31 ヘルズキッチン
昼下がりの調理実習室に、悲鳴にも似た声が響き渡った。
「くっ!! 味噌汁だなんて……!! 終わりですわ!! そんなもの、作れっこないですわ!!」
「そ、そうよぉ!! 藍姉様!! 金を錬金するのと同じ難易度ですぅ!! もっと初心者向けの料理にしてくださいよぉ!!」
ギャーギャーと喚くレシュリアと文香を前に、藍はこめかみをぎゅっと押さえた。
——普段、有栖はこんな二人を指導していたのだ。
ブラコンだなんだと陰でボロクソに言って悪かった。彼女は本当に偉大だった。そんな尊敬の念を抱く藍。
「こう言ってしまうと本職の方に失礼だけど……具を入れたお湯に、出汁と味噌を溶くだけ。カップ麺の延長よ? そんなに身構える料理じゃないわ〜」
そう言いながら、テーブルに材料を整然と並べる。
豆腐、乾燥わかめ、油揚げ……
それと市販の出汁パウダーと、合わせ味噌。
「全部ここのスタッフ用の賄いストックだけど……まあ、今日はこれで十分ね。あなた達二人に鰹節から出汁を取らせたら、日を跨いでしまいそうだし〜」
隣で綾がコクリとうなずく。
「さ、さすがに鰹節くらいできると思いますわ!! こう……刃物で削り取るんですのよね!?」
レシュリアが原住民が石器を作るようなモーションを見せる。
藍は無言で出汁パウダーの袋を握りしめた。
……やはり今日は文明の利器に甘える。
「じゃあ今日は“豆腐とわかめの味噌汁”を作ります〜。思ったより簡単なはずよ〜」
実際、一般的には初めて作る料理としては丁度いい難易度だろう。
そう、あくまで一般的には……
この二人は正直何をしでかすかわからない。こちらの予想を嘲笑うかのように超えてくるだろう。
特に危険なのは豆腐を切る際に包丁を使用することだが……さすがにそこまで固いものでもないし、綾もいるので大丈夫だろう。
——そう判断した自分を、藍は数分後に助走をつけて殴りたくなる。
「まずは、お湯を沸かさないといけないわよねぇ!」
文香が元気よく鍋を抱えて水場へ向かう。綾が“念のため”ついていく。
蛇口を勢いよく捻った——次の瞬間、
どばばばばばばばば!!
ダムの決壊のような勢いで水が溢れ出し、鍋は数秒で満杯になった。
「ちょっ、お嬢様!! 四人分、四人分です!!」
綾が慌てて止めようと蛇口に手を伸ばした……その瞬間。
——ヒュッ!
何かが高速で通過した。
綾の視界の端で、数本の前髪がふわりと舞う。
壁には、包丁がカシュッと音を立てて突き刺さっていた。
「だ、大丈夫ですの!? 綾、本当にごめんなさい!! お豆腐を切ろうとしたら、手が滑ってしまって……!」
駆け寄るレシュリア。
綾が血の気が引きながら現場を確認する。
柔らかい豆腐を切るのに、なぜ投擲される?
なにをどうしたら飛ぶ?
そもそも物理法則はどうした……
「ごめんなさい綾ちゃん……まさか豆腐相手に包丁で“切り払う”とは思わなかったの……!」
このままでは確実に死人が出ると思い、藍は豆腐と油揚げをすべて自分で切ることにした。
「はい。もう刃物は使いません! 絶対です!! 特にレシュリアちゃん、触らないで!!」
「わ、わかってますわよ!! そこまで私もおバカじゃありませんの!!」
いや、もうその自己申告が信用ならない。
藍は心の中で頼むから何も起こらないでくれと神頼みをした。
「じゃあ、あとは乾燥わかめを入れて……」
藍が説明しようとした瞬間。
「この量に対してなら……こんなものですわね!」
レシュリアが袋に手を突っ込み、豪快にわかめを鷲づかみにし——すべて鍋へ。
(ああ……はいはい、さっそくやってくれるわね〜)
立てたフラグは秒速で回収された。
「ちょ、レシュリアちゃん!!」
制止の声は届かず。
湯によって乾燥わかめの膨張スピード大幅に加速する。
大草原のような緑が鍋の中で爆発的に増殖した。
「ちょ、ちょっと!? どういうことですの!? ワカメが錬成されていますわ!!」
「乾燥……って言い忘れた私が悪い……うん、私が悪いわ〜……」
藍は虚空を仰いだ。
そう思わないと心が折れてしまう。
惨状をどうにか整え、“味噌汁らしきもの”が完成した。
ついに実食タイムだ。
「……紆余曲折ありましたけど、味噌汁は完成……ってことで。試食……します?」
“しましょう”が言えない理由が視界の端にある。
レシュリアのせいで文香のことを完全に忘れていた。綾がついていたはずだが……
「綾ちゃん。この黒いの……なに?」
「……ほんの少し目を離したら、お嬢様が、こう……」
一周回って説明しない方が怖い。
藍は覚悟を決めた。
「……まあ、死ななければ合格よ!!!!」
「死なない前提が怖いですよ……」
椀が4つ並ぶ。
まずはレシュリアの作品。
わかめが主張しすぎて、どこをおたまで掬っても海藻。
味噌汁要素は底に幽霊のように残っているだけだ。
「では……作った本人ですし、私から」
レシュリアが震える手で一口。
——次の瞬間。
「っ!? しょっぱ……!? な、なにこれ!? 海ですわ!? 太平洋を煮詰めた味がしますわ!!」
「レシュリアぁ、さすがにそれは言いすぎじゃないかしら……とりあえず私も……ひっく!? あああああああ!! 舌が痺れる!! 高血圧になるぅうう!!」
そんな反応を目の前でされたら、口に含む気はなくなってしまう。しかし藍も責任上、一口味を見る。
「…………ねぇ、レシュリアちゃん」
「な、なんですの!? その静かな声が一番怖いんですけど!?」
「味噌、どれくらい入れたの?」
「ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ多めに……」
「ちょっと……?」
藍が味噌の容器を見る。
——ほぼ空。
「……全部じゃない!!」
「だって味噌汁って名前ですし!! 味噌は多い方が良いと!!」
「そういう考え方は、料理では通用しないの!!」
綾が椀を覗き込む。
「あの……私のお椀の底……丸々味噌の塊が沈んでいるのですが……」
藍は膝から崩れ落ちそうになった。
——もうこれは味噌汁の皮を被った“見てはいけないなにか”だ。
「…………今日はここまでにしましょう」
藍は箸を置き、深いため息をつく。
「……味噌汁すら、まだお二人には早かったのですね……」
綾の言葉に藍も静かに頷く。
(——料理って、こんなに命がけだったかしら……)
その日、調理実習室に立ち込めた味噌とわかめの匂いは、藍の精神に深い爪痕を残したという。




