25 氷点下のヤンデレ。入山瀬薄明
「初めまして。入山瀬薄明と申します。本日はよろしくお願いいたします」
少女は深々と頭を下げた。
その動作に一分の隙もなく、まるで作法の教本から抜け出したようだった。
黒髪は光を受けて艶やかに揺れ、その瞳は氷のように冷ややかに澄んでいる。
要もそれに倣って頭を下げる。
「初めまして。ご多忙の中をわざわざ……富士要と申します」
顔を上げた瞬間、要は固まった。
「……あれ、入山瀬風紀委員長?」
「はい。富士要くん」
氷のような少女が、にこりと微笑んだ。
……笑った。のだが。
射殺すような視線。目は笑っていない。
「え、なになに? 要、知り合い?」
父はワクワクした目で二人を交互に見つめる。
「はい。富士くんの……お父様がいらっしゃいますので、要くんで失礼しますね。
要くんの通う学校で風紀委員長をしております。
もっとも私は三年ですので、普段はなかなかお話する機会がないのですが」
「はい。本棟で何度かお顔は拝見しています。姉が同校に勤めておりますので、お噂はかねがね。
学年主席で品行方正、まさに全生徒の模範と伺っております」
「そ、そんな……煽てないでください。わ、私なんてまだまだ浅学菲才の身ですから……それよりも昨日は本当にありがとうございました」
薄明にそういわれ、要は昨日のことを思い出した。そしてすべてが繋がったかのように昨日の違和感が解決する。
「あ、昨日の女性……も、申し訳ありません。昨日は大変不躾ながら。入山瀬風紀委員長だとは認識しておらず……」
相変わらず座った目つきはそのまま、薄明は恥じらいに頬を染めた。
「いえいえ、私も私服でしたし。あまり交流がないのですから、気づかなくて当然ですよ」
「まともなご挨拶もせずに申し訳ありません……腕の具合はもう大丈夫なんですか?」
そのやり取りに、雪之丞がニヤァと下品な笑みを浮かべる。
「なになに? なんかラブコメの香りがするぞ? 昨日、街でなんかあったのかぁ?」
薄明は姿勢を正し、淡々と語る。
「実は昨日、欲しい本があって街に行ったところ、あまり上品でない方々にお茶に誘われまして……。お断りしたのですが、少々乱暴で。そこを要くんに助けていただいたんです」
「はいラブコメキターーー!! 本当にありがとうございました!!」
叫びながら父が立ち上がる。
しゃあ!! 勝ち確!! と拳を天高く突き上げる様は、見ていて痛々しい。
「おいおい要! お前どんだけ王子様ムーヴかますんだよ! こりゃ勝ったな風呂入ってくるやつだな!? このこの〜!」
「おい父さん、みっともないだろ、もう少し静かに……」
要は煮えたぎる殺意を抑えつつ、あくまで穏便にお願いをする。
しかし雪之丞は止まらない。
「おじさん邪魔だよね! 気が利かなくてごめんね! じゃあここからは若い二人で! バイビー!!」
スキップで襖を閉めて去っていく。
帰ったら嫁だと大事にする皿を何枚か叩き割る決意を固めた。
「……とても愉快なお父様ですね」
「無礼な身内が騒ぎ立ててしまい、申し訳ございません」
「いえ、お気になさらず。私はどうも表情が乏しいといいますか。感情を表現するのが苦手なんです。なのであのように明るいお人柄の人をとても尊敬しております」
なんて人間ができた人だと要は心の底から感心する。思い返せば、自身の周りには唯我独尊の危ない奴ばかり。
久しぶりにまともな人格者と話していると心が穏やかになる。
「今日……本当に楽しみにしていたんです。
昨日からずっと。要くんが差し出してくださった手のぬくもり……まだここにあるんです。そして気づいたんです。運命はあるのだと」
胸元をそっと押さえる仕草。
薄明の目は、ハイライトが職務放棄している
その瞳に「おや?」と要は積み重ねた経験から少し身構える。
「……きょ、恐縮です」
「だから、その。ぜひ今回のお見合いは前向きにご検討ください。
私、要くんの言うことなら……なんでも、聞きます」
——まともな、人格者……では、ないかも?
要は室温が下がった気がした。
氷のような冷気とともに、少女の瞳がほんの少し濁る。
「富士宮さんと源道寺さんに振り回されている件は私も聞き及んでおります。要くんもお困りでしょう? 安心してください。
私が——厳粛に排除いたします」
「厳粛に排除って……ジョークですよね?」
「お望みでしたら。もちろん物理的に排除を……」
にこり。
その瞬間、要は悟った。
——この流れ、既視感がある。
——そうだ。姉だ。
「入山瀬薄明、だと……?」
「バカな……」と呟いて有栖は途方に暮れていた。
今までのお見合い相手とは家格が違いすぎる。
骨董品ペロリストこと、あの父親がこんな縁談をどう用意したのか。
財力はさておき、血統だけで言えば——。
入山瀬家は富士宮家、源道寺町家よりも上。
当然、富士家など比べものにならない。
『バ、バカな……入山瀬ですって? 今までとはパワーが違いますわ!』
レシュリアが絶句した。
『有栖お姉様、どうしますぅ?』
文香の声も震えている。
有栖は短く息を吐く。
入山瀬の名前が出た時点で、“妨害"の選択肢は消える。
さすがの有栖もここまで名家が相手だと打つ手がない。
「……撤退だ。全員、その場から撤退せよ」
有栖は苦虫を潰したような顔で唇を噛む。
「ふえ!? あれ!? ここどこですか!? くらい!!」
天井裏で目を覚ます陽毬。
上下逆さまのまま、自分が吊られていることに気づき、軽く泣いた。
外を歩きませんか——
そう誘われた要は、薄明と共に日本庭園を散策していた。
晴天の空。池の鯉。木々が風に揺れ、静謐な空気が流れる。
……だが、正直気が気ではなかった。
(入山瀬家に対して妨害はさすがにまずい……)
普段なら、もう何かしらの妨害が飛んでくる頃。
落石、突撃、爆発、麻酔銃……等々。
それがない。あまりに静かすぎる。
だが、静かなら静かで、隣を歩く少女のことを考えると緊張で吐きそうになる。
「あの、入山瀬委員長……」
「ふふ。ここは学校ではありませんので、“委員長”はちょっと」
にっこりと微笑む。だがその笑顔は、どこか目が笑っていない。
「……これは失礼を。入山瀬さんは」
「薄明で結構ですよ」
「いえ、それはさすがに——」
「いえいえ、遠慮なさらず」
「……薄明さんは」
「ちがいます」
「……え?」
「は・く・め・い。です」
「し、しかし、呼び捨ては……」
「ダメです。呼んでください」
一歩、距離を詰める。
「い、入山瀬——」
「ふふ、ちがいます」
「……はく……め……」
「ふふ。可愛い……もう少しです。頑張って」
「……は、薄明」
「はいっ」
完璧な笑顔。
その瞬間、風が吹き、竹の葉が舞った。
なぜか要の背筋がぞわりとした。
「……それにしても」
薄明は視線を池に落としながら呟いた。
「どうしてこの縁談を、なんて思いました?」
「は、はい……率直に申し上げますと、我が家と御家では家格が違いすぎると思いまして」
「確かに最初は今日はお会いした後に、早々にお断りしようと思ってました。夢みがちと謗られても構いません。私は運命の人と結ばれたいのです」
声のトーンが少し落ちる。
風が止まった。
「昨日、要くんに助けてもらったとき。胸が熱く、太陽のように燃え盛りました。そして直感したのです。これが運命だと——
運命の愛を前に、血も財も関係ありません」
「……えーと?」
徐々に早口になる薄明の言葉に要は気圧される。
「私はこの愛を守るためなら、何を捨ててもいい。ありとあらゆる手を尽くします。
──要くん。あなたの隣に立つためなら、ありとあらゆる手段を使います」
さらりと言って笑う。
怖い。昨日総帥たちがちびりそうって。今になってすごいわかる。尿漏れパンツを履いてくればよかった。
「要くん」
「な、なんでしょう」
「さっき呼び捨てしてくれましたよね?」
「え、あ、はい、申し訳ないです。やはり無礼でしたよね……」
「うれしいです。……ねえ、次は“薄明”じゃなくて、“おまえ”って呼んでください」
「い、いや、それはさすがに」
「いいんですよ。私たちは結ばれる身。本当は私も"あなた"とお呼びしたいのですが、小心者なのでなかなか踏ん切りがつかなくて……」
恥ずかしがりつつも、薄明の顔は笑顔のまま。
そして思い出したかのように。懐から綺麗に折り畳まれた書類を取り出す。
「とりあえずこちらをお納めください」
差し出された書類。なぜかやけに重く感じるが、ゆっくり開いて行くとそれは一枚の──婚姻届だった。
「いや早い!! 早いです!! 段階が数段ほど抜けていますよ!!」
「そうでしょうか? あなたの主。そのうち元がつくでしょうけど……たしか富士宮さんがお好きな《そしゃげ》とやらにはストーリーのスキップ機能が標準装備だと……」
「いや人生というストーリーはスキップしないでください!!」
池の鯉が静かに跳ねた。
「入山瀬さん!! ちょっと待ってください!!」
「あら、ペンがありませんね」
「いやペンじゃなくて!!」
「まあ筆の方がよろしいですか? さすが、とても古風で男らしいです」
「いやそうじゃなくて!! 書きませんよ!!」
ジリジリとにじり寄る薄明。要の背後には池。逃げ場はない。
「これは大変な失礼を。夫の手を煩わせるなんてこの幼妻を叱ってください。記入はこちらで、ささ、指印を」
「誰か助けてぇええええええ!!!!」
「──文香がお助けしますぅぅぅぅ!!!」
飛び出した小さな影。叫びながら文香が要を目掛けて突進する。だが着慣れないものを着ていた文香は上手く止まれない。いやそもそも突進なのだから止まる事は一切考えていない。
「ぐへえあ!!」
要の間抜けな叫び声と共に、二人は池に落ちた。
「……見覚えのある天井だ」
「あら、見覚えはあるのですね」
目を覚ますと、先ほどのお見合い部屋で横になっていた。
すぐ近くから薄明の声が聞こえ、反射的に体が強張る。
視界に飛び込んできたのは、上から覗き込む薄明の顔。
距離が近い。近すぎる。
近いというか、眼鏡のレンズに自分の瞳が映ってる。
ようやく頭が動き始め、状況を思い出す。
……確か、池のほとりで婚姻届を押し付けられ、背水の陣になっていたところへ、ラグビータックル気味に文香様に突き落とされた。
「およそ、その認識であってますよ」
「……人の頭の中を読まないでいただけると助かります。文香様は?」
その問いに、薄明はわずかに顔をしかめ、
視線だけで部屋の隅を示した。
まだ体の節々が痛む。
起き上がろうとしたが、すぐに薄明に制され、
仕方なく首だけそちらへ向けると——
「入山瀬さん!! いい加減、文香を解放して欲しいですぅぅ!!!」
手足をぐるぐるに縛られた文香が、
まるで釣り上げられた魚のようにドッタンバッタンと床で跳ねていた。
その姿はまな板の上のコイ。そしてその隣では、身体中ほこりまみれの陽毬が、罪悪感まみれの顔で体育座りしていた。
「源道寺さんに池に突き落とされたところまでは覚えてます?」
「ああ……やはり。あの華麗なタックルは文香様でしたか。
一緒に落ちてしまったはずですが……文香様、お怪我は?」
「な、ないで——」
「ないですよ。怪我をしたのは要くん。あなたです」
文香の言葉をかき消すように、
薄明が静かに、しかし鋭く被せる。
「なんて可哀想な要くん。池に突き落とされて、石造りの底に頭を打ったんです。
でも安心してください。妻であるこの私がしっかり体を拭いて。妻であるこの私が手当てしました。
妻の部分をやけに強調して、胸を張って満足そうに答える薄明。
「文香様だけ……ではないですよね。もちろん」
「ええ、源道寺さんの後には、未来の義姉様もいらっしゃいました。
要くんを想うお気持ちは痛いほどわかりますが、今日のところは義父様に回収して頂きました」
「富士先生が大暴れで……要先輩のお父様、文字通り血反吐を吐きながら富士先生を連れて行きました……」
陽毬がぽそっと言った。
その情景が脳裏に浮かぶ。
「そういえば……あの、レシュリア様は?」
「あー、あの方ですが。富士宮さんはなかなか頑固でしたので。
源道寺さんと同じように簀巻きにして富士宮邸へ輸送中です。
さて……では要くん帰りましょうか」
「帰る……って、どこへですか?」
「もちろん私の実家にですよ」




