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剪定  作者: げのむ
5/14

剪定 第五話 シナプス間隙

 5


 戸波は、病院のベッドあおむけに寝転がった恰好で。

 ベッドの横に積まれた冊子を、何冊か手にとる。

 そして、それを読み始める。

 そうやって、自分の疑問を解くのに、必要な知識を。少しでも多く、得ようとする。

 戸波は、自身に言いきかせる。

 いま、ぼくが学ぶべきは。シナプスのすきま。

 それと、神経伝達物質、に関することだ。

 脳を構成している神経細胞のネットワークのうちで。神経細胞の樹状突起と、ほかの神経細胞の樹状突起とのあいだにある、ごくわずかな、すきま。

 それと、そこで行われること。

 それについて、もっと知らなくてはならない。

 というわけで。ここでは、もう少し。戸波が資料を通じて得た、知識を語ることにする。

 これまでにでてきた知識を、もう一度、復習をするつもりで。どうか付き合ってもらいたい。

 シナプスのすきま、は。一般的には、シナプス間隙かんげき、とよばれるものになる。

 シナプス間隙とは、脳内にある、二つの神経細胞のあいだをさすもので。まさしく、言葉通りのものになる。

 でも論文によると。神経細胞と神経細胞とはくっついている、と表現されている。

 つまりは、なんらかのかたちで接着している状態であって。そのあいだにある、液を満たした、すきまみたいなもの、ととらえるべきらしい。

 すきまの広さは、15から20ナノメートルで。数万分の一ミリほどの広さになる。

 電気信号は、そこを通ることができない。そのために、化学物質による化学信号におきかえられて、このすきまに放出される。

 それを次のニューロンがうけとることで、情報は伝達されていく。そういう仕組みだ。

 このときに、信号を送りだす側を。つまりは、神経伝達物質を放出する側を。シナプス前細胞や、シナプス前膜という。

 放出された神経伝達物質をうけとる側を。シナプス後細胞や、シナプス後膜という。

 このときに起きる過程を、論文中の解説からそのままひきうつすと。だいたい、次のようになる。

 軸索の端にある、シナプス結合部は、ふくらんでいるが。このあたりを、シナプス前終末、という。

 このシナプス前終末にまで、活動電位が到達すると、神経伝達物質が放出されるのだが。この過程を簡潔に説明すると、次のようになる。

 まず最初に。前述したように、軸索の末端にまで電気信号が伝わると。電位により、電位依存性のカルシウム、イオンチャネルがひらく。

 ながれこんだカルシウムイオンが、シナプス小胞にくっついて。細胞膜と融合すると。シナプス小胞の袋が破れる。

 シナプス小胞の袋が破れると。そこに入っていた神経伝達物質が、シナプス間隙に放出される。

(ちなみに、シナプス小胞の大きさは40から50ナノメートルになる。シナプス間隙よりも大きいのだ)

 神経伝達物質は、シナプス間隙のなかを拡散する。

(すると、神経伝達物質を回収するためのトランスポーター等が活動を始めて)

