三百四話 心の中、世界の果て
憤死、という言葉がある。
人は怒りや心理的ストレスだけで死ぬ場合があり、それは哀しさだったり恥ずかしさだったりもする。
私のはさしずめ「もう、嫌だ死」というところだろうか。
気を失い、闇の中に招かれた私。
呼ぶ声も、慰める人も、此処にはありはしない。
いつもなら私が限界を迎えたとき、夢の中にはお助けキャラが登場したものだ。
彼らは私の心を調整し直して最適化し、思考と感情のドツボから抜け出す手助けをしてくれたのだけれど。
人間、死ぬときは孤独に、一人なのかな。
最後の最後に学んで理解した答えがそれだなんて、哀しいな。
乙さんは私の手を握り、笑顔で逝ってしまった。
せめて今の私みたいな気持ちでなかったことを、祈るだけだ。
『ほんとだよ。せっかく何度も『帰った方が良い』って言ってくれたのに。あんたのせいで乙さんは死んだんだから』
「誰じゃい」
声が聞こえた。
一人きりの私に、今さら声を与える存在なんて、いないはずなのに。
『斗羅畏さんを慕ってた女の人も、翔霏みたいに強くなるんだって頑張ってたお姉さんも、あんたの口車に乗せられて、南側の道を進んだせいで死んじゃった。きっと斗羅畏さんだって、気の優しい老将さんだって、まだまだ厄介な連中に絡まれて襲われて、みんなみぃんな死んじゃうよ。あんたの責任だからね』
声の主は無遠慮に、一番聞きたくないことをピンポイントに、イヤミな口調で並べ立てた。
わかってるんだよ、そんなことは。
なにもかも、私が余計なことをしたせいだ。
誰よりもそのことを、深く理解している、暗闇の中の声の主は。
「あんたは、私か」
『誰でもいいじゃん。誰でもないかもしれないんだし』
これはきっと、私の中にいるもう一人の私。
泣いて、怒って、じたばたもがいているチンケな小娘、北原麗央那。
そんな愚かな生きものを内側から、あるいは少し離れたところから、今までずっと傍観し続けて来た、意識を超えたもう一つの自我、みたいなものだろうか。
親でも友人でも、恩人でも他人でも、もちろん敵でもなく。
最後に私の夢に現れたのは、もう一人の私自身か。
裏を返せば確かに、誰でもない、存在し得ないものとも言えるね。
「で、もう一人のわたくしめに、いったいなんのご用でしょうかね、無意識のなんちゃらエゴさんは。私なんかじゃここらあたりが終点だって、引導を渡しに来たの?」
『うーん、この期に及んでもわかってないみたいだから、いい加減、気付かせてあげようかなって思って。あんたがもの知らずのバカなままいじけてると、私もなんだか自分ごとのように恥ずかしいし』
「いや自分じゃん」
私の冷静で的確な突っ込みはスルーされ、声の主は説く。
聞き分けのない子どもにものを教えるような、まだるっこしい言い方で。
『さてここで問題です。埼玉生まれの小市民、北原麗央那さんですけど、これだけは人に負けないという特技が一つだけあります。それはなんでしょうか?』
「え、それは」
考えるまでもなく、答えは一つだ。
自信があるわけじゃないけれど。
他になにもない私は、こう答えるしかなかった。
「勉強……習って、学んで、身に付けて、少しでもいろいろなことがわかるようになりたいって言う、それだけの気持ちだよ」
『正解です。さすがは中学生時代に、全国学力テストで百位以内を取った才女ですね』
「過去自慢とか恥かしいから、マジやめろし」
そもそもただの業者テストだから、日本全国の全中学生が受けてるテストじゃないからね。
ちょっと結果が良かったからと言って、なんの自慢になるのかという話である。
『じゃあ二問め。あなたが最初に昂国に来たとき、八つ目狼の巨大な怪魔に襲われました』
「懐かしいなオイ」
翔霏にはじめて会い、助けてもらったときだ。
あのときから、神台邑と私の物語は始まったのだ。
『泣いて逃げることしかできなかった麗央那さん。けれどその後はなんとかかんとか、怪魔に襲われても生き延びました。特に毛州の岩場で出会った、謎かけを口にする豹の怪魔は強大な敵でした」
「これまた思い出深い話が出て来たね。確かに彼は、うん、怖かったわ……」
思えば哀しい怪魔だった。
人と魔の中間で、懊悩しながら何十年、何百年も過ごして来たなんて。
『あんたが彼の爪牙から生き延びたのは、なぜでしょう?』
「そりゃあ、彼は獣になっちゃっても、かろうじて人の心が残ってたし、言葉も通じたから」
