8 長ネギと愛のスープ
『竪堀陽毬を特別学級に転籍させる件だが、可能かどうかだけで話すのなら——可能だ』
レシュリアは善は急げとばかりに有栖に電話で転籍の件を相談する。
「本当ですの!? でしたらすぐに——」
『だが、それが何になる?』
電話越し、有栖の低い声が、レシュリアの言葉を切り裂いた。
『不名誉なポスターは、特別学級にいようが貼られるだろう。
まだ学内で収まっているならいい。ずる賢い一部が面白おかしくメディアに流したらどうする? それも富士宮と源道寺の名で火消しするのか?』
「……それは」
『竪堀を妬んでいる者は、レシュリアと文香という個人を見ていない。その後ろの“家”を見て妬んでいる。
お前たちが家の力を使うほど、いじめは加速するだろう』
有栖の声は淡々としていた。けれど、言葉の一つひとつが重かった。
レシュリアは息を飲む。
——結局、力では救えない。
家の名前を背負った彼女たちは、その重さを初めて知った。
『無力な教師が何を言っているんだと思うかもしれないが……竪堀が一人で立ち向かうしかない。
だが、転んだ時に手を貸すことはできる。足がすくんだ時に、背中を押すことはできる。苦しくて倒れそうな時、支えてやることはできる』
有栖の声は優しかった。
『それが、”富士宮”でも”源道寺”でも出来ない。できるのはレシュリアと文香——お前たちだ』
***
暗い部屋の中。
陽毬はベッドの上で膝を抱えていた。
カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込む。
さんざん涙を流したからか、汗で髪はペタリと肌に貼りつき、息が熱い。
いつもならとっくにお風呂に入って寝る準備をしているころだが、もうどうでもよかった。
(……全部、もうどうでもいい)
外から車のブレーキ音が聞こえた。父が帰ってきたのだろうか。
しばらくすると足音が廊下を渡って、部屋の方へ向かってくる。
(……父さん?)
逃げるように陽毬は膝に顔を強く押し当てる。——その瞬間だった。
「ひまりさあああああああん!!!!」
「ふぎゃあああああ!?!?」
鼓膜を直撃する絶叫。陽毬は反射でベッドから転げ落ちた。
「な、なに!? レシュリア先輩!?」
「私もいるわああああ!!!!」
「文香先輩も増えた!? とにかく一回叫ぶのやめてええええ!!」
耳を塞ぐ陽毬。
時刻は夜八時。傍迷惑な嵐がやってきた。
***
「ちょ、ちょっと! 夜ですよ!? てか、そもそもどうやってうちの住所を……!?」
「有栖姉様に聞きましたの! いえ、“富士先生”とお呼びしたほうがよろしいですわね!」
「個人情報保護法って知ってます!?」
「お風邪と伺いましたの! 風邪には長ネギが効きますのよ! はい、ドーン!!」
レシュリアが抱えていたのは、段ボールいっぱいの長ネギだった。
箱の横には達筆で「友へ」と書かれている。
「いや民間療法!! しかも多い!! 一本でいいでしょ!?」
「まったくレシュリアったら、病人の前で己の愚鈍さを示すのやめなさいよ。陽毬さんは今日はツッコミができないんだから。さて、陽毬さんこちらは文香特製スープよぉ」
隣で鍋を抱える文香。
ボコンと音を立てるたびに蓋がゆれ、隙間から立ち上る匂いはおよそスープではなく劇物のそれ。
「絶対にヤバいやつ!! もうなんか、目に染みる!!」
「元気が出るように、エナジードリンクと、風邪に効く生薬を愛と共にぶち込んで煮込んでみたわぁ」
「絶対に煮込んじゃいけない物をあつめて煮込んでますよね!?」
文香が蓋を開ける。
——中は、もはや“食べ物”ではなかった。
蠢く黒い塊、明滅する謎の気泡。
あれはスープではない。兵器だ。
「これは……保健所か、警察に電話なのか……」
陽毬は開いた口が塞がらなかった。
***
「まあ相変わらず素晴らしいツッコミですわ! お加減はもうよろしくて?」
「冷めたスープは体によくないわよねぇ。失礼、キッチンをお借りするわ」
とりあえず我が家のキッチンで兵器が完成するのは大変よろしくないため、陽毬は鍋を取り上げた。
さて、次はこの金髪の長ネギ女だ。ニコニコと笑みを絶やさず、ネギを取り出して曲げている。
綺麗に洗われたネギの緑と白はとてもきれいで……そして、とても青臭い。
「その、お二人とも。まさか本当に私が風邪だと思ってきてます?」
陽毬は机の上に置かれたままのポスターを見る。そしてとっくに陽毬は気づいていた。この二人はポスターの件で来ている。
だがそれを言葉にはしていない。いっそポスターに触れてくれた方が楽だった。
勝手にやってきて、いつもみたいにバカ騒ぎして……
そんな光景を前に……胸の奥が、ずきりと痛んだ。
彼女たちの明るい姿が、陰鬱とした自分を嘲笑しているようで、苦しんでいる自分が惨めになる。
二人の間にいると、自分が庶民であることを、また思い知らされる。
誰も悪くないのに、どうしてここまで息苦しいのか。
気づけば、歯を食いしばっていた。
心臓が喉の奥までせり上がるようで、息が苦しい。
(なんで……どうして、こんなに——)
明るい声が、耳の奥で木霊する。
レシュリアの笑い声。文香の軽口。
言葉で表せない、ドス黒い感情が胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合って、声にならない悲鳴になる。
そして——
「……っ、帰ってください!!」
喉が勝手に叫んでいた。
「あなた達といると、私は苦しいんです! 富士宮と源道寺に生まれたあなた達にはわからないでしょう!? 私は庶民で、あなた達の光は眩しすぎて、隣にいるだけで……!」
部屋の空気が止まる。
レシュリアがゆっくり、ネギを置いて陽毬の手を取った。
「私は富士宮です。ですが私の友達は私が決めます。そこに富士宮は関係ありません。
——もし貴方が”心無い何か”に立ち向かうことがあったら。私と文香は、富士宮と源道寺ではなく、貴方の友として支えます」
その言葉に陽毬の肩が震える。その肩を文香が抱きしめる。
(ああそうか——この人たちはバカなんだ。バカみたいにまっすぐで、バカみたいに優しいんだ)
「レシュリア先輩……ネギが臭いです……」
「くっ……! 友情の匂いですわ!!」
***
「さて、陽毬さんのお顔も拝見できましたし、そろそろお暇をいたしましょう」
「でも、どうやって帰るのよ……来るときはタクシーに駆け込み乗車したけど、タクシーが走ってそうな大通りまで歩くの?」
「むう……衝動に身を任せた駆け込み乗車がいかに危険か。大変勉強になりましたわ」
「大通りまで出るならネカフェに行きましょうよぉ。一度行ってみたかったのぉ」
陽毬のスマホが震える。
要からのメッセージだった。
《そろそろ回収にいきましょうか?》
《いえ、大丈夫です!》
陽毬は笑った。
「あの……もしよければ、このまま泊まっていってください」
***
「私、こうやってお友達と川の字で寝るのが夢だったんですの!!」
レシュリアが布団の上を転がりながら叫ぶ。
勢い余って文香にぶつかる。
「はしたないわよぉ。でも……楽しいわねぇ」
「あの、お二人とも……私も、いっしょに寝てもいいですか?」
陽毬は小さく笑った。
涙の跡はもう乾いている。
三人の笑い声が、夜の静けさをやさしく埋めていく。
そして部屋の中には、まだほんのりとネギの香りが漂っていた。




