。
私は今、埼玉の北原麗央那であった過去の自分と完全に決別し。
昂国の女官、麗央那として、これからも生きて行くんだなと自然に思えた。
おそらくはきっと、もっと以前から。
本当は、そう思っていたはずなのに。
意気地なしで未練がましい私は、それを認めるのが、言葉にするのが怖かったのだ。
「なんやようわからへんけど、幸せならええんちゃう?」
「不思議な生まれである気配は、朧げに感じていましたけれど……だからと言ってあなたが一人であるなんて、そんなことがあるものですか」
漣さまと塀貴妃も、傍に寄って私の肩をギュッと抱く。
素敵な場所で、素敵な人たちに祝福されて。
私は、次の人生を本当の意味で、やっと踏み出す勇気を貰った。




