剪定 第四話 神経伝達物質
修正が足りてません。
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森さやかにいろいろと質問をしてみたが。疑問の解決につながる答えはみつからなかった。
さやかと別れて、一人になると。戸波は、ベッドに横たわって。今夜もまた、考えごとを始める。
戸波は、考える。
さやかが当てにならない、となれば。自分の力でなんとかするよりない。とはいえ、いまの自分に選べる方法は、とても少ない。
つまりは、考えて、考えて、考え抜くのだ。
でもそのためには、もっともっと、自分には、知識が。データが。情報が。必要だ。
戸波は、寝転がったままで手をのばし。戸波孝二が残した例の図を手にとる。何度目になるかもわからないが、それをじっくりとながめる。
今日、さやかと話したことを、思い出してみる。
それを、もう一度、じっくりと。頭の中で、自分なりにまとめてみる。
だいたい、次のようになるだろうか。
ヒトの大脳の中には、たくさんの神経細胞をつないでつくった、網のようなネットワークがひろがっている。
この網のなかを電気信号が走ることで、私たちヒトの思考や意識は生まれる。
どれくらいの数の細胞をつないでいるのか、というと。
大脳皮質だけ一四〇億個からの神経細胞があって。ネットワークを形成する各々の神経細胞から、それぞれ一万もの樹状突起がでている。それらが、ほかの神経細胞の樹状突起とくっつくかたちで、脳内のネットワークは形成されている。
でもだ。それぞれの接続部分には、ごくわずかな、すきまがある。
神経細胞のネットワーク内を走り抜けてきた電気信号は、そのすきままでくると。べつのかたちになる。
電気信号のかたちで送られてきた情報は。そこで化学物質のかたちになると放出されて。そのわずかなすきまを移動する。
そうやって、次の神経細胞の接続部分まで伝達されると。そこでまた電気信号にもどされて。次の神経細胞のなかを電気信号のかたちで伝達されて。次のすきまでまた同じことをくりかえす。
このわずかなすきまを、化学物質のかたちで移動する情報を。神経伝達物質、という。
(ちなみに神経伝達物質は、このほかにも。筋肉の受容体と結びつくことで、筋肉の収縮を起こす働きがある)
戸波孝二の説に従うのなら。この化学物質。神経伝達物質とは。脳の神経細胞と神経細胞とのあいだで。思考や意識を形成するための情報を伝達するために、産生されて、放出される。その役目をになう化学物質だ、ということになる。
ちなみに、教科書通りの解説をするなら。神経伝達物質とは、次のようなものになる。
神経細胞の細胞体で産生されるもので。シナプスから放出されて。ほかのシナプスと結びつくことで。神経細胞を興奮させたり、抑制したり、情報を伝達したり。そういう働きをもつ物質だ、となっている。
その種類は、代表的なものは20種類。広義の意味では、一〇〇種類以上もある。そして、どうやら。各々の神経伝達物質が、脳の神経細胞に対して、それぞれ異なる反応をとらせるようになっている。そういうものだ。
(ちなみに、放出されるいろいろな神経伝達物質は。放出後にまた、もとのシナプスのスパインに吸収されて。再利用される仕組みになっている)
代表的な神経伝達物質をあげると。アセチルコリン。アドレナリン(ノルアドレナリン)。ドーパミン。セロトニン。この四つになる。
私たちがよく耳にする、アドレナリンやドーパミンとは。なんとびっくり。じつは、シナプスのすきまで使う、神経伝達物質だったのだ。
そして、ここからが重要なのだが。シナプスのすきまで使われている。この神経伝達物質の、産生、放出、伝達がうまくいかなくなると。その人はマズいことになる。
たとえば、神経伝達物質が欠乏すると、意欲、気力、食欲が低下する。もっとひどくなると、脳の持ち主が病気になる。精神病といった、脳の病気になるのだ。
世間でいわれている、精神病や、精神疾患というものは。もしかすると、この。シナプスから放出される、神経伝達物質が欠乏をしたり。その逆に、過剰に産生されるせいで、発症するのではないか。そう考えられている。
たとえば、ドーパミンという神経伝達物質が過剰に放出されると。そのせいで、幻聴や幻覚、被害妄想が起きるようになる。そして、統合失調症という病気になる。そんなふうに考えられている。
ほかにも、セロトニンという神経伝達物質が欠乏するようになると。そのせいで、うつ病になる、と考えられている。
そんなことはない。精神病は、環境からくるストレスが原因で発症するケースが多い。そう主張する人もいる。
でも。そうだとすると。そういう仕組みで、精神病になるのならば。それはつまり、それだけ脳が容易に、環境からの影響をうけてしまい。神経伝達物質の産生や放出の量が変化する。そうも考えられるわけだ。
でも本当のところを言えば。じつはまだよくわかっていない、のが実情なので。語り手としては、原因を神経伝達物質のみに限定するのは危険だ、と思う。
ともかくだ。このようにして。精神病になるのは、脳内の神経伝達物質となにか関係があるのでは。と解明されてきた。
このおかげで。精神病を治療する方法も、いまでは様変わりをした。
過剰に放出された神経伝達物質の効果を、薬で抑制したり。その逆に、不足している神経伝達物質を薬のかたちで患者に服用してもらう。
こうした、新たな方法がとられるようになったのだ。
ちなみに、この話にちょくちょく出てくる、認知症の症状を緩和する効果がある、アセチルコリン阻害薬も同様で。
神経伝達物質であるアセチルコリンを分解する酵素をおさえる薬を飲むことで。患者の脳内で不足している神経伝達物質の量を増やして。それにより、シナプスとシナプスのあいだの伝達が改善されることで。患者のおとろえた記憶力や判断力が補強される。そういう仕組みの薬でもある。
(まとめてみると。
過剰に放出される脳内の神経伝達物質を。薬の効果で、抑制したり。
欠乏している神経伝達物質を、薬の効果でおぎなうことで。
患者の脳内にある神経伝達物質の量を安定させて。患者の精神状態をフラットにする。そうすることで。健康な人たちといっしょに生活できるようにする。
そういう治療方法になる)
でもだ。今回の話の主題にそって考えるなら。この神経伝達物質というものは。神経細胞から神経細胞へと送られる、情報の伝達に利用されているものだ、ということになる。
しかも、戸波孝二の仮説に従うならば。これは、思考や意識を生むための脳内の情報を、神経細胞のネットワーク内に伝えてひろげていく。そのための化学物質でもある、ということになる。
ところがだ。病院のベッドの上であぐらをかいている、こちらの戸波は。戸波孝二の論文を通じて知った、この仮説に、どうしても納得ができないでいた。
彼は、自身にむかって、言いきかせる。
さやかにむかって言ったことを、またくりかえす。
次のように問いかける。
おかしいじゃないか。理屈にあわないじゃないか。
脳内で。神経細胞から神経細胞へと、情報が伝えられていくのなら。
例のシナプスのすきまのところで。電気信号で送られてきた情報は。その保存形式を変えて。化学物質にして次の神経細胞へと送っていることになる。
しかも、そうやって。シナプスのすきまのところで。信号を、化学物質による化学信号に変えることを、いちいちくりかえしているのなら。
どうしたって、次の問題が生じるじゃないか。
インターネットと比較して考えてみればいい。ネットワーク内を、大量の情報を送信している途中で。何度も何度も変換作業をくりかえしていたら。
そんなことをしたら、目的の端末に情報を到着させるまでに。変換作業のせいで、遅延が生じたり。データの損失が起きてしまう。
そもそもだ。思考や意識になるくらいの大量の情報を。信号のかたちを変えて。シナプスのすきまで放出して。それをまた読みこんで。電気信号に復元するなんて手間を、いったいなんのためにやっているんだ。
そもそも、本当にそんな方法で。私たちの思考や意識を形成するくらいに大量の情報を。手早く、確実に、伝達できるものなのだろうか。
戸波は、その疑問を。そこに、さやかがいるつもりで。次のように、声にだして訴える。
「シナプスとシナプスのあいだの、ごくわずかな距離とはいえ。ですよ?
百種類からある神経伝達物質の組み合わせで。思考や意識にするための大量で複雑な情報をつくって、送れるものなんでしょうか?
だいたい、送らなければならない情報の量が増えれば増えるほど。シナプスのすきまに放出する化学物資の量も増えるのですから。大量の化学物質をつくったり、読み込んだりする時間や手間も。それだけ、よけいにかかる。
あらためて、そう考えると。化学信号にしても、いいところがありませんよね?
じゃあ。なんで。不便な化学物質による伝達なんてものを、ワザワザ使っているんでしょうか?
さやかさんにはきっと、否定されると思いますが。もしかすると、戸波孝二の説は間違っている。そういうことなんじゃないでしょうか?
だとしたら、ぼくたちの思考や意識は。なにか難しいことを考えたり。複雑な感情の発露もできる、これは。
いったいどういう仕組みで。つくりだされているんでしょうか? あなたはどう思いますか?」
戸波は、そう架空の相手に問いかける。でも、いくら待っても返事はない。
だから、いまの疑問の答えをさがすために。ベッドの横に積んだ冊子のなかから、それについて書かれているものをとって、読み始める。
その疑問に、なにか適切な解答をみつけたかったが。朝まで考えても、けっきょく、求めた答えはみつからない。