剪定 第八話 研究所
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自分はこのあと。めでたく、病院を退院して。
森さやかといっしょに、難問解決のために活躍するのだ。
戸波孝二は。そう思っていた。そうだと信じていた。
ところがだ。製薬会社側に従う。と約束したその翌日に。
病院にやってきた森さやかは。期待した表情でいる戸波に、次のように告げた。
「誠にすみませんが。あなたには、もうしばらく、入院患者として、この病院で生活をしてもらいます。
今後、あなたの協力が必要になった際には。私がここまでむかえにきます。それができなければ。私からの指示で。タクシーを利用して、戸波さんが一人で、製薬会社にまで移動してもらいます。
くれぐれも、こちらの指示があるまで、病院にとどまってください。そして、移動の際の領収書はとっておいてください。あとで会社の経費として計上するためです。
では、そのための費用として。今日は××万円を置いていきます。おカネは、この封筒に入っています。院内での紛失には注意してくださいね? いいですね? わかりましたね?」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよっ! それじゃぁ、話が違いますよっ!
なぜ? どうして? どういうわけで? ぼくは入院を続けなくちゃならないんですか? ぼくを外で生活させるのにかかる、費用の問題ですか? でもそれなら、入院にかかる費用のほうが、はるかに高額ですよね? それとも、なにかほかに、理由があるんですか?」
今日かぎりで、病院を出て。これから自由な生活ができる、と思っていたのに。それをあっさりと否定されてしまい。戸波は、取り乱した様子で、さやかに、理由をたずねる。
ところが、さやかは。はじめてみせる、きびしい態度と口調で。戸波に、ハッキリといいわたす。
「不満は会社に言ってください。もう、決まったんです。従ってもらいます。例外はありません。必ず指示に従ってください。私には、どうしようもありません。わかりましたね? いいですね?」
今日のさやかは、これまでのような、こちらを不満をなんでもきいてくれて、あまやかしてくれる。そんな、優しい保護者のような態度ではなくなっていた。
さやかの態度の変化を前に、戸波はわけがわからずに、抗議しようとするが。それに対してさやかは、さらにきびしい態度で。容赦なく、命じる。
「それでは、着替えて。ヒゲをそって。顔を洗って。身ぎれいにしてください。今日は。いまから、行ってもらうところがあります。さっそく、とりかかってください」
「えっ? ええっ? えええっ? 出かけるって。いまから、どこに? なにをしに? どうして? どういうわけで?」
「質疑応答をしている時間の余裕はありません。とにかく、まずは目的地に出向きましょう。説明はそこでします。話はそこからです。いいですね?」
それからさやかは、事態を把握できずに、まだモタモタしている戸波に近づくと。ベッドに寝ている戸波の上着をめくって、服を脱がせにかかる。
「なにをしているんですかっ! 急いでっ! さぁっ! さぁっ! さぁっ!」
「わっ。わかりましたよ……。自分でできますから。少し、待ってくださいよ……」
病院で目覚めてから、戸波は。さやかが持ってきてくれたグレーのスエットの上下をきて。それでずっと生活してきた。
さやかに指示されるままに、戸波はそれを脱ぐと。さやかが持ってきた衣類のなかから、スエットの上下よりは見ばえがいい。ラフなシャツと、ズボンに着がえる。
靴は用意されていなかったので。裸足にスリッパをつっかけた格好で。戸波は、自分が着替え終えるのを待っていた、さやかに、着替えた自分の格好をみせる。
急いで、外出するための準備をすませると。さやかは、モタモタしている戸波をせかして。病棟からでて……。エレベータに乗り込んで……。一階の正面にある、建物の出入口へとむかう。
去るべきか残るべきか、あれだけ悩んで迷った病院の建物から、戸波はアッサリと外にでると。そのまま、病院の正面出入口の付近で何台も待機しているタクシーの一台に乗り込む。
タクシーが出発すると。戸波は、となりにすわっているさやかに。どこにむかっているのか。そこまでどれくらいかかるのか。そういうことをきいてみる。
さやかは。目的地に到着すればわかる。病院の夕食の時刻までにはもどってくるから。それだけを告げて。それっきり口を閉ざしてしまう。
おかげで戸波も、くびをすくめた格好で。タクシーの後部座席で、閉口して、沈黙しているよりない。
現在時刻を調べるものを持っていないせいで。正確な時間は曖昧だが。
だいたい、四十分間から五十分間、走行を続けてから。二人をのせたタクシーは、目的地に到着した。
タクシーが訪れた先は、どうやら、なにかの研究施設のようだった。
施設へと通じる、敷地の通路には、施設の名称をつづった看板が取り付けてある。
戸波は、通り過ぎるときに、看板にある建物名をたしかめようとするが。英語での表記のせいで、とっさに読みとることができない。
タクシーからおりた二人は、さやかを先頭に、戸波が続くかたちで。
