三百三十四話 円環、二人を繋ぎ
納屋の土間地に広げた白い衣服。
燭台を脇に構えてそれを照らし、肌着姿になった私はまず宣言した。
「今から、円周率を書けるだけ、書きます!」
「は、はぁ……なんて?」
若干後ずさりして素っ頓狂な顔を示す姜さん。
いったいなにが始まると勘違いしていたのかね。
「だから、円周率ですよ。円の直径に対しての周の長さ、その割合。姜さんも頑張って計算してたんじゃないですか?」
お前が病的な円球オタクなことは、まるっとお見通しだ!
「あ、ああうん。せやな。昔からヒマ見つけて、ちまちまやっとるよ。なんや央那ちゃん、僕が書いた算術の本を読んだんか?」
「ええ、ここに来るほんの少し前に。中書堂のどうでもいい役人さんからオススメされまして」
私はまず、白地の上に墨筆で「三、一四」と書く。
円周率がこの数よりわずかに大きいことは、すでに姜さんも知っている。
彼が編纂した算術テキストの中にそれを示す問題があったからね。
「そん次は一や。ほんでその次が五なんか六なんか、まだちょっと自信がないねんな」
三、一四一……五もしくは六。
そこが姜さんのライフワークである、円周の秘密を解き明かす作業、その中間到達点。
けれどまだまだ、その道のりは半ばにも届かぬほど果ては遠いことを、算数や数学を学んだものなら誰でも思い知っている。
「苦労して計算した姜さんには悪いけど、私はそのさらに続きを知ってます。もちろん私が自力で頑張って計算したわけじゃなくて、余所の凄い天才たちが機械を使って捻り出した数字を、ただ覚えてるだけなんですけど……」
「かあ~、ヒマ人がおるもんやな。世の中広いわ」
先を越されても悔しくないんだな、と思わず私は笑う。
楽しくなってきた気持ちを抱えて、後に連なる数字を書き足して行く。
三、一四一五九二
今や錆びついてしまった、受験戦士時代の脳細胞よ。
六五三五八九七九
今一度、ここに「無駄になんか覚えちゃった円周率」を、限界まで呼び覚ませ!
三二三八四六二六
姜さんを今だけ、ほんの少し面白がらせる、たったそれだけのために!
四三三八三二七九
私の想いよ。
筆を持つ手に力を与え、世界の秘密をここに知らしめてくれ!!
五〇二八八四一九……
「ええっとなんだっけなんだっけ……ああそうだ、小鬼母良い苦無、で七一だ!」
七一六九三九九三
自己流の勝手な語呂合わせで、なんとか続きを思い出す。
七五一〇五八…………二〇!
ひたすらブツブツ言いながら布に数字を書き連ねる私。
九七……四九四……四五……九
見守っていた姜さんが、ぽつりと漏らした。
「綺麗やなあ」
二三〇八七
……あれ?
