剪定 第二話 面会
まだ未完成ですが。出すよりないので。
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さやかが帰ってしまうと。
戸波は一人きりで。病室のベッドに横たわり。天井を見上げて。考えごとにふけった。
夕食の時間がやってきて。食事が配膳されてきたときも。ベッドの上でそれを食べながら。戸波は、考え続けた。
看護師がやってきて。蛇腹式のカーテンを動かして、それでベッドのまわりを覆い。天井の電灯のあかりを暗くして、消灯時間です、と告げたときも。戸波は、考え続けた。
部屋も廊下も暗くなって、長い夜の時間がやってきても。ベッドに寝て。天井を見上げて。戸波は、考え続けた。
考えなければならないことは、たくさんあった。
これから、じつに一晩がかりで考えても、結論をだせないくらいに。とても、たくさんあった。
まず、ひとつめは、自分の病気のことだ。
若年性アルツハイマー病。
自分は、その病気にかかっている。
この病気について、医師から宣告されて、説明もうけた。けれども、いまだにその実感はない。
記憶を失っているのは事実だ。それについては、間違いなく。いまこの瞬間も、思い出せないのを実感できている。
でも、本当に、自分はアルツハイマー病なのだろうか?
そうじゃない、と拒絶したいところだが。自分の記憶が無い理由を考えるなら。やはり、認知症か、健忘症しかない。
だとすればやはり、自分が認知症にかかっている、という医師の診断は正しいことになる。
「はぁっ……。認知症って……。なんなんだ、それって……」
戸波は、ベッドに寝たままで、ため息をつく。
なってみて痛感するが。自分はこの病気について、なにも知らない。病気についての知識がない。
だったら、知らなければならない。
そうしなければ、この病気に正しく対処できない。
なにも知らないのは。それはつまり、なにもできない、のと同じことだからだ。
ふたつめは。さやかが言っていた。戸波という人物が、認知症の治療薬の開発をやっていた、という件だ。
さやかは、事情を説明して後に。そういうワケだから、薬の開発に。あなたも協力してくれ、と。そう要求してきた。
でもだ。そうはいってもだ。病気のせいで自分が何者かもわからなくなっている、認知症の患者である自分に。いったいなにができる、というのだろうか?
さらにいえば、だ。いまさら、気付いたが。自分は、森さやかの連絡先をきいていない。彼女に、協力する、とは約束したが。これではどうしようもない。
「はぁっ……。本当に、いったい、どうしたら、いいんだよ……。はぁっ……」
病室のベッドのうえで、戸波は、これで何度目か、ため息をつく。さらに、もう一度、ため息をつく。
どうしたらいいのかわからない。どうすればいいのかわからない。だからだろう。思い悩んでいた戸波は。その晩は、あまり眠れなかった。
おかげで、翌日は。つまり、☓☓日目は。ずっと、病院のベッドの上で。戸波は、睡眠不足の頭を抱えて過ごすことになった。
午前中は、そんな調子で過ごしたが。午後になると、戸波の不眠の原因となった疑問や要望は、ある程度は解消されることになった。
午後になって。入院している患者への見舞いが許可される時刻になった頃だ。
森さやかが、大荷物をかかえて。戸波のもとに、再びやってきた。
どうやら今日も、会社から、そのまま、きたらしい。昨日と同じ、スーツの上着に、スカートという格好をしている。
さやかは、両手にひとつずつ、荷物が入った大きな紙袋をさげている。
荷物はそれだけではない。見れば、肩からは、さらに大きなボストンバッグを下げている。
さやかが手にさげている紙袋は、ここに来る途中で買い物したものが入っているようだ。名前をよくきく、服飾雑貨の店名が、紙袋にはプリントされている。
そして、もうひとつの荷物である。さやかが肩から下げているボストンバッグのほうだが。こちらは、紙袋にくらべて、だいぶ重量がある、とわかる。運んでいるさやかが、ひどく苦労しているからだ。
驚いた顔で自分を見ている戸波に、さやかは一言、こう告げる。
「こんにちは~。お見舞いにきましたよ?」
それから、ここまで運んできた大荷物をひとつずつおろして、やれやれ、と額の汗をぬぐう。
「戸波さん。今日はですね。戸波さんが、入院中に必要となるものを持ってきました。
こちらは、替えの下着と。寝間着と。タオルと。そうした衣料品になります。こちらには、シェイバーと。歯ブラシと歯磨き粉と。湯のみ茶碗と。スリッパが入っています」
「ああ、なるほど。どうも、ありがとうございます……。じゃなくて、ですね。ちょっと、待ってください!