『違うよ。それは状況であって原因じゃない。温度がいくら高くても、燃えるものがなきゃ炎は出ないでしょ。真の因果を考えなさい』
ムカつく言い方だな、くそう。
まるで学校の先生や仕事場の偉い人に、失敗を詰められてるみたいな気分だ。
出来の悪い生徒を相手に、それでも粘り強く答えを引き立たせるメソッドで、影なき声の主はさらに問う。
『思い出して考えて。首都の郊外で小型の怪魔を追っ払ったときを。さっき乙さんが死んだときの、崩れた岩場の上で二体の大蛇を退けたときを』
思い出せと言われても。
だいたい、怪魔に会ってどうにかしたいときは、怒って、怒鳴って、叫んで……。
そうだ、豹の怪魔さんを覇聖鳳にけしかけたときも。
私は、はちきれんばかりに、怒っていた。
全身を燃やして、焦がして、焼き尽くすような、強烈な怒りに包まれていた。
運命に、目の前の現実に、ただひたすら憤り、絶叫していたんだ。
すべての状況に共通している事実から、一つの結論を出すとすれば。
「……怪魔が、私の怒りを怖れていた? あいつらみんな、私が怒鳴って怖気づいたから、私を襲うことをやめたの?」
まさかそんなことがと思うけれど、他に答えは見つからなかった。
『正解。よくできました。そしてそれが、あんたがこの『世界』を少しだけ、変えることができる原動力。もっと思い出して。覇聖鳳に邑を焼かれたとき。翠さまが呪いに倒れたとき。突骨無さんと斗羅畏さんが分かり合えなかったとき。小獅宮のふもとの邑が、伝染病に襲われたとき。南部の中州で、軽螢が刺されたとき……』
どれも、ありありと思い出せる。
どのときも、私は狂うほどに怒っていた。
怒りが私を動かしてくれるのならば、私は怒りの炎に焼き尽くされ、真っ白な灰になっても構わないと。
本当に心から、魂の底から思っていた。
影は語り続ける。
『あんたの怒りは、力を持ってる。あんたの怒りは、目の前の現実を変えられる。エネルギーと質量、物質はお互いに変換できるって、物理学でも証明されてるでしょ』
「なんでいきなりアインシュタインの話になるんじゃい。エネルギーは質量かける光速の二乗に比例する、だっけ?」
世界で一番美しい物理式と言われる、E=mc2乗、ってやつだ。
ここでは物質はエネルギーであり、エネルギーは物質だと説明される。
ああ、それが本当ならきっと。
怒りのエネルギーが消費されればいずれ質量に変化し、物質世界を書き換える力があるのかもしれないね。
私が怒りまくってると、最終的にはブラックホールができるわけか。
ちょ、私、世界の破壊神じゃん、ガハハ。
笑えねえわ。
『ま、それはたとえの与太話だけど。でもあんたも薄々、自分が特別だってことは気付いてるでしょ。ただの小娘が、怒鳴り散らすだけでここまでのことができるわけがないし、ありがたいことに四柱もの神さまにだって会えたじゃん』
「私だけの力じゃないし。みんながいて、助けてくれたから」
主に翔霏だけれど、他にもたくさん。
うん、本当にたくさんの人に支えられ、力を貸してもらって。
そのうちの一人が、乙さんだった。
だからこそ、彼女を失って空いた心の穴は、これほど大きいんだ。
『それだけだと、あんたが急に昂国に飛ばされて、言葉が通じてる説明にならないじゃん。世界のほうが、あんたの感情エネルギーで変わったんだよ。そのエネルギーの使い道を、あんたは今までの旅と戦いで、少しずつ学んできたはずなのに、活かそうとしないんだもんね。そんなことあるわけないって、自分の知識に蓋をして、見ないふりしてたんだもんね』
「違う、違うもん。私は今まで、学んで、身につけて来たことで、乙さんを助けようと……本当に、必死で、全身全霊で……」
『哀しかったよね。あんなに目の前すぐ近くで、大事な人が死ぬのは、はじめてだったもんね。お父さんも、お婆ちゃんも、石数くんも、あんたは死に目に遭えなかったもんね。乙さんの身体から血がどんどん流れていくときに、あんたははじめて乙さんを大事に想っていた自分に、やっと気づいたんだもんね。面白いお姉さんだった、本当はもっといっぱいお喋りしたかったって』
「うるせえ!!」
麗央那、無意識の自分にキレるの巻。
こいつは私だからこそ、私の一番、触れちゃならないところに遠慮なく手を伸ばして来る。
けれど、いくら自分であろうとも。
それを言うなら、戦争しかねえんだ!!