八七じゃなくて、七八だったかもしれない……。
迷いに脳回路を乱された私は、もうそれ以上を書くことができず。
「……ちっくしょう、中学のときは小数第百位まで暗記してたのに」
筆を止め、ぽとりと涙を落とした。
ほうほう、と面白そうに数字の羅列を眺めた姜さん。
なにかを思いついたようで、私の手から墨筆を奪い、余白にすらすらと書きはじめた。
「これ、三百五十五を百十三で割ったら、まあまあ近い値が出るんちゃうかな」
そう言って彼が途中まで計算した結果は、3.1415929。
一瞬でこの近似値を出すなんて、こいつの脳味噌はラマヌジャンOSでもインストールしてやがるのか。
そしてなにより、この数字は……。
「乙さんが死ぬ前、私はこの分数を彼女に教えたんです。いつか姜さんが彼女の口から伝え聞いたら、びっくりするだろうなって思って」
「そっかあ。それは叶わんやったけど、こうやって央那ちゃんが教えてくれたんが、今は嬉しいわ」
しみじみと言って、姜さんは再び円周率の表記に目を戻した。
「不思議やね。どう見てもバラバラやと思うねんけど、なんや大事なもんが隠されとるようにも見えるやんか」
規則性があるのかどうか、完全なランダムであるのかどうかも分からない、混沌と調和の数。
そしてどんな方程式の解にもならない超越数、それが円周率。
円環の真実を人は理解することはできず、ただ「そうあるもの」として受け止めるしかない存在。
その魔力に惹かれた人間は歴史上、数え切れないほどに存在し、目の前にいる痩せた魔人もその一人なんだ。
「そうなんですよね。人間の意思とは関係ない自然な数字のはずなのに、なにか『意図』とか『作為』みたいなものが感じられるって言うか。上手く言えないんですけど……」
拙い私の見解を聞いて、ふむ、と考える素振りを見せた姜さん。
再び筆を執ってすらすら書き始めた。
彼は円周率にπ(パイ)ではなく「无」という、未知や無を表す字を仮に充てて、以下のような仮定を提唱した。
「まず『无』を四で割ってみよか。だいたい千分の七百八十五やね」
3.14÷4だから、0.785である。
「そうですね。って、なんで四で割ったの?」
「神さんの力を借りたんや。東西南北に一柱ずつ、四柱いてはるからね。央那ちゃんも見たんやろ?」
「はあ……いや確かに見たと言えなくもないですけど」
円環の秘密を探っているはずなのに、なぜ四角四面な恒教の観念が出て来るのやら。
天才の思い付きには、ついて行けん。
それよりこいつ、央那ちゃん「も」と言いやがったな?
姜さんもかつて、神さまたちのお姿に拝したことがあるのだろうか……。
私の困惑を知らぬ顔で、姜さんは目を爛々と輝かせながら仮説を立てるのに没頭する。
「この小数七八五っちゅう数に、なんか意味が隠されてるんちゃうかと思うねんけど。央那ちゃん、なんか思い付かん?」
「言ってることが突飛過ぎてさっぱりわかりませんよ」
役立たずの助手を放置し、姜さんは土間にガリガリと木の棒で、やたらめったら計算式を増やしていく。
その中に出て来た一つに、次のようなものがあった。
1-1/3+1/5-1/7+1/9-1/11+1/13-1/15……
単純に見えて七面倒臭い、分母の異なる分数の計算式である。
足し算と引き算が交互に現れて、なおかつ足し引きされる数の分母が「3,5,7,9,11、13、15……」と、奇数並びで規則正しく、一つずつ増えて行く法則性がある。
「なんでいきなり今度は奇数の連続が出て来たの?」
「恒教の四やら八やらいう偶数だけやと、円の謎は明かせんと思っただけや」
とりあえず思い付きでやってみるスタイルか、姜さんの流儀は。
「えーとこれを約分して計算したら……」
根気さえあれば答えは出せるだろう。
諦めの境地で心を無にし、空いている布の余白と土間の土に、ガリガリと計算結果を書き、姜さんに伝える。
「うーん、確かに0.7から0.8くらいの値にはなるみたいだけど、あんまり関係ない気がする……」
「さよか。ええ線行っとると思たんやけどな」
へこたれずに別の仮定を立てて、土の上に新たな式を立てる姜さん。
それを見た私は、あることに気付く。
「その手に持ってるの、私の作った毒串じゃん!」
指摘されて、おや、という顔で姜さんはおどけた。
「ずうっと前にな、乙のやつが道端で回収したのをもろたんや」