ぼくには、さやかさんがそこまで、ぼくの世話を焼いてくれる理由がわかりません。
来てくれたことに困っている、と言っているんじゃありませんよ。むしろ、ぼくは、喜んでいますからね。
さやかさんは、今日は出勤日だったんじゃないですか? それなのに。こんな時間に、こんなところに来るなんて。会社の仕事はいいんですか?」
動揺している戸波に。さやかは、なにを言っているんですか。これくらいは当然のことじゃないですか。そういう、あたり前の顔で告げる。
「いいですか、よくきいてくださいよ? 私が戸波さんのもとに通うのも。戸波さんの生活用品を購入してきたのも。これはすべて、会社の仕事であり。会社の業務の一環だ、と考えてください。
ウチの会社でやっていた、認知症の治療薬の研究は。戸波さんが抜けたせいで、中断しています。
となればですよ。戸波さんの早い復帰のためにも。この程度の努力をするのは、会社側として、あたり前のことじゃないですかね?」
「それじゃ、もしかすると。これだけのものを買いこんだ費用のほうは?」
「もちろん、経費として、会社に計上されますので。ご安心ください。
それだけじゃありませんよ。今回の件でかかった、入院の費用や、検査や治療にかかる費用も、会社側が負担してくれます。そういうことになるはずです」
「……!」
戸波は、驚いて目をまるくすると。それから、ホッと胸をなでおろす。
さやかは。安堵している戸波に。しかし、なんのつもりか。フッと笑ってみせる。
さやかは、持ってきた大きなボストンバッグをさすと。戸波に、こう言いきかせる。
「それから、こちらのバッグに入れて持ってきたものですが。こちらのほうは、私の個人的な好意で、やったことになります。
じつは。今日、ここに来たのも。これを持ってくるのが目的だった、と言ってもいいでしょう。
これを、ここまで運ぶのは。本当に、重くて大変だったんですからね? 私に感謝してくださいよ?」
「ええ。はい。そうします……。それで。それは、いったい、なんでしょう……?」
戸波が中身を問うと。さやかは、バッグのファスナーをひらいて。なかにはいっていたものを、ひとつずつとりだす。それをベッドの上に置いて、ならべていく。
出てきたのは、おびただしい量になる、紙資料だった。
パッと見たところ、論文や、レポートのたぐいを閉じたものだ、とわかる。
そういうたぐいの紙の束が、次々と、さやかの手でベッドの上に積みあげられていく。
ベッドに積まれる大量の紙の束の山から、戸波は一冊をとって。ページをめくって、内容をたしかめる。
そこで戸波は、これがだれが使っていたものなのかを察する。
戸波はさやかを見るが、問うまでもなく、さやかがそれを裏づける。
「戸波さんが、会社で仕事のために使っていた資料のうちの。ほんの一部を。ここに持ってきました。
入院中のヒマなときに、目を通してみてください。もしかしたら、戸波さんが頻繁に使っていた、そういう資料を読めば。それがきっかけで、失われた記憶を思い出すかもしれないですから……」
「あ、あのぅ……。もしかして、これを全部、読めと……? それに。いまどき、紙資料って……」
「戸波さんが、会社で使っているノートパソコンや。社用として契約しているスマホは。入っているデータから会社の業務内容が漏洩する危険があるために。どちらも、社外への持ちだしを禁止されています。
ですから、それ以外の。なにか別のもので、代用するしかなかったんですよ。
ああ。それからですね。こちらの紙の資料ですが。これは、すべて。私の個人的な判断にもとづいて。私が持ってきたかったから、持ってきたものですからね?」
「えぇっ。ちょっと、待ってください。さやかさんは、なにか危険を犯しているんですか? だったらこの紙資料は、会社に持って帰ってくださいよ!」
手にとって、パラパラと内容を読みだした戸波だったが。さやかの説明をきいて、あわててそれを閉じると、紙束の資料をさやかにさしだす。
ところがさやかはそれを押し返して。戸波にむかって一歩大きく歩みよると、両手で戸波の肩をつかんで、こう言いきかせる。
「いいですか、戸波さん。戸波さんの会社での立場は、いま。(いつ失墜してもおかしくない)非常に微妙なところにあります。
会社は。これが業務中の事故であることから、戸波さんが担当していた治療薬の開発業務をいったん中断して。私に戸波さんの面倒をみるように、と指示をしました。
ですが、今後、戸波さんの業務への復帰がむずかしく。もう戸波さんに治療薬の開発はできない。その能力はない、と会社が判断すれば。そこで戸波さんの価値は失われてしまいます。
戸波さんは、事故による退職のあつかいで、解雇されるでしょう。
それだけじゃありません。ここまですすめてきた治療薬の開発計画も。あとを引き継ぐ者がいない。そういう理由で、凍結。あるいは、中止、になる可能性が高い。
私はイヤです。あんなに頑張って。あんなに苦労して。なにもないところから、かたちにしたものなんですよ。それをなかったことにするなんて、私にはできない。絶対にできません。
それに、戸波さんだって。しょっちゅう、私に言っていたじゃないですかっ!
