9 立ち向かう陽毬
「くぅ〜。朝日が目に沁みますわ!」
陽毬の隣を歩くレシュリアが、空に向かって大きく伸びをした。
翌日、陽毬はレシュリアと文香の二人と連れ立って登校していた。
「にしてもぉ、陽毬さんのお父様は……とてもお茶目な方だったわねぇ」
「私、頂戴したサインは末代までの家宝にさせて頂きます!!」
「……末代まで父の生き恥が晒されるのは勘弁してください」
昨日、父親にレシュリアたちの一泊を願い出た瞬間から、父はまるで油の切れたロボットのようにぎこちなくなってしまった。
「ご機嫌麗しゅう」なんて慣れない言葉遣いに始まり、レシュリアたちを国賓のように待遇する自身の父親を思い出すと顔から火が出そうになる。
「本当に情けない姿をお見せしました。父はまだ一般人の感覚が抜けなくて……まあ多分、一生抜けないと思います」
「でも、お友たちのお家にお泊まりして、一緒に登校! あぁ、なんて素敵な朝なんでしょう。今日も良い日になりそうですわ!」
「私は早く要様に会いたいわぁ。夜遅くまでレシュリアの生産性のないお喋りに付き合って寝不足よぉ」
「『生産性のない』は余計ですわ! あなたこそ寝返りのたびに私と陽毬さんを攻撃して——人間凶器でしたわ!」
「確かに、文香先輩が寝返りを打つたびに拳が飛んできて、三回ほど夢の国から追い出されましたね……」
「ひ、陽毬さん。本当にごめんなさい。あ、レシュリアには謝らないわよぉ」
「な、なんでですの!?」
それに対して再びギャーギャーと騒ぐレシュリア。文香も負けじと応戦する。
そんな二人の喧嘩をなんとか納めようとした陽毬の後ろから別の声が聞こえた。
「おはようございます、陽毬。昨日はレシュリア様がお世話になりました」
要と綾だった。
「まったく、あのアホ——ではなく、お嬢様は朝から賑やかですね。ゆっくり休めましたか?
もし夜中に殴られたなどありましたら、医療費の請求は遠慮なさらないでくださいね」
綾はそう言うと首をコキコキと鳴らしながら喧嘩の仲裁に向かう。
「こちらもレシュリア様のお父様が後日お礼をしたいと申しております」
「い、いえいえお気になさらず。というかこれ以上うちに何かしてもらうと父が過度の緊張で倒れそうで……」
そう言って両手をぶんぶん振る。
その先で、見覚えのある一団が校門を横切った。
同じクラスの生徒たち。それも陽毬をよく思っていないグループだ。
「みなさん、ご覧になって。売国奴の娘さんがお通りですわ」
「まあ本当。庶民の方って、朝からお元気ですのね」
その言葉に、真っ先に反応したのはレシュリアだった。
「なんてこと! 朝から無礼ですわ! こんな事もあろうかと、刃を潰したアーミーナイフを持ち込んで正解——」
「——正解ではないですね。どうやって正門のセキュリティを突破したんですか」
要がため息混じりにナイフを取り上げる。レシュリアは不服そうだが、その背中を文香が押す。
「はいはいレシュリア、有栖姉様の話を忘れたの? ……私たちは先に行くわよ」
「そう、でしたわね……これは陽毬さんの戦い、ですものね……では陽毬さん、また放課後に……」
そう言ってレシュリアたちはあくまで平然を装い、校舎へ向かった。
その背中が離れていくのを確認して、一人の女生徒の嘲笑するような声。
「ふ、ふん! 結局、あなたなんて後ろ盾がないと何もできないのよ!」
その言葉に、陽毬は一度深呼吸をした。
胸の奥に、静かな熱が広がっていく。
「——あの!」
辺りに響いた声に、一団の肩がびくりと震えた。
「私の父は、売国奴なんかじゃありません! 誤った認識です! 訂正をお願いします!」
先を歩くレシュリアたちの耳にもその声は届く。
レシュリアが思わず振り返ろうとするが、要がそっと肩に手を置いた。
「確かに、私は庶民です。でも、不名誉な嫌がらせには屈しません!