「私の怒りが力を持つなら、今まさにその使い道を思いついた! お前みたいなお喋りクソ女を、私の心から追い出すことだ! お前みたいな知った風な口を聞く賢しらなお邪魔虫を、心の中に置いてなんかいられねえわ!!」
『え、いやちょっと待って、まだ話は終わってな』
「あーもうお引き取りください! これから哀しみを乗り越えて前に進むためにいろいろ忙しいもんでね! 続きがあるなら私が寿命で死ぬときにして!? それまで長いお別れですお疲れさまでしたー!!」
『そんなバカな話あるわけないでしょ。私はあんたの心の裏側にへばりついてるようなもんなんだよ? それを無理矢理引き剥がそうとしたらどうなるか』
「知らねえよバーカ!」
私は持てるだけの怒りの力を、イメージの中でなんらかの形にする。
こいつを追い出して黙らせるために、一番ふさわしいものは。
そう、光だ!
白く柔らかい日差しではなく、轟々と燃え盛る火柱の灯りだ!
地獄のようになんか暗くてウジウジジメジメするところで、もう一人の自分と対話なんかしてるから、良くないことがいっぱい心に沁み込んで来るに決まってる。
火を焚け!
怒りを燃やせ!
誰も近寄れないくらいの灼熱の火柱で、私の心をさっぱり綺麗に掃除してやる!!
『こ、後悔するからね!? 私を追い出したら、大変なことになるって』
「どうでもいい! もう来んなよ! 目覚めたら新装開店麗央那ちゃんでーす! 予約のないお客さまはご遠慮くださいね!!」
『お、おのれー! これで終わる私と思うなよーーーーー!! 思うなよーーーーー……』
小物ザコのような負け惜しみとともに、裏麗央那(仮)は消えた。
もともと私の心に生じたおできのような存在だろうし、大したことにはなるまい。
心象世界を業火で照らしてしまったせいで、実際に私の体も熱くなっている感覚がある。
肉体を意識できるということは、目覚めが近いんだろう。
気を失う前は、死んでしまうかと思ったくらいに怒り狂って、哀しみに絶望していたはずなのにね。
「どうやら私の怒りのキャパは、無限大らしいな。どうあっても憤死なんかできそうにないや。それか限界を超えた怒りが生じても、別のなにかに変換されてるのかも」
つまらない長話の果てに去った、もう一人の私。
だけれど、それを教えてくれたことは感謝してやろう。
私はこれからも、怒って、怒鳴って、叫び続ける。
広大な世界を相手に、小さな女の怒りの力を見せつけてやる。
正義でも、愛でも、昂国の平和のためでもない。
ただひたすらに純粋な、この一念を、喰らえ。
「まずは姜さんだ。私のあふれ出る怒り、矛先の餌食になってもらうよ。どんな泣きごとを述べるのか、今から楽しみだな」
笑って私は、目覚めを迎える。
右の掌に軽螢が握るぬくもりを感じる。
起きたら、まず謝っておこう。
みんなにはこれから、もっと迷惑をかけることになりそうだから。
新しい私は、前にも増して激怒と絶叫を撒き散らすから。
それで世界が、少しでも変わるなら。
ああ、きっと。
たまらなく愉快だろう。
怒りの聲と叫びよ。
世界に、届け。