 むこう側、受け側の樹状突起に分布する、レセプターとよばれる受容体に。放出された神経伝達物質がくっつく。すると、こちらのナトリウムチャネルがひらく。

 ナトリウムが次のニューロンにながれこみ。それによって、細胞膜内の電位がプラスになって。静止膜電位があがり。極分極する。

 なにを言っているのか、理解できないと思う。じつは語り手も、サッパリわからない。

 ここで重要なのは、きっと。問題の神経伝達物質は、シナプス小胞、というものに入っていて。

 信号が軸索内を通って、神経細胞の端にまで到達すると。このシナプス小胞が破れて。ここから神経伝達物質が放出される。という点だろう。

 そして、シナプス間隙に拡散した神経伝達物質を、シナプス後細胞側の受容体が拾うと。次の神経細胞でも、いまいったのと、まったく同じ活動が始まるわけだ。

 ちなみに。放出される、神経伝達物質の数は。それが放出される部位や。求められている効果にあわせて、いくつもの種類がある。

 みつかっているものだけで、おおよそ、100種類からある。

 ただこの種類の数も、仮のもので。今後、研究がすすめば、新しい神経伝達物質がもっとみつかる、と考えられている。

 続いて、神経伝達物質の種類だが。こちらは、アミノ酸、ペプチド類、モノアシン酸の三種にわけられる。そしてその効果は、大きく二つにわけることができる、

 ひとつは、神経細胞を興奮させて活発に活動させる効果を持つものだ。

 もうひとつは、その活発な活動を抑制する効果を持つものだ。その働きを、安定させたり、ゆっくりしたものに変える。あるいは打ち消すものになる。

 では、その神経伝達物質はどこでつくられるのか、だが。

 次の神経細胞にすぐに送らなきゃならないのだから。次の神経細胞とすきまをあけてくっついている、シナプス前細胞の軸索の終末部分や。そのあたりにたくさんある樹状突起でつくっているように思うかもしれないが。じつは、そうじゃない。

 そこからだいぶ離れている。ずっと手前にある。それぞれの神経細胞の細胞核内で。ほかのニューロンからの信号をうけることで。つくられるのだ。

 そして、つくりだされた神経伝達物質は。シナプス小胞という膜につつまれた状態で。細胞体の細胞核内から移動して。細胞体から軸索へ。軸索から、その先にある、それぞれの樹状突起へと、運ばれる。

 そこまで来ると。該当する樹状突起の先にたくさん生えているトゲ、スパインが。運ばれてきたカプセルみたいなシナプス小胞を内側からとりこんで装填して。

 指示がくると、タイミングよく破いて、すきまへと放出する。このような仕組みになっているのだ。

 ここまでが、放出、のプロセスになる。

 放出された神経伝達物質は、シナプス後細胞にある受容体がキャッチするが。そのための所要時間は、0、1から0、2ミリ秒になる。

(つまりは。シナプス間隙での神経伝達物質の伝達時間は、0、1から0、2ミリ秒、と定義できる)

(また、ここで放出された神経伝達物質は。放出後に再び、シナプス前細胞に取り込まれて再利用される。この仕組みを利用して、シナプス前細胞に取り込まれるのを阻止して、シナプス間隙に神経伝達物質が残るようにしたのが、阻害薬になる)

(放出された化学物質は、使わないものは、放出した神経細胞が吸収する。そして、再利用する。

 阻害薬は、受容体側をふさいで、放出された化学物質を、間隙にそのままにする。だから放出された神経伝達物質が少量でも、効果がある。脳の機能が正常化する。という仕組みになる)

 ここまでのことを、理解できる部分だけでも、頭に入れてから。

 戸波は続いて、解説文の最後のところまでを、声にだして読みあげる。

「……覚えておかなければならないのは。一つのニューロンは、一種類の神経伝達物質しかださない仕組みになっていることだ。そしてまた、受容体も。一種類の神経伝達物質しかうけとらない。というかたちになっていることだ……。

 ええと。これは、どういうことなんだ? 装填されて放出されるのがアドレナリンなら。アドレナリンだけで、情報の伝達をやっている。放出されるのがドーパミンなら、ドーパミンだけで情報の伝達をやっていると、そういうことになるなのか?

 でも、そういう仕組みになのだとしたら。戸波考二は、考え違いをしていたことになる。

 戸波の説を読んで、ぼくはてっきり。種類が異なる神経伝達物質をいくつも組みあわせることで。そのつどに複雑な情報をつくって放出しているんだ、と思っていた。

 でもいまの説明に従うなら。シナプス後細胞側の受容体に、複数の神経伝達物質を組みあわせたものを読みこませることはできない。ということになる。

 それじゃ、脳の神経細胞のネットワークは。ヒトの思考や意識を形成するくらいに大きな情報を送るのに。いったい、どんな方法をとっているのだろうか。サッパリ、わからない……。とにかく、まずは考えてみよう……。

 もしかすると。放出された情報を読みこむための場所が、ものすごく、たくさんあって。

 放出するシナプス前細胞側も。放出する神経伝達物質、一個一個に。少しずつ情報をわけて入れておいて。

 シナプス後細胞の受容器側で、その一個一個の情報を読みとって。集めて、組み直して。そうやって。大きく複雑な情報にもどしている。そういうことをしているんだろうか?