「あー、覇聖鳳を北方で追っかけてたときに、途中のどっかで落としたやつかな……」
私が最初に木を削って作った、八本の毒串。
すべて使い切ったか、落として失くしたかと思っていたその最後の一本は、姜さんの胸の内にあったのだった。
忘れもしない、私が毒女として生きることを決心した、記念すべきアイテム。
朱蜂宮の物品庫で、神台邑の仇である覇聖鳳を殺すため、毒物を勉強しながら制作したものだ。
「細くてちっぽけやけどな。しなやかで十分に強いし、尖っとって毒もある」
筆記用具代わりにしているそれをしみじみ眺めて、姜さんは言った。
「まさに央那ちゃんそのものやないか」
「それ、褒めてんの?」
かはは、と笑って姜さんは細かい言及をはぐらかした。
姜さんはその後も、狭い納屋の土間や衣服の裏地にひたすら円周の神秘を暴くための仮定を書き散らす。
私は彼の示した式が正しいかどうか、一心不乱に計算しまくる機械と化して、ああでもないこうでもないとブツブツ独り言を放つ。
「これもあかんかぁ。どないなっとんねんいったい。早う正体を見せたってやホンマ」
咳止め、痛み止めの薬をぼりぼりと齧りまくり、押し寄せる眠気はお茶を飲み続けることで彼方へ追いやる姜さん。
「行き詰ったときは甘いものですよ。飴ちゃんならたくさんありますからどうぞ」
私も酸味と甘みの暴力みたいな果実飴をガリガリと噛み砕き、ひたすらに次の計算へと挑む。
「央那ちゃんが使うとる字、なんや見たことないけったいなシロモンやな。ミミズでも這っとんのか」
私の用いるアラビア数字、12345をしげしげと観察して姜さんが興味を持った。
「故郷で使ってた数字です。画数が少ないんで、覚えたら大きいケタの計算に便利ですよ」
「ほーん、ほなら僕も試してみようかしらん」
私がとやかくあれこれと説明するまでもなく。
姜さんは横書きのアラビア数字計算を瞬時に身に付けて、自分の立式や計算に早速適用する。
頭良すぎてムカついて来るな、こいつ……。
私もなんだか意地になり、弱音を上げたくなるほどややこしい計算を引き受けて、やっぱり円の理からは見当違いで、姜さんに報告する。
「今回もダメだったよ!」
「しゃあない、次行こか、次」
時間も忘れて数字との格闘に没頭する二人。
なんだか他に気にしなければいけないことが、色々あった気がするけれど。
知らん、どうでもいい!
今、私と姜さんは。
世界の真理へと到達する作業に、忙しすぎるんだ!!
「あ、姜さん、姜さん」
どれだけの思考と試行を繰り返したのか。
時間も空間も、自分と他者の境界も曖昧な感覚で私はうわ言を漏らす。
「……うん? なんや?」
「なんか、わかった気がします、私」
「ほんまか」
「ええ。二乗とか三乗の式を使うんです。累乗と平方数や立法数、姜さん得意でしょ」
「まあな。そこそこのもんやで」
「それをね、分数の分母に……」
「ほう、そしたらどないなるねん」
「……分母の中に、さらに分数を入れてね、そしてね」
「まぁた面倒で面白いこと言いよるなあ。そうすっとどないやねん?」
「…………うん、奇数の、連続する分母に、あれを、あれして、こうして」
「ははは、央那ちゃん、もうおネムかいや。ええんやで。ゆっくりおやすみ。なんも気にせんと、ゆっくり……」
「ね、寝てないっすよ。私寝かせたら、た、たいした、もんだ……」
空白。
漆黒。
朧げに。
霞がかり。
朝ぼらけ。
鳥が啼き。
「おおきにな、央那ちゃん」
隙間から差し込む朝日が顔を照らす。
「暑い……」
目が覚めると、外がなにやら騒がしい。
「……うぅーん。姜さん?」
私はいつの間にか、姜さんが仰向けで寝るそのお腹を枕にしていた。
「姜さん」
呼びかける。
口の端から血を流している彼は。
「姜さん」
私の呼びかけに応えることなく、安らかな顔で眠ったままだった。
ずっと、もう、目覚めることのないまま、静かに息と鼓動を終えていた。
「さようなら。またいつかどこかで」
涙はもう出ない。
私は姜さんのために。
私のできることを、すべてやったのだから。
「さようなら。私、姜さんがいなくても、頑張るからね」
憧れて、目標としていた、他の誰よりも大きな存在を失い。
それでも私は、次の一日を生きて行く。
どんな未来でも、かかってこいや。