これは、大勢の人たちを救う、大変に価値がある薬になる、ってっ!
だから私は、戸波さんに。記憶をとりもどして欲しい。新薬開発の業務に復帰してもらいたいんですっ!
それでも、どうしても。それが無理だと言うなら。治療薬の開発に必要となるアイデアや指示を。ここから、あなたにだしてもらいたい。あとは私がひきついで、治療薬をつくりあげますから。だから。だからっ、どうかっ!」
「……そ、そうは言っても、入院しているぼくに。なにか有用なことができるとは思えません。ここにいるかぎりは、さやかさんとは連絡すらとれないんですからね……?」
「会社との連絡は。この病院の、この階のナースステーショへ。私から送るようにします。
指示は、病院の看護師から、あなたへと伝えられるはずです。しばらくは、それでやっていきましょう」
両肩をガッチリとつかんでいる状態で。メガネのレンズむこうから、さやかは真剣な表情で。声に力を込めて。目の前にいる、戸波を相手に訴える。
逃げることもできない状態で。それでも戸波は、さやかに対して、必死に抗議する。
「無理ですって! できませんって! だって、ぼくは、なにも覚えていないんですよ?
これまでなにをやってきたのか、わからない。治療薬のことも、会社の仕事のことも。記憶をそっくり喪失しているんです。きれいサッパリ、なにもないんです。
こんな状態のぼくに、いっないなにができる、っていうんですか? どんな協力ができる、っていうんですか?」
そう抗議して、戸波は、さやかから逃れようとする。
だがしかし、戸波を逃さないために。さやかはさらにいっそう、肩をつかむ力と、声に力を込めて、辛抱強く、言いきかせる。
「それは、わかっています。それでも、どうか、お願いします……」
「いいから、離してくださいよ……。って、え?」
きっと、いまの戸波が知らない。もう一人の戸波とすごした。研究開発の日々を思い出しているのだろう。
さやかの決意の表情と。まなじりに浮かべた涙を見て。戸波は、それ以上は、抗議を続けられなくなる。
やがて戸波は、小さな声で、こうかえす。
「わかりました。さやかさんが望むような治療薬をつくれるのかどうか、それについては自信がありませんが。いできるかぎりのことは、やってみましょう……」
「はいっ。よろしくお願いします」
戸波が、シブシブといった様子で同意すると。さやかは、笑顔をみせる。
見舞いにきた、さやかの相手をして。戸波はすっかり、疲れてしまった。
さやかが帰ってしまうと。戸波は、不意に静かになってしまった病室のなかを見回して。いろいろな品物が散らばっているベッドの上の惨状をたしかめて。ため息をつく。
しかたなく、戸波は。さやかが持ってきた、大量の紙の資料の、かたづけを始める。
衣服や、雑貨品は、ともかくとして。紙資料のほうは、サイドテーブルの引き出しに入りきらない。しかたないので、ベッドのそばに積んでおく。
かたづけをしている最中に、病室に、看護師の女性が、検温や、血圧や、血中酸素濃度の確認と。患者になにか変化がないか、それを調べにやってくる。
病室のなかに増えた、乱雑に積まれた紙資料を見て、看護師の女性は、目をむいて、絶句する。
なにか言いかけたが。かぶりをふって。自分の仕事をすませると、さっさとほかの病室にむかう。
戸波は、夕食が始まる頃までには、さやかが持ち込んだものをあらかた、ベッドのまわりに積んだり、サイドテーブルにしまったりできた。
とはいえ、かたづけ以外にも、やっておかなければならないことがある。
一日一度、やってくる、掃除の人に。ゴミとして持って行かれないように。ベッドのそばに積んだ、紙の資料の山の上に。メモを、目立つように置いておく。
「私物です。大切なものです。捨てないで」
ようやく、かたづけを終えて。ベッドに横になると。戸波は、今日一日で持ち込まれた紙資料の山をながめて、あらためて思いを馳せる。
「いったいぜんたい、記憶を失う前のぼくって、どんなやつだったんだろうか?