遠目には、巨大なカマボコ型をした、港湾にならぶ倉庫のような外観をした、得体が知れない建物の中へと入っていく。
建物の出入口にいた警備員に、さやかが身分証を提示すると。警備員は、この女性が、間違いなく、製薬会社の社員であって、写真と同一人物なのをたしかめたうえで。戸波を、森さやかの同行者として、通行を許可する。
それだけではない。なぜか、その警備員は。戸波がそばを通るときに。制帽のふちをおさえて、彼に挨拶をする。
「おつかれ様です」
「あ。はい……。どうも……」
そうかえしたあとで、くびをかしげる戸波だったが。挨拶の理由は、すぐにわかった。
施設内に入ると、きっとそれなりに責任ある仕事をまかされている、ここの研究員なのだろう。白衣に、マスクに、手袋という格好の男が。二人のもとに大急ぎで走ってくる。
研究員の男は、さやかへの挨拶もそこそこに。うしろにいた戸波に向き直ると。熱の入った早口で話しかけてくる。
「ビックリしましたよぅ。戸波さんじゃないですかぁ。もう退院をなされていたんですね? おめでとうございます。
さっそくですが。あれから新しいテストをやってみたんですが。それについて、どうか戸波さんから。なにか意見をきかせてもらえないでしょうか?」
「え? あの……。その……」
「この結果をみれば、きっと驚かれますよ! 試料××ですが。見てください。こんな結果がでるなんて。私たちは予想もしていませんでした。まずは、ここなんですがね……。それから、こちらもですね……」
小脇にかかえていたタブレット型の携帯端末をひらいて、さあこれを、と。大量の画像データと、それに付随する数字や、英文のデータを相手はみせてくる。
戸波は、両手の掌をむけた格好であとずさりをしながら、大急ぎで謝罪をする。
「い、いや。じ、じつは、ですね……。たぶん。あなたが知っているのは、もう一人の戸波孝二だ、と思うんですよ。ここにいる私は、あなたが知っている戸波孝二じゃないんですよ……」
「戸波さん、あなたはなにをおっしゃっているんですか? 仕事中に冗談はやめろって、あなた、私にいつも言っていたじゃないですか!」
「ええと。その、ですね。くわしい事情は、こちらの、さやかさんにきいてもらえますか?」
不思議そうでいる施設の職員を前に、なんと説明したらいいのかわからない、といった困惑した笑みを浮かべて、戸波は、そうかえすよりない。
戸波からの話のながれでしかたなく、さやかがその男を部屋のすみにいって事情を説明すると。
ようやく合点がいったらしい職員は、それでも半信半疑といった表情でもどってきて。
戸波をチラリと見てから、もうこの相手には用はない、といった態度で。忙しそうに、小走りでその場から立ち去ってしまう。
戸波は、あぜん、といった顔でその場にボンヤリと突っ立っていたが。さやかが、手袋とマスクをとってくると、それを戸波にわたす。
この先にすすむために必要なのだ、という。
さやかは、戸波が、それを身につけるのをたしかめてから、戸波の手をひいて、施設の奥へと彼を案内する。
通路の出入口に指示がある。建物内にある危険物が、外部に出ないように。入場者は室内から退出の際には、足もとに注意をするように。とある。
二重にもうけてある、二枚の分厚い気密ドアを。ひとつずつ、通り抜けて。二人はなかに入る。
入ったその場所は、このカマボコ型の巨大施設が、なにをする場所なのかを、如実に示す場所でもあった。
そこに入ったとたんに、マスクをしていても、鼻につく強烈な匂いが間近にせまってきくる。
たくさんの小さな生き物たちが動きまわる音がする。小さな生き物たちが発する声が、きこえてくる。
キキキ、キキキ。キキキィ、キキキィ。
ごそ、ごそ。ごそ、ごそ。
キィ、キィ。チィ、チィ。キィ、キィ。チィ、チィ。
がさ、がさ。がさ。
その匂いに、戸波はマスクをしているのに、掌で鼻と口をおおい、ウッと呻いて、あとずさる。
小動物がかけまわっている声と音とが、数知れず無数にかさなって、きこえてくる。
とっさに戸波は。姿を隠した、なにか得体がしれない動物の大群が。ここにはひそんでいるんじゃないか。そういう思いにとりつかれる。
この大きな倉庫のような施設の中央にあたる部分は、仕切りがない、巨大な吹き抜けの構造になっていた。
高い天井には、ズラリとならんだLEDライトの照明装置が設置されている。それが、この巨大な吹き抜けの構造になった空間を、すみずみまで、あかるく照らしている。(天井の照明装置は、どうやら、現在の時刻にあわせて、明るくなったり暗くなる仕組みになっているようだ)
この広々とした閉鎖空間にあったのは、両腕でかかえるくらいのサイズをした、たくさんの動物の飼育用に使うケージだった。
大量のケージが、ずっと先までならべられて。さらに、つまれている。
鳴き声と。走りまわる軽い足音と。鼻にツンとくる糞や尿の匂い。
ケージを、おそるおそる、上からのぞきこむ。
「? ? ? ? ?」
そこにいたのは、ネズミや、モルモットのたぐいの動物だった。
掌にのるくらいの大きさをした、鼻づらのとがった、毛むくじゃらの小型の四足動物が。顔をあげて。ケージのむこうから、黒いビーズのようなような目でこちらを見てくる。そいつは、尖った歯列をむきだして、キィーッと、威嚇してくる。
戸波はとっさにしりぞいて、身をすくめたが。
そのあとで。なぜこんなに大量のネズミが、ここに集められているのか、その理由がわからずに、さやかをふりかえって、その顔を見る。
「ここにいる、ネズミたちは、なんなんですか……?」
見れば。マスクをしたさやかは。いったいなぜなのか。この場所にまつわる、彼女にしかわからない出来事を。なつかしい思い出をふりかえっている。そんな様子で、そこに立って、ボンヤリしている。
ややあって。さやかは、感慨に浸っている表情とくちぶりで。戸波に、こう説明をする。
「ここにいるのは、すべてが実験動物になります。この施設に勤務するスタッフたちは。ここにいる実験動物に、開発中にある試薬を、飼料や飲料水にまぜてあたえて。それにより、いったい、どんな効果があらわれるのかを調べているのです。
だとしても、なぜこんなにたくさんの数の実験動物が必要なのか、と思われるかもしれませんが。薬の開発には、長期間にわたる実験による検証が必要になりますから。どうしても。これだけの数の実験動物が必要になるんです。
ここにいる、この動物たちは。この場所で。すべて、貴重な新薬の開発のために使われるんですよ……」
「なるほど、そうですか」
言いたいことはいろいろとあったが。戸波はそれを我慢して、さやかにたずねる。
「ここにいる、大量に用意した実験動物に投与している試薬ですが。もしかすると。それって。つまりは……」
「ええ、そうです。私と、戸波さんで、共同開発していた、認知症の治療薬になる、例の新薬です」
さも当然のように、そう語るさやかに、戸波は驚く。それから、大急ぎで、次のように、問いただす。
「開発中の治療薬は。てっきり、まだ動物実験ができる段階のものじゃない、と思い込んでました。それじゃ、つまりはもう、薬は、具体的なかたちになっている。世にだせる製品になっている。そういうことなんでしょうか?」
「いいえ、違います。そうじゃないんです。まったく、その逆です。まだそこまでは到達していません。
それについては。いまはまだお話しするわけにはいきませんが。じつはいまも、ある問題が生じていましてね……」
さやかは、言いにくそうな表情で、そう戸波にかえす。
治療薬の具体的な効果と、どんな問題が起きているのか。それについては語らずに、そう言って、その場をごまかす。
言葉を濁すばかりで、さやかが話してくれないので。戸波は、ここまで自分が見たりきかされたことを、自分なりにまとめて。それについて考えてみる。戸波なりに理解しようとする。
つまり、ここは。実験動物を使い、開発している試薬のテストをするために用意された施設なのだ。
きっと、薬の効果を調べるために。投与後のマウスを調べる実験用の機器や設備も、いろいろと用意されているのだろう。
さやかは、ケージに入った大量のネズミたちが騒ぐそのさなかで。メガネのむこうの表情がわかりにくい顔で、なにをするでもなく、ぽつんとそこに立っている。
戸波はしかたなく、なにをするつもりなのか、どうするつもりなのか、とその女性にたずねる。
「なぜ、この場所に、ぼくを連れてきたんですか?」
戸波のその質問に、さやかは、即答する。
「戸波さん、あなたの記憶を回復させるためですよ? あなたが働いていた、この場所に来れば。
あなたが情熱を傾けて、日がな一日中、研究と開発にあけくれた、この場所を訪れれば。それがきっかけになって、あなたの失われた記憶は回復するかもしれない。
ほかのことは忘れていても。この場所の、ここで行ったことなら、あなたにとって特別な記憶で。覚えている可能性は高いはずです。どうですか、戸波さん。ここにあるもの見て。なにかを思い出しませんか?」
「期待に応えられずに、すいませんが……。この場所を訪れたときから。あいにくと、すべてが、初めて見聞きするものばかりでした……。ここに、ぼくが知っているものは、なにもないですね……」
「それじゃ、ほかの方法を試してみましょうか。からだを動かして得た仕事関係の記憶は。手や指を通じて覚えた記憶は。大脳よりも、小脳に記憶されています。
ですから頭を使っても思い出せないことでも、手や指を動かせば、それがきっかけになってよみがえってくることがある。戸波さん、どうぞ、そこにあるケージを手に取ってみてくれませんか? そうすれば、それがきっかけになって、なにかを思い出すかもしれせんよ?」
「いえ、遠慮しておきます。たったいまも、そこに入っているやつに食いつかれそうになったばかりなんですよ。なにかほかの方法をさがすことにしましょうよ?」
戸波の消極的な態度に、さやかはため息でかえす。
そこで戸波は、さやかに、次のように要求する。
「さやかさん。ひとつ、お願いがあるんですが……。ぼくは、一人で。この施設のなかを歩き回ってみたいんですよ。いいでしょうか?」
笑顔で応じてはみせたが、さやかが迷っているのが、戸波にもわかった。ややあって、こうかえす。
「わかりました。もしかすると、なにか思い出すかもしれませんからね。××分間だけ、いいでしょう。ただし、なにかあれば、すぐにもどってきてください。いいですね?」