36 宣戦布告
帰りの車内——
買ったばかりの雑誌を、薄明と黎明はまるでバイブルのように丁重に扱いつつも、顔を並べて穴が開くほどの勢いで読みふけっていた。
「まあ……」「なるほど……」
相槌と頷くタイミングまで揃っている。雑誌の内容はどうやらお気に召したようだ。
「姉様、帰ったら早速……」
「ええ。まずは式場選びから始めましょう。この雑誌によれば準備に時間をかけた方が、より良いものになるそうですね。
となると——富士宮さんとは、早い段階で白黒はっきりつけないといけませんね……」
薄明の口元がゆるやかに吊り上がる。それは静かな笑みなのに、妙に恐ろしかった。
弦月のように細めた瞳が、狂気のきらめきを帯びている。
「富士宮家との取り決めの件……ですよね。
義兄様だって、戻りたいとは思っていないでしょう? そうですよね、義兄様?」
黎明までもが同じ笑み——ただし“姉への盲信”という色を追加で濃くまとわせていた。
要は息を整える。これ以上は、もう避けられない——
ここで曖昧にすれば、もっと大きな誤解を生むだけだ。
「その件ですが……まず、入山瀬家と富士宮家の取り決めにより、薄明様の従者としてお仕えすることは了承しております。
しかし——薄明様との婚約、ひいては将来を共にする意思は、私にはございません」
車内の温度が一瞬で下がった。エンジン音だけが細く響く。
「姉様が……不服、とおっしゃるのですか?」
黎明の声音は鋭く、氷のように冷たい。
「不服という以前に、お見合いは途中で終了したはずです。その後、婚姻までにいたる話や、そもそも事態の進展を私は一切聞いていません」
まず事実として、薄明との婚約という話は存在しない。
薄明がやっているのは……一目惚れから始まった自らの想いを、ただまっすぐ、力任せに押し通そうとしているだけだ。
それを理解してるのか、薄明が顔を上げた。
「要くんのおっしゃる通りです。だからこそ、改めて申し上げます」
澄み切った瞳で、まっすぐ見つめてくる。
「要様……私はあなたをお慕い申し上げています。一目惚れであっても、この気持ちは本物。末永く続くものだと確信しています。
その上で——妹の黎明と共に、私たち二人をあなたの妻として愛していただきたいのです」
その純粋さは痛々しいほどだった。
要は視線を逸らさない。ここで逃げれば、それは誠意を欠くことだ。
「お気持ちは、ありがたく頂戴します。
ですが——富士要はそのお申し出を丁重にお断りいたします」
静かだが、芯の通った声。
薄明の瞳が揺らぐ。確かに波紋が走った。
黎明は目を見開き、声を荒らげる寸前で——
「姉様が見初めた相手なら、私だって身も心も捧げる覚悟があります。私達二人を受け入れないと言うのなら、もう力づくで——」
「黎明。……それ以上は、もうおやめなさい」
薄明が妹をそっと制した。
そして要に向き直る。
「要くん。現時刻をもって、あなたを私の従者から解任します……
ただし、富士宮さんの従者として復帰することは控えてください」
「姉様……」
「明日、私から富士宮さんにすべてをお伝えします。あなたへの想いも、私の覚悟も……
その上で——必ずあなたを振り向かせます」
それきり、車内には言葉が落ちなかった。
外の街灯だけが流れつづける。
ガラス越しに映る薄明の目元は、ほんの少しだけ赤い。
——さすがに、それに触れるのは野暮だ。
要はそっと視線を外した。
車は入山瀬家ではなく、富士家の前で止まった。
要が静かに降りると、黎明が一緒に降りてくる。
「“富士様”の私服は、家の者が運んでおりますので少々お待ちを……
明日からは風紀委員室ではなく、以前同様に特別学級へどうぞ。ただ——」
黎明の瞳が細くなる。
「富士宮様の従者ではないことだけは、決してお忘れなきよう。
姉様はあなたを諦めません……それは私も同じです。では、ごきげんよう」
一礼して車へ戻った。
今日は、本当に色々なものが動いた一日だった。
要は重い足取りで家の門へ向かった。
『レシュリア。正直なところ、あなたはどうしたいのよ?』
二十三時前。
レシュリアは自室でベッドに座り、珍しく文香と通話をしていた。
夜も遅く、辺りが静かだからか、やけに文香の言葉が耳に響く。
結局、カフェに要たちは来ず、妨害作戦は不発。
ただの女子会で終わった。
その時に話題となったのが——
「わ、私は……ただ、要を入山瀬さんに取られたくなくて……」
『だーかーらー!! もう!! 違うでしょ!!』
なぜ取り戻したいのか。
その理由を問われているのだ。
文香の動機は単純明快。
——ただ一直線の恋心。それだけ。
では、レシュリアはどうだろう?
「私は、ひとりの女として……要を取られたくないのかしら……」
『かしら、じゃなくて!』
文香の声は呆れと苛立ちが半々だ。
「そういう文香は……いえ、もう言わずともわかっていますけれど……」
『なによその言い方。私がどれほど要様を想っているか改めて聞かせてあげましょうか?
——広辞苑よりも分厚く、純文学よりも情緒的よぉ」
軽口が飛び、レシュリアは思わずフフッと笑った。
そして——ふと思った。
なぜ調理実習の失敗があれほど堪えたのだろうか。
「私は……要に振り向いてほしいのですわね」
主人としてならば、多少の失敗など気にしない。なぜなら優秀な従者が後はどうとでもしてくれるから。
しかし“女”として見てほしいと願った瞬間——なにもできない自分が嫌だった。
——ああ、そうだったんですのね。
レシュリアは気づいた……気づいてしまった……
「……文香」
『……なに?』
「私は……要のことが好きですわ。従者としてではなく、一人の女として」
『ふーん……そう……なら、レシュリアも今日から私のライバルねぇ』
言葉に敵意はなく、むしろ弾むようにワクワクした声だった。
『覚えておきなさい。要様を振り向かせるのは、入山瀬さんでもレシュリアでもなく——この私よぉ』
「寝言は寝てから言ってくださいまし。振り向かせるのは、この私ですわ……!!」
胸を覆っていた霧が晴れるように、気持ちが透き通る。
恋心を自覚してから、胸を締め付けるこの窮屈感。それがひどく不安定ながらどこか心地よい。
通話を切り、レシュリアは勢いよく仰向けになった。
天井へ手を伸ばす。指を一つずつ確かめるように空を掴む。
「要、あなたを必ず……振り向かせてみせますわ……!!」