この大量の資料の山を前にしてわかるのは。そいつは、この難解な資料の数々を読み解いて。そこからなにか、新しい発見を導きだせる力を持っていた、ってことだよな?
でもぼくには、そんなことはできない。いったいそいつは、どんな頭のレベルをしていたんだろうか? 本当に、そいつと、ぼくとは、同一人物なんだろうか?」
協力するとは言ったけれど。じつは、戸波は、そんなことはできないだろう、となかばあきらめていた。
さやかには悪いが。自分には、彼女が持ってきてくれた、この大量の資料を、すべて読むことはできないだろう。
だいたい、自分の頭の程度では。ここにある紙の資料に書いてある、難解な論文を読んでも、内容を理解することは無理だ。
さっき、手にとって。パラパラとめくって読んでみたものは、とても初心者むけとはいえなかった。
専門家が書いた論文というものは。読み手が、基礎となる知識をそなえていなければ。つまりは、その分野に、ある程度は通じていなければ。内容を読解できないものが多い。だから、自分には読解は無理だろう。
最初からそんな消極的な態度でいた戸波だったが。
それでも。とりあえず、読んでみるだけ読んでみよう、と。あきらめ半分で論文の一冊を手にとって。冊子のページをめくってみる。
それは、さやかが、これは特に重要だ、と力説していた。「ヒトの思考や意識が生まれる、その仕組みとは」という論文だった。
著者の名前は消してある。けれども、何度もくりかえし、読まれたのは間違いない。
なぜなら、ひらいた冊子のページはどこもくたくたになっている。
それに、冊子がバラバラになるたびに、ホッチキスで何度も閉じ直してある。
そのほかにも、破けてしまった表紙のページを新しくつけかえたりと、いろいろと手をくわえてある。
最初は、自分には無理だ、とあきらめていたが。冊子を手にとって読み始めると。その内容を、自分がある程度は理解できるのを知って。戸波は、驚くことになった。
「あれっ? あれえぇっ? なんだ、こりゃ? これは、いったいぜんたい、どういうことだ?
驚いたな。意味や内容がサッパリわからない。理解不能だ。お手上げだ。白旗をあげるしかない。きっとそうなる、と思ったのに。そうなって、当然なのに。
断言してもいいが。ぼくはこんなもの、いっぺんも読んだことがない。それなのに。なぜだか、ここに書かれていることの意味がわかるぞ? いったい、どんな仕組みで。どういう理屈で、こんなことになるんだ?」
戸波は、自分の身に起きていることが。その現象が。なぜそうなるのか、その意味が、まるで理解できなかった。
理解できないだろう、と思って手にとった論文だったが。戸波はそのまま、時間も忘れて、熱心に冊子を読みふけることになる。
病院という施設は。消灯時間になると、それ以降は。どの病室でも、読書なんてできないくらいに、各部屋の照明装置のあかりを暗くする。
でもそうすると。患者には、不便なので。
消灯時間後の夜間は、各々のベッドの枕もとをあかるくできる。壁のコンセントに取り付けるタイプの小型ライトを点灯させて。そのあかりのもとで必要なことができるようになっている。
戸波は、消灯後は、手もとを照らす小型のライトをつけっぱなしにして。さやかが持ってきた、紙資料の論文を熱心に読みふけることになった。
夜の何時頃だったろうか。読むのをいったんやめると、戸波は、自問自答をする。
「いや。だからさ? だとしても、だよ? いったいぜんたい、これはどういうことなんだ?」
戸波は、なぜ読んだことがない論文を、自分がこうして読むことができるのか。その理由について。自身にむかって、次のように問いかける。
「きっと、ぼくは。これを読んだ記憶を、そっくり失ってしまったんだ。それはつまり。ぼくが認知症や健忘症にかかっているからなんだろう。
でも、待てよ? 本当に記憶をそっくり失っているのなら。この論文の内容を、また再び、容易に理解することはできないはずだよな?
