26 車中の冷戦
車内は冷戦のような緊張感があった。直接の武力衝突はなくとも、音のないぶつかり合い。
薄明に「ぜひ家まで送らせて欲しい」と言われた陽毬は、その圧に抗えず同乗した。ついでだから家の前まで届けてやると、文香はフロアマットの上に簀巻きのまま放り投げられている。存在だけは妙に主張していた。
要にぴたりと寄り添う薄明が、向かいで固まる陽毬に声をかけた。
「……まあ、では眠らされて天井裏に? 竪堀さんも大変な苦労をなさっているのね」
「その……まあ、はい。それよりもこんな汚い身なりでお車に乗せてもらって申し訳ありません」
「お気になさらないで。もしよろしければ途中で着替えでも買いましょう。支払いは気にしないで。あなたは今回の被害者なのですから、ぜひお力になりたいわ」
ニコリと音がしそうな笑顔。だが、瞳は氷点下のまま、微動だにしない。
日本刀のような鋭さを帯びた視線に、陽毬は小さく首を左右に振って固辞した。
「ふごーーー!! ふんごおおおお!!」
足元では口を塞がれた文香が、簀巻きのまま身をよじる。
薄明はそれを一瞥し、これ見よがしに要の腕へ頬を寄せた。
「真実の愛に多少の障害はつきものですが、源道寺さん……はっきり申し上げて、今日のあなたがたの妨害は児戯に等しいですよ」
すりすりと頬擦り。それを見た文香の表情が険しくなる。
ひとしきり暴れて力が落ちた頃合い、トドメとばかりに、薄明はそっと文香の耳元に顔を寄せた。
「あなたと富士宮さんは自分を要くんに押し付けるだけで、要くんを受け止めていない。本当に子供なのね……」
囁きは細く、文香にだけ落ちた。
「ふんごおおおおおお!!」
くぐもった咆哮が、狭い車内を震わせた。
どれくらいの時間が経っただろう。車が静かに停車する。ドライバーを務める老執事がドアを開けた。
陽はすでに落ち、薄闇が門柱の影を伸ばしている。荘厳な造りの門、等間隔に並ぶセキュリティカメラ。源道寺家の正門前だ。
「……文香様。着きましたよ」
要が簀巻きを解こうと手を伸ばす。だが、薄明がやんわりと制した。力は柔らかいのに、拒む意志は動かない。
カツ、カツと近づく靴音。いつの間にか帰還していた綾が、薄明を認めると深々と一礼する。
「たしか、柚木さん……でしたよね。あなたの主人をお返しに参りました。貴方も大変でしょうけど、今後はもう少し目を光らせていただけると嬉しいです」
温度のない調子で告げられた言葉に、綾はさらに腰を折った。
「この度のご無礼、当主に代わりまして深くお詫び申し上げます。後日、入山瀬様のご都合がよろしい折に、正式な謝罪に伺わせていただきたく——」
「——いえ、結構。お気持ちだけ頂戴します。とにかく、あなたの主人を回収なさってください」
「……かしこまりました」
綾がよっこらせと文香を抱き起こす。ふと、陽毬と視線が合った。
タスケテ——その一語だけがウルウルと涙を蓄えた瞳に浮かんでいる。
文香がここで降りてしまえば、陽毬は独りになる。陽毬はわずかに顎を引き、綾に救難信号を送る。
「僭越ながら、今回の愚行は我が主人も発起人です。そのため、巻き込む形でご迷惑をおかけしてしまった竪堀様には、当家の方で然るべき応対をさせていただきます。
——さあ、竪堀様、どうぞこちらへ」
綾に促され、陽毬は車から降りる。外気が胸に入るたび、体の強張りがほどけていった。
空に向かって腕を大きく伸ばす様子はさながらシャバの空気を楽しむ脱獄囚。
「……あらあら、車内は窮屈でした? 竪堀さん」
薄明の穏やかな声にはチクリと針が一つ潜んでいた。陽毬の肩が小さく跳ねる。
「薄明……様。あまりご帰宅が遅くなるのも、ご家族の方が心配なさるかと」
要が静かに口を開く。その一言は、陽毬に対する助け舟だった。
「それもそうですね。では竪堀さん。柚木さん。これにて失礼いたします。
——あ、そうそう源道寺さん。次、私と私の“未来の夫”に不遜な行いをしたら。……お分かりですよね?」
言葉だけを置き、車は走り去った。排気の余韻だけが残る。
陽毬は大きく息を吐いた。綾は文香を解放する。
「ぷはあああああ。やっと自由の身になれたわぁ」
車影はもうない。文香は走り去った方角を一瞥し、中指をこれでもかと立てる。
「……お二人とも、まずは中へ。陽毬さんはシャワーをどうぞ。タオルと替えのお洋服はこちらでご用意いたします」
「え、いいんですか? あの、でも私——」
「いいのよ、遠慮しないで。今回はやりすぎたと反省しているわ。あとで家の者に送らせるから。服も弁償させてちょうだい」
短く告げ、文香は先に歩き出した。
——要様に、私は自分を押し付けていただけ。
薄明の言葉が、文香の胸の底で鈍く響いた。
場面は変わって、富士宮邸。
同じく荷のように届けられたレシュリア。まさかの置き配で放置されていたが、自力で簀巻きを解く。
その勢いのまま、まっすぐ父の執務室へ向かった。扉の前で一度整え、ノック。入札を許可する短い返事。
「失礼いたしますわ、お父様」
部屋の奥。キーボードの音が止まり、友輝が娘を一瞥する。
「座りなさい、レシュリア」
「お言葉ですが、座る前に申し上げたいことが——」
「座りなさい」
低いが、柔らかさは失われていない。レシュリアは唇を噛み、椅子に腰を下ろした。握った両手にうっすら汗が滲む。
「今日の君の振る舞いについては、報告が上がっている」
「……」
「入山瀬家に対して、無礼があった」
「私が無礼? むしろ向こうが! 私の従者を、あの人が!」
「レシュリア」
名前を呼ぶだけで、勢いが落ちた。父は真っ直ぐに視線を合わせる。
「家と家の話をしている。恋愛沙汰の有無以前に、礼を欠いたことを叱責している。君はわかっているはずだ」
「……はい」
「入山瀬家は、我々が軽んじていい相手ではない。彼女個人を好きか嫌いかは置いておけ。まずは謝罪が必要だ」
レシュリアは僅かに顔を背ける。友輝は腕を組み、天井を一つ仰いだ。
「度々、要くんの見合いを妨害しているのは知っている。そもそも破談を望む理由を、私に説明してみなさい」
喉で言葉がつかえた。用意していた理屈が、父の前では形を保てない。
「要は、私の従者ですわ。私の右腕。私生活でも、学園でも、私の——」
「それは“役割”だ」
「役割、ですって?」
「彼も人間だ。与えられた役割の前に、彼自身の未来がある」
胸の奥がきゅっと縮む。父の声は淡々としているのに、一語ごとに温度差がある。冷たさではなく、貫かれるような痛みを伴う温度だ。
「彼の役割が君の従者なのは、あくまで勉強の一つに過ぎない。彼の父と私が交わした取り決めだ。
彼もいずれ人の上に立つ人間になるかもしれない。その時、彼は君の“従者”ではいられない」
「……どうして、言い切れるのですの」
「君が望んでも、彼が望んでも、時間は進む。彼は学び、そして選ぶ。就くべき仕事を、築くべき人生を、背負うべき責任を」
レシュリアは拳を握った。目の奥が熱を帯びる。悔しさとも焦りともつかない渦が、静かに回る。
——私は、何のために、要を側に置きたいの。
口にすれば壊れるものがある。けれど、言わなければもっと壊れる。
「……私は——」
声が震えた。過去の光景が次々に浮かぶ。
その光景の中、要の視線は時に真剣に、時に面倒そうに。だが必ずこちらを向いていた。
「私は、いつまでも要を“従者”でいさせたいから妨害してきたのか。……それとも、ひとりの女として、富士要という“人”を独り占めしたいからなのか」
沈黙の底から、幼いが真っ直ぐな答えが上がってくる。
「どちらか……まだわからない。でも今は離れて欲しくないのですわ……っ」
音もなく頬伝うもの。父の前で涙を見せるのは、母を失った時以来だろう。
友輝はため息をつかず、机のティッシュを静かに押しやった。
「まだまだ子供だな」
「ええ、私はまだ子供ですけれど——」
ティッシュを受け取り、レシュリアは涙を拭う。深呼吸をひとつ。声が戻る。
「——要の未来を私のわがままという檻に閉じ込めるのは違うのだと。やっと気づきました。その上で、私はやっぱり要とまだ離れたくありません」
友輝は微笑み、一枚の紙を差し出した。
《学籍変更届》
「入山瀬家と交わした和解案の一つに、富士要を入山瀬家の従者として貰い受けたいという要求があり、私はこれを了承した。
——つまり、今現在、要くんは君の従者ではない」
レシュリアの瞳が大きく揺れる。
「だが、この件には一つ取り決めがある。
——もし要くん本人が望むのなら、再び富士宮家の従者として、そして君の従者として迎え入れる。入山瀬家もそれを了承した」
「要が、私を選べば……」
「そうだ」
友輝は頷いた。
「彼を再び従者として側にいてほしいなら、彼を君自身の力で振り返らせてみろ——」