後ろ盾があると思われても仕方ありませんが、私は——貴方たちに、自分の力で立ち向かいます!」
陽毬は目を逸らさなかった。
先に目を逸らしたのは、相手のほうだった。
赤い髪の少女が「もう行きましょう」と呟き、一団はそそくさと校舎へ向かう。
力が抜けて、陽毬はその場に座り込んだ。
「……はぁ、はぁ。私やった。なんとか言えたんだ」
額にびっしょり汗が滲んでいる。けれど、嫌な気はしない。
立ち上がろうとしたとき、身体がふらついた。
その腕を、誰かが支えた。
「ふむ、よく言ったな、竪堀陽毬。先ほどのお前の覚悟も、あの生徒たちの発言もすべて録音してある。
ここまでの証拠があれば我々もなんとか動ける」
凛としたスーツ姿の女傑。富士有栖だった。
「富士……先生……? あ、要先輩のお姉さんですか?」
「貴様に姉と呼ばれる筋合いはなあああああい!!」
雷鳴のような声。「ぴぎい……!」と変な声をあげて陽毬は反射的に背筋を伸ばした。
「ほう、もうしっかり立てるか。ならとっとと登校することだ。ぐずぐずしていると朝のホームルームに間に合わなくなるぞ」
そう言って、有栖は一瞬だけ陽毬の頭を軽く撫で、颯爽と去っていった。
***
急ぎ足で教室へ向かう。
心臓が速く脈をうつ。決して早歩きしたからではない。あんなことを言った後だ。口の中はカラカラだったし、足もなんとなく重い。
だが胸の奥は不思議と静かだった。
「……おはようございます」
教室の扉を開けた瞬間、ざわ……と小さな音が広がる。
視線が一斉に陽毬に集まる。決して優しい視線ではない。
それでも陽毬は姿勢を正し、席へ向かう。
「……竪堀陽毬さん」
途中で立ち塞がる影。
炎のような赤い髪が朝日を受け、教室の空気を切り裂くように輝く。このクラスのリーダー格である少女だ。
(十島陽子……さん……)
陽毬は呼吸が自身の呼吸が浅くなるのを感じていた。
陽子の背後には先ほどの面々。陽毬に対して心無い中傷を繰り返してきた面々だ。
誰もが息を呑む中、陽子は数歩前に進んだ。
「……先ほどの校門での件を含め、竪堀家を貶めた卑劣な行為の数々。
そして、貴方の誇りを踏みにじったことを謝罪します」
陽子は赤い髪を垂らして深く。深く頭を下げた。
「……十島さん。後ろの皆さんもです。あなた方のお家が名家なのは承知してます。しかし産まれが名家だからといって、それが他人を見下し、貶めていい理由にはならないと思います」
陽毬の声は震えていなかった。
「……仰る通りです。いくら謝っても、貴方とご家族が受けた痛みを消せるとは思いません」
陽子は下げた頭のまま、静かに続けた。
「群れる事でしか誇示できない私たちと違って、貴方は一人で立ち上がりました。そして先ほどの貴方の宣言を見て気づきました。
——“淑女は淑女によって磨かれる”とは、こういうことなのだと。
もし許されるなら……もう一度、貴方ときちんと関係を築くチャンスを頂けませんか?」
陽子の声は凛としつつもどこか震えていた。
「……顔を上げてください、十島さん」
陽毬は小さく微笑み、そっと腕を差し出した。
差し出された手の意味が理解できずに固まる陽子。陽毬はその腕を強く掴み、勢いをそのまま握手をする。
「私は竪堀陽毬です! 好きなものは苺。特技はFPSです。よろしくお願いします」
「えふ……ぴー? あ、いえっ! 十島陽子と申します。茶道を少々嗜んでおります。……ありがとうございます。よろしくお願いします」
そう言うと少し戸惑いながらも、陽子は手をしっかり握り返した。
その瞬間、予鈴が鳴り、二人は顔を見合わせて吹き出した。
「……また、あとで」
「……ええ。また」
陽毬は自分の席に腰を下ろす。
窓際の席から見える校庭の芝が、朝日を柔らかく照らしている。
その光は、昨日よりもほんの少しだけ明るかった。