だって、認知症って病気は。経験してことを、一時的に忘れるのではなくて。
経験した、という記憶そのものを。それ自体を忘れてしまうんだったよな?
本当に忘れてしまったのなら。それについての記憶を完全に失っているはずだ、だから。いまみたいなことは、どうあっても起きないはずだよな? こんなことにはならないはずだよな?」
戸波は、その理由について、思いめぐらせる。
可能性として、思いついたのは。このことを自分が忘れているだけだから、というものだった。これが、最も可能性がありそうなことだった。
「つまり、これは。ぼくが忘れてしまった、と感じているだけで。製薬会社に勤務していた、って以前の戸波孝二の記憶は、いまもぼくの脳のどこかにちゃんと残っている。つまりは、そういうことなんじゃないだろうか?」
論文を読むのをいったん中断すると。戸波は、病院のベッドの上で。小さな電灯のあかりだけがともっている、そのもとで。顎の下に手をやって。むずかしい顔で。その理由について、考え始める。
その翌日。☓日目だ。昨日と同じくらいの時刻に。さやかが、再び病院にやってくる。
「どうも〜。さやかです。今日も、お見舞いにきましたよ〜。
さっそくですが。戸波さん。私が昨日、運んできた資料に、目を通していただけましたか?」
病室に入ってくるなり、早々に。さやかは、遠慮なく、戸波にそう質問をしてくる。
さやかが問うまでもない。戸波は、いまもまさに、例の冊子にしてある紙資料を、ベッドの上で、熱心に読みふけっている最中だった。
戸波は、さやかのほうをふりかえって、ああこれはどうも、と。いい加減な、生返事で応答する。なんだか、うわのそらだ。
さやかは、戸波のそんな様子をながめて。どうしたんですか? なにかあったんですか? と問うことはしなかった。
そのかわりに、病院の廊下に用意してある来客用のおりたたみ椅子をとってくると。それを戸波のベッドのそばにセットして。椅子に腰をかける。
それから、さやかは、戸波のやることジャマしないように。すわった姿勢で、戸波のやることを、ジッと注視することを始める。
戸波は、さやかの視線を気にする様子もなく。あいもかわらずに、資料を読みふけっている。
ときおり、さやかが昨日に持ってきてくれた筆記用具で。思い付いたことを手近にある紙に書きつけたり。そこにさらに新しい考えを書きくわえたりと。そんなことをしている。
今日の面会時間が終わるまで、ずっとそんな状態が続くのか、と思われたが。
どうやら、自分なりに納得できるところにまで進むと。戸波は、さやかのほうを見もせずに。前置きもなしに、こう話をきりだす。
「まだほんの、さわり程度しか、わかっていないんですが……。
(ここからダメなんだよな)
もしかすると。本当に。ぼくの、この脳には、研究者である戸波孝二の記憶が残っているかもしれません。
そして、なんらかの方法で。認知症によって失われた、と思い込んでいる。この脳に入っている、認知症の治療薬に関する記憶を、回復させることができるかもしれない……」
セリフの最後のあたりを、戸波は、特に強調してみせる。
行儀よく、両足をそろえた格好で。椅子にすわって。戸波の言葉を待っていたさやかだったが。
戸波の説明をきいたとたんに。大きく身をのりだして。めいっぱいに目を見開いて。それから、笑みを浮かべる。
手もとの資料を読むのに熱中していたので、戸波は気付かなかったが。
その笑顔は。隠しきれない内心の愉悦を、つい表情にだしてしまったような。
見る者がいれば、口角を大きくつりあげた、悪魔が浮かべる優悦の笑みにも見える。そんなような、そういう、おそろしい笑みだった。
だが戸波が、冊子から面をあげて、そちらに視線をむけたときには。その笑みはどこかに消えてしまい。昨日となにも変わりない、見なれたさやかがこちらを見ている。
さやかは、優しく親しげな態度で、戸波に問いかける。
「それはつまり、あなたは。認知症によって、失われた記憶をとりもどす方法をみつけた、ということですか?」
「そうじゃありません。そうじゃないんです。まだそこまでは、断言できないんです。
でも。アルツハイマー病の発症後に。たとえ失われてしまったように見えたとしても。適切な方法を講じることで。失われた記憶はとりもどