三百三話 さよならだけが人生ならば
視線の先にいる髭面の男が、引き絞った弓の弦を手放したとき。
私はなぜか、乙さんとの出会いの日を思い出していた。
あれは覇聖鳳を倒すために、やつの本拠地である重雪峡に、変装して忍び込んだときだ。
ああ、そうだった。
覇聖鳳の母親に正体がばれた、私と椿珠さん。
本来なら山深い冬の大テントの中で、体中を切り刻まれて死んでいたはずだったのだ。
別の目的で忍び込んでいた乙さんが、滅茶苦茶に暴れて覇聖鳳の母親を人質に取ってくれた。
おかげで、私は今、生きていることができるのだよな……。
足場の悪い岩の上では、矢を避けることもできないニブちんの私。
今まで実に多くの人が、転がり落ちそうだった私の命を拾い直してくれたのに。
とうとう、年貢の納めどき。
つまらない顔の、名前も知らないオッサンに、殺されてしまうのだな。
そこまで考えて、私の視界が別のなにか……人の背中と後頭部に塞がれた。
「あっ、ぐぅ……」
呻き声とともに、私の眼前で膝を突く女性。
なにが起きたのかは、明白なのに。
意味が分からず私は言うしかなかった。
「お、お、乙さん。どうして……?」
私の前に立ちはだかった乙さんのわき腹に、一本の矢が深々と刺さっていた。
「か、借りるよ、央那ちゃん!」
叫んだ彼女は、私が蛇の怪魔を仕留めるために手に持っていた、特級必殺猛毒串を奪い取り。
「でりゃっ!!」
自身の傷などないかのように気合の入った動作で、それを巧みにダーツのように投擲した。
「あぐわっ!?」
毒串は真っ直ぐ空気を裂いて飛び、私に矢を向けた男の喉に命中する。
苦悶に呻く男の背中に、斗羅畏さんが刀を突きたててトドメを刺す。
彼はそのまま、無感動に次の敵へと襲い掛かった。
喧騒と混迷がまだまだ続く鉄火場の中で。
ひゅー、ひゅー、と呼吸を震わせ、痛みに耐えて上下している乙さんの背中。
「お、乙さん……? 乙さん、なんで……」
他に言葉を失った私はそれしか言えずに、今にも倒れ込みそうな彼女の体を支えた。
「あ、あたしの仕事は、央那ちゃんを見守ることだって、言っただろ……? 耄碌して忘れちゃうには、まだ若すぎるでしょ……」
がっふ、と血を吐く乙さん。
四肢を支える力がどんどん抜けていくのが、横で支えている私にも伝わった。
ハッと気を取り直し、私は気付く。
まだ助かる!
これだけ減らず口を叩けているんだから、乙さんは致命傷を負ってない!
「す、すぐ、手当、するから! ヤギちゃん! 治療道具を!!」
「メェ~~~ッ!!」
すぐさま駆けて来たヤギの頸から、私は道具袋を手に取る。
薬と痛み止め、ヨシ!
針と糸、ヨシ!
消毒用の強精酒、ヨシ!
必要なものは、ちゃんと揃ってる!
「私のせいで、乙さんを死なせたりしないんだから!!」
溢れそうになる涙を大声で引っ込めて、震える手で私は治療道具を取り出す。
それを優しくやんわりと、乙さんの掌が抑えて制止した。
「き、貴重な薬なんだろ、勿体ないから、他のことに使いなよ……」
「でも! でも!!」
「もう、ダメだよ。毒矢が肝臓を、刺しちまった。これでも、暗殺稼業が、長いんでね。机上のガリ勉なんかより、人の体にゃ、詳しい……」
へへっと自嘲気味に笑い、さらに続けて血を口から垂れ流す乙さん。
肝臓だけではなく、おそらく胃腸までも敵の矢じりは傷付けたのだ。
私はそれでも、彼女の言う通りになんかしてあげずに。
「うるさい黙って! 許さないから! こんなことで、こんなところで死んだら絶対に許さないから! 治るんだから! 治してみせるんだから!!」
子どものように駄々をこねて、叫び続ける。
乙さんのお腹から、恐る恐る、でも覚悟を決めて矢を引っこ抜く。
じわあ、ではなく。
どばっ、と真っ赤な血が、傷口から噴き出した。
命の液体が、岩と土の上に、ダラダラと絶え間なく流れ、落ち、零れて行く……。
「こ、こ、こんな傷も、チンケな毒も、小獅宮謹製、麗央那と江雪じるしの最ッ高の丸薬で、全部治るに決まってるんだから! 私にできないことなんかないんだ! 口の悪い姉ちゃんの一人や二人、簡単になおしてみせらあ!!」
傷口にとっておきの霊血薬をいくつも、物理的に押し込む。
あとはとにかく手も患部も徹底的にお酒で消毒して、傷口を縫合するための糸を、糸を……。
ああもう、視界がぼやけて手が震えて、針に糸が通らないよ!!
悪戦苦闘している私を見て、他人事のように面白い顔をして。
ははっと明るく笑い、乙さんは言った。
「もう最期だから、本当のことを、教えてあげるよ。央那ちゃん」
「喋るなっつってんだろこの分からず屋ッ!! 気が散るから黙っててくれないかなあーーーー!?」
「あたしも、除葛のクソ野郎も、央那ちゃんを殺すつもりなんて、微塵も、なかった。でも、除葛の周りにいる誰もが、そう思ってるわけじゃ、ないんだ。あんたは、偉い人からいっぱい、危険視されてるから……」
「余計なこと言ってねえで、黙って怪我が治ることだけに集中しろやこのバカーーーーーーーーッ!!」
不意に、脳裡をかすめる光景を覚える。
ああこれは、半身を焼かれ焦がされて短い命を終えてしまった、神台邑の石数くんの顔だ。
けれど今の私は、あのときとは違う!
知恵だって、勇気だって身に付けた!
逃げずに立ち向かっている私に、乗り越えられないものなんてあるものかよ!!
「と、斗羅畏と央那ちゃんが、一緒にいる、なら、足止めするだけに、留めるつもりだった。今、そうなってないのは、除葛の意図を、超えた展開だよ……」
「わかったから! 全部わかってるから! もう喋らないで! 目を閉じて楽しいことだけ考えて! 私だって乙さんのことを本当は敵だなんて、思ってなかったから! 全部終わったら仲直りしよ!? 神台邑で豆腐をご馳走するよ!!」
真実なんて、今この際どうだっていい。
姜さんの思惑も、反乱を起こした人たちの真意も、なんだって構わない。
あなたに、死んで欲しくない!
ただそれだけなんだ!!
私の言葉をやっと、少しだけ聞き入れてくれた乙さん。
いつになく柔和な険の取れた表情で。
囁くように、とても大事なことを、私だけに言い含めるように。
祈るように、呟いたのだ。
「命の巡りが、本当に円環だってんならさ……」
目を閉じた乙さんは、救われ解放された満足感を滲ませ。
「あたしも、いつか生まれ変わりたいな。あんたたちが作る、新しい神台邑に……」
言い残して。
彼女の命は、鼓動を止めた。
命の重さが、乙さんの身体から抜けて出て行ったことを、私は理解した。
「あ、あ、あ、ああ、ああああ、ああああああああ」
私は。
自分のこの両の掌で、掬い取れなかった命そのもの、重さを前にして。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
なにもかもが頭から飛んで行き、絶叫を発するだけの存在と化した。
「オォン! オォーーーーーーーーーーーン……」
なぜかそのとき、近くで野犬が切なく遠吠えする声を、聴いた気がする。
わからない、もうなにもかもがわからない。
もう、どうだっていい。
こんな思いをするのなら。
こんなに哀しいことを、目の前にしなければならないのなら。
「もう全部、なくなっちゃえーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
私の絶望を号令にしたように。
「も、もう無理だ、ちくしょう……!」
私が乙さんにかかりっきりの間、一人で大蛇の怪魔二体を相手にして呪術を施していた軽螢が、膝を折って屈した。
「ジュラアアアアアアッ!」
「キシュィィィィーーーーーッ!」
戒めを解かれた大蛇が、自由になった体で私の方へと迫る。
けれど、私の面前で睨めっこするように前進を止めた。
怯えたように鎌首を細かく動かし、前後左右をきょろきょろ伺った怪魔たち。
「シャーーーーーーーー!!」
まるで、気が変わったかのように私を無視して、敵が固まる場所へと勢いよく這って行った。
「お、おいぃ!? どうなってる!?」
「なんで俺たちの方にだけ来るんだよ!!」
「ぎええ! た、助けてくれえ!!」
二体の大蛇が、次々と自称赤目部の流れ者たちを丸飲みにして行く。
斗羅畏さんとその仲間たちをあえて選別し避けるように、正確に敵の群れだけを蹂躙する。
「ど、どうなっている……!?」
唖然としてその光景を見つめる斗羅畏さん。
「わ、わからんが今が好機じゃ! 殿、退いてくだされ!!」
蛇たちが敵へ襲い掛かる混乱の隙に、傷だらけの老将さんは斗羅畏さんの手を引いて、私のいる土砂崩れの現場まで退避した。
「麗どの、ご無事か!?」
「あ、ああ、姉ちゃん、姉ちゃんよぉ……」
私の体を抱えて肩に乗せる巌力さんと、乙さんの死体に取りすがる軽螢。
そうしているうちに、分断された後続の隊が、土砂を乗り越えて合流してきた。
「大将、済まねえ! 怪我はねえか!?」
「てめーらぁ、やってくれたじゃねえかーーーーーー!!」
「千倍返しだ! 全員挽き肉にしてやらあ!!」
地響きすら感じさせる怒号と共に、男たちが雪崩れ込む。
「ひ、ヒィ! 失敗だ、逃げろ!」
「逃げるったって、どこに……ぐぎゃああ!!」
「誰だよ、サル女がいないから楽勝だなんて言ったやつは!?」
敵は完全に混乱と恐慌をきたし、秩序なく逃げ回り、一人一人が丁寧に殺されて行く。
あるものは大蛇の喉の奥へ。
またあるものは鋼の憤激に切り刻まれ。
「ゴミどもめ! 俺から逃げられると思うな!!」
「ぎゃあ!」
修羅場を脱しようとした誰かは、斗羅畏さんの正確無比な射撃に胴体を貫かれて。
一人残らず、掃除をするように、命の群れが掃き捨てられ。
やがて、静かになった。
二体の大蛇も、役目は終わったとばかりに斗羅畏さんの仲間たちに、撃ち殺されてしまった。
刃向うものが誰一人といなくなった、山深い道の上。
仲間も敵も、たくさんの命がここであえなく終わり、ただ土に還るだけの運命を前にして。
「あ、あはは、あははははは……!」
これが、きっと私の望んだ光景なのだ。
私は欲しいものを手に入れたのだと思い、微笑みの中、意識を失った。