 そうやって、私たちの思考や意識になる情報を。その都度、その都度、シナプス間隙のむこうにわたしているんだろうか?

 いやいや。そうじゃない。そんなわけがない。それでうまくいくはずがない。

 シナプス間隙に放出される神経伝達物質は拡散するはずだ。そして受容体は、拡散したうちの一部を拾うんだから。それを組み直しても、正しい情報にはもどせない。

 それに、シナプス間隙での伝達時間は、0、1から0、2ミリ秒なんだから。いちいちバラバラになった情報を、拾った側で、集めて、組み直して。もう一度、正しく再構成なんてしていたら、それじゃすまない。もっと時間がかかるはずだ。

 もしかすると、化学信号で送ることができるのは。複雑ではない、ごく単純な情報になるんじゃないのか? やはり、ぼくが考えたように。大量の情報は送れないし。じつは、送ってないんじゃないか?

 でも、そうなると。また同じ疑問にぶちあたる。

 じゃあ、どうやって。思考や意識をつくっているんだ? それとも、ぼくが気付いていないだけで。この仕組みを使った、なにかもっと、べつの方法があるのか?」

 戸波は、夜の病室のベッドの上で。天井を見上げたままで、そう自問自答をして、解けない疑問を解こうとする。

 とはいえ、そんなことをいくらやっても、疑問の答えはみつからない。

 シナプス間隙と。そのすきまに放出されて、活用される、神経伝達物質……。

 この二つにまつわる疑問を、どうにかして解決するつもりなら。そのためにやるべきことは、ひとつしかない。

 もっと学ぶことだ。この二つのことを、もっともっと学ばなければならない。

 そして、学んで得た知識をもとに。そこに隠されている事実をみつけだすまで、ひたすらに考え抜くのだ。

 解決するには、それしかない。自分がやるべきことは、きっとそれなのだろう。


 戸波はそうやって。ベッドの上で、考え続けたが。

 いくら頭をひねっても、求めている答えはみつからなかった。

 それどころか、かえって謎や疑問はふかまるばかりである。

 おかげで、眠れなくなってしまい。戸波はしかたなく、寝ていたベッドから、身を起こす。

「……」

 気分転換をしたくなって。それまでいた病室から、廊下へと出る。とはいえ、病院の中なのだから、ほかに行くところもない。

 戸波は、部屋のすぐむかいにある、共同トイレに入る。

 じつは、戸波のいる個室は。部屋に小さな水洗トイレがある。だからわざわざ、こうして共同トイレを利用する必要はない。

 それでも、解けない疑問をかかえた心理状態で、部屋でジッとしているのは、どうにも耐えられなかった。

 時刻は、もう深夜をまわっている。小用の便器と、個室のドアがならんだ病院の男子用のトイレは、いまは戸波以外に、ほかに利用者はいない。

 時間を決めて定期的に清掃される、病院の共同トイレだから。それなりに清潔である。それに就寝後は、必ず暗くしなければならない病室よりも、こちらのが天井の照明があかるいので、ホッと安堵もできる。

 でもやはり、毎日掃除しても消せないアンモニアの匂いと、ほかの不快な臭気がただよっていて。長居したい場所ではない。

 小用を終えて、自分がいた病室にもどろうとするが。そこで、手を洗うために、共同トイレに隣接してある、共同の洗面所に入る。

 戸波は手を洗いながら、洗面所の壁にならんでいる鏡のひとつに、自分の顔をうつして、それをジッと見つめる。

 さやかが持ってきてくれた日用品のなかには、充電式のシェーバーがあったから。それで無精ヒゲをそって。見苦しくないようにしていた。

 だからそこには、よく知っている自分の顔がうつっているはずだった。そうだ、と思っていた。

 でもそこにうつっていたのは。やつれて、憔悴した、見知らぬ男の顔だった。

 髪の毛はボサボサで乱れている。それはしかたがない、としてもだ。血色が悪い面には、おちくぼんだ眼窟と、光がない目がはまっていて。ゾッとするような視線で、こちらを見ている。

 毎日、見舞いに訪れるさやかも。毎日、病室に検診にやってくる医師も看護師も。だれも指摘しないので、いまはじめて気付いた。どうひいき目に見てもそれは、心身ともに健康な、健常者の顔ではない。

 戸波は、両手で自分の顔をたしかめるようにさわると。その様子を鏡に映してながめながら。こみあげてきた気持ちのままに、次のセリフを口走る。

「これが、ぼくの顔か? どこかの見知らぬ病人だ、と言われたほうが。まだ信じられるぞ? 待ってくれよ。ぼくは本当に、こんな顔をしていたのか?

 それに、記憶を失っているんだから。自分の顔も覚えていないはずだよな? そんな状態で、知っている顔とはなんだ?」

 夜中すぎに、鏡に映った自分の顔を見ていた戸波は。そこまで口走ってから。不意に、両の掌で自分の面を覆うと。ぐうぅぅぅっと、声にならない呻き声をあげ始める。

 ひとしきり呻いてから、戸波はあらためて、また鏡のなかを見て。それから鏡のなかの自分にむかって、文句を言う。

「……ぁぁぁっっっ、て。ダメか。

 なんだよ。ホラッ! こんなふうに、夜中に一人きりで、鏡に映った自分の顔を見ているときは。あれだろ? 

 記憶がフラッシュバックみたいに襲ってくるものだろ? それに苦しめられるものだろ?

 映画やドラマであるじゃないか! それまで忘れていた、事件や事故の記憶が、部分的によみがえってきて、頭をかかえて苦しむとか。そういうのが定番じゃないか! そういうのはないのかよ? そうじゃないのかよ!」

 戸波は、鏡に映った自分にむかって。不満そうに、文句を言い続ける。

 そうやって、不毛な一人芝居を続けても、それらしいことが起きる様子はない。その兆候も訪れない。

 しびれをきらした戸波は、我慢できなくなってしまい。両手で自分の頭蓋を左右からつかむと、ぎゅうぎゅうとそれを押して、なにか記憶の断片でもあらわれないかと、一人で悪戦苦闘を続ける。

 そうやって、頑張ってみたが。イライラした気持ちがつのるばかりで、まるでその様子はない。

 戸波は、鏡の中自身にむかって、訴える。

「なんで、記憶の断片も、出てこないんだよ? おかしいじゃないか!

 だって、ぼくは。製薬会社で、新薬の開発をしてきた。そういうことになっている、高名な研究者なんだろ? それなら、なんでもいいから、そういう記憶のひとつやふたつくらい、思い出してもいいじゃないか!

 なのに。どうして、そうならないんだ? どうしてだ?」

 いくら自身によびかけても。それでもやはり、なにも思い出さない。

 けっきょくは、長々とため息をつくと。戸波は、自分の病室にもどって、寝るしかない、とあきらめる。だがそこで、べつの疑問にとりつかれる。

「そういえば、さやかさんは。ぼくが入院する原因になったのは。製薬会社の施設で起きた事故だ、と言っていたよな?

 いったい、それはどんな事故なんだろうか? それについて調べれば、思い出せないでいる、戸波孝二という研究者に記憶について。つまりは、本当のぼくについて、なにか知ることができるんじゃないか?」

 戸波は、鏡のむこうにいる、やつれた顔をした病人のようなそいつに、同意を求めるように、そう言いきかせる。

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