剪定 第三話 化学信号
3
その日の夕方。さやかは、帰る前に。戸波に、次のように話してきかせた。
「記憶を失う前の戸波さんは。ウチの製薬会社の開発室で。私といっしょに、認知症の治療薬の開発にかかわる研究をやっていました。
……けれども。お恥ずかしい話ですが。私たちは、ずっと失敗続きで。会社からの信頼を失っていたんですよ。
ですから戸波さんは、ある時点から。私にさえ秘密にして。治療薬の開発に打ち込むようになりました。狙い通りの効果があらわれたら、そこで。会社に報告するつもりだったのだろう、と思います……」
さやかが、いまの戸波にはわからない。さやかしか知らない。戸波との研究開発の日々を回想して、感慨にふけるようにそう述懐すると。
それをきいた戸波は、さやかに対して、気のない態度で、自分の考えを述べる。
「すると、試薬はできていたんですかね? もしも、そうなら。それは凄い。
それじゃ、その試薬で。あなたが知っている戸波さんは。すでになんらかの実験を行っていたかもしれない。といっても。それをたしかめる術は。記憶を失っている、いまの私には、ありませんけれど……」
戸波が、その場の思い付きで。そのように、自身の考えを述べると。さやかは、お喋りをやめてしまう。
さやかはそれ以上、記憶を失っている戸波に、もう一人の戸波が行っていた研究を語らなかった。
そのかわりに。戸波がそれ以上、なにかを気付く前に。
さやかは、あらためて、戸波の手をとって。それをギュッと握って。
驚いている戸波の顔を真正面から見すえて。それから、こう言いきかせる。
「戸波さん、じつは私は、あなたにまだ話していないことがあるんです。騒動が落ち着いて、事態が好転するまで。これはできるだけ伏せておくつもりでした。
でも、話す機会がなくなるかもしれないので。やはりいま、ここで、あなたに伝えておきます。
戸波さん。あなたと私の関係は、会社の同僚だった。仕事仲間だったと伝えましたが……。でもじつは、それだけじゃなかったんです……。
私が毎日、あなたのもとに訪れるわけは、会社の同僚以上の関係だったからなんです……」
「え。ちょっと、待ってください。まさか、そんなわけがない。だって、ぼくには、そんな記憶はないんですよ?」
「そうでしょうね。そうでしょうとも。あなたは病気で、私との関係のことを覚えていない。それは承知しています。
戸波さんも、突然にこんなことをきかされて。きっと、すっかり混乱していることでしょう。
でも。私が、こうして毎日、あなたのもとに訪れる意味を。どうか少しでいいから、考えてみてください。
私は、今日は、このまま帰ります。おさわがせしました。それでは」
さやかはそう告げると。驚いた顔でいる、なんとかえしたらいいのかわからずにいる戸波をその場に残して。折りたたみ椅子をかたづけずに、足早に病室から立ち去る。
今日も、昨日と同じ時刻に。配膳車で運ばれてきた病院の夕食をすませると。ほどなく、また消灯時間がやってくる。
戸波は。カーテンで、まわりをしきった、ベッドに横たわると。暗い天井を見上げて。長い夜を、考えごとにふけってすごすことにする。
読まなければならない冊子は、山のようにあるし。
これからどうしたらいいのか、それを考えなければならない。
そうしなければならないのはわかっていたけれど。それでも、戸波の頭のなかは、ほかのことでいっぱいだった。
いまも、さやかに言われたことが。さやかに告げられたセリフが。戸波の頭の中で、くりかえされている。
(自分は、それについての記憶を失っているけれど)さやかが言ったことを、彼女が言う通りにうけとめるなら。
戸波孝二と、森さやかは、恋人関係にあった、と。そういうことになる。
なるほど。そういう関係だったのか。それなら目覚めてからの。さやかの、自分への献身ぶりを理解できる。
でもだ。そうだ、としてもだ。
「恋人だった、と言われても。ぼくにはその、恋人であるときの記憶がないんだから。あの人が言うことを、鵜呑みにしていいんだろうか? 本当に。恋人だ、と信じていいんだろうか……?」
病室の暗い天井にむかって、戸波は、そのように問いかける。
「……ほかにもある。どうやら、ぼくは。製薬会社につとめていて。認知症の治療薬の開発をまかせられていた、会社の重要人物だったらしい。そしてだ。戸波孝二しか知らない、なにか重要な企業秘密を把握していたらしい。
さやかさんが、その戸波孝二という研究者の記憶を、回復させようとするのは……。中断している、その治療薬の開発を再開させて。薬を完成させるために。失われた記憶が必要だからなんじゃないだろうか……? それで、さやかさんはあんなに必死なんじゃないのか……?
となればだ。さやかさんが、ぼくたちが恋人だったと告げたのは。その本当の理由は。ぼくを信頼させて。やる気をださせて。大切な企業秘密を思い出させるためなんじゃないのか……?
だとしたら。そうだとしたら。そんな人に、恋人だ、と信じて接するってのは。用意されたワナに、自分からとびこんで。つかまりにいくようなもんじゃないのか……?」
戸波は、病院のベッドの上で。ぶつぶつと、こんなふうに、ひとりごとを続ける。
戸波は、森さやかからきかされた。自分たち二人が恋人関係だった、という。べつになにも裏付けがない話を。
最初は、いろいろと理由をつけて否定していたが。
時間の経過に従い。もしかするとそうであったかも、と。それを許容する方向に。
やがては。きっとそうだ、と自分に認めさせる方向に。持って行っていた。
本人も気付いていなかったが。戸波は、ひとりごとを続けながら、いつのまにかニヤニヤと笑っている。
☓日目だ。
今日もまた。森さやかが、入院している戸波のもとへ、見舞いに訪れる。
戸波は、ベッドにあぐらをかいてすわっている。戸波の様子は、昨日よりも浮き浮きとしていて、あかるい。
さやかに気付くと、戸波は、ベッドからおりて。さやかがやるよりも早く、用意しておいた、病院に常備してあるおりたたみ椅子をセットして、彼女にすすめる。
さやかが、それに腰かけると。戸波は自分から、話を始める。
さやかさん、疲れていませんか? よかった。論文の内容で、どうしてもわからないところがあって。ききたいことがあるんですよ。さやかさんのが、ぼくよりも専門家ですから。どうか、教えてもらえませんか?
「うふふふ。今日は、戸波さんが元気そうで、私も嬉しいです。やっぱり、勇気をだして、私たちの関係を伝えたのが、よかったみたいですね」
さやかは、昨日に自分たちが恋人関係にあった、と話したのが。ずいぶんと効果があったのだな、と察する。
これからは、機会があるごとに。セリフや表情に、それをだして、もっと強調していくべきだろう。
そのように算段を立てつつ。さやかは、さりげなく、戸波にたずねる。
「もしかすると、なにか思い出しましたか? きのう、話したように、私たちはそういう関係なんですから。どうぞ、遠慮なさらずに、なんでも私に話してくださいね?」
「いえいえ。たとえ、そういう関係だったとしても。それを理由に、さやかさんにあまえるわけにはいきませんからね。
じつは、ぼくは。昨日から、ずっと。あなたの恋人だった、もう一人の戸波孝二が、これまでどんなことをやっていたのかを調べていたんです。さやかさんが持ってきた論文の冊子を見ていけば、それがわかると思ったからです。
ぼくが、なにをみつけたのか、わかりますか?」
「いいえ、わからないわ。教えてくれませんか?」
戸波は、さやかに、読んでいた冊子のあいだから、とりだした一枚の図を見せる。
手にとって、その図をながめているさやかに。戸波は言いきかせる。
「この図を、冊子のなかでみつけたときには。そこになにが描かれているのか。ぼくには、最初は、サッパリわかりませんでした……」
彼が、さやかに見せたものは。研究者である戸波孝二が作製をした。大脳内の神経ネットワーク図、というものだった。
ヒトの脳内にある神経細胞をつなげてできた、網状のネットワークを。細部にわたるまで、できるだけ具体的に。CGを使い、三次元的に描いた、正面図だ。
まずそこには、大脳、小脳、脳幹という。ヒトの脳を構成している、三つの部分が描かれている。
その正面図の三つの部分のうちで。脳という器官のなかでも、その八十パーセントをしめる。最も大きなパーツである大脳のなかに。さらに、なにか妙なものが描きくわえられている。
それは、大脳ぜんたいにひろがるようにある。毛玉のかたまりのような。根をはりめぐらせた球根のような。そういうものだ。
大脳の中にある、この毛玉は。脳内にある神経細胞のネットワークが、実際にはどんなかたちをしているのかを。МRIのような最新の医療機器を使い、神経細胞内を移動する電気信号の動きを追跡してつくりだした、三次元図なのだ。
「考える、ということをやっているのは。私たちの脳のなかの、大脳という部分です。これは、外から見るかぎりは。灰白色をした。シワだらけの。八百グラムほどの、タンパク質と脂質のかたまりになります。
でも、この図をつくった戸波孝二が言うには。私たちの大脳の中にある、たくさんの神経細胞は。外から見るかぎりではわからないが、実際には、このようなかたちをしている、というのです。これについて、さやかさんは知っていましたか?」
「ええ、知っていますよ。よく、わかっていますとも。その事実を、私はその図をつくった人物から直接に教えてもらいましたからね。
それで、記憶を無くしている、いまの戸波さんは。その図を見て、どんな疑問を抱いたんですか? 私になにを告げたいんですか?」
「そう急かさないでください。ひとつずつ、順番にやって行きますからね……。では、いきますよ?
脳の実際の姿は。長く伸びた細長い、糸みたいなたくさんの神経細胞が集まって、できたものであって。
私たちの記憶は。その糸のようななかに、分子の配列のかたちで保持されている。それが戸波さんの説になります。
そして、脳の仕組みで、もうひとつ重要なことは……。私たちの思考や意識というものは、この細い糸が集まってできた神経細胞のネットワークのなかを、電気信号が走りまわることでつくりあげられる、ということです。
電気信号は、神経細胞の細胞体の樹状突起から入って。細胞体から、長く伸びた軸索を通り抜けて。ほかの神経細胞へと送られていきます。
そして、これが重要ですが。脳の神経細胞のネットワークで忘れてはいけないのは。神経細胞の樹状突起と、ほかの神経細胞の樹状突起とは、くっついているわけではないことです。じつは、ごくわずかな、すきまがある。シナプスのすきま、と言われるものです。
神経細胞を通り抜けてやってきた電気信号は。このシナプスのすきまで。信号をいったん化学信号にして。脳内のネットワーク内を伝達される仕組みになっているのです。
ではそのすきまを、化学信号はどのようなかたちで伝達されるのか、といえば。
これには、ある種のタンパク質。化学物質が使われるのです。
この化学信号に使われるタンパク質は。脳の神経細胞の細胞核でつくられて。神経細胞からでている樹状突起を通って。その先にある、神経線維にまで運ばれる。その神経線維にあるスパインという1ミクロン弱の大きさのトゲへと入る。
(ヒトの大脳皮質の細胞の数は、約一四〇億個になる。この一四〇億個の細胞のうちの神経細胞から、それぞれ一万もの樹状突起がでている計算になる。スパインは、その一万もの樹状突起に生えている、たくさんのトゲになる)
神経細胞の細胞体から。細胞一個につき一万からある樹状突起のすべてに。この化学物質が配達される。
そして、各々の樹状突起が。スパインというトゲをひらいて。配達されてきた、タンパク質をうけいれて、準備完了という状態になる。
「かなりあやふやですが、持ってきてもらった資料を通じて。ここまでは、なんとか把握しました。
さて。ここからが問題なんです。いいですか。でもそうなると、ですよ?」
さやかにむかって、彼は訴える。
戸波孝二の説では。ヒトの思考や意識は、脳に記憶された記憶を連続して再生することでつくられる、となっています。
でも、そう仮定するなら。電気信号のかたちで送る情報は、神経細胞と神経線維の単位ごとに、シナプスのすきまで、ワザワザ、電気信号から化学信号に変換して送っていることになる。
いったん化学物質による化学信号に変えて、次の神経細胞の神経線維に送って。そこでまた電気信号にする。そういうことをくりかえして。そうやって大量の情報を伝達していることになりますよね。
電気信号から化学信号に変えて。また化学信号から電気信号に変える……。そんなしち面倒くさい方法で。私たちの思考や意識になるだけの、大量の情報を。送ることができるものなのでしょうか? ぼくには、とてもできるとは思えません。
なんでワザワザ、電気信号を。化学物質を使う、化学信号に変換する必要があるんでしょうか?
このあたりの疑問や矛盾に対する答えは、いったいどうなっているんでしょうか?
戸波は、生じた疑問を。彼にできる、最大限に真摯な態度で。さやかに語る。そして問う。
「さやかさんが求めている治療薬の問題とは関わりがないのかも知れませんが。これはぼくの力では、どうにも解けなかった疑問なんです。
さやかさんは、この疑問に対する答えを、知りませんか? 二人でずっと、いっしょに研究していたのですから、戸波孝二から、なにか教えられているんじゃないですか?」
戸波が、どこかすがるような表情と態度でそうたずねると。
笑顔であるのはくずさなかったが。さやかは、ぎこちない口調と態度で、くびを横にふってみせる。
「お役にたてなくて、すいません。それについては、私も教えてもらっていないんですよ。
でも、それならば。これから二人で、それについていっしょに考えてみるのは、どうでしょうか? 二人で考えれば、疑問の答えにつながる糸口が、みつかるかもしれませんよ? だって、私たちは恋人なんですからね。それならば、二人でいっしょに頑張りましょうよ!」
さやかは、戸波にそう言いきかせると。また戸波の手をとって、笑顔と親しい態度で、何度も言いきかせるように、そうやってはげまして、元気づける。とか。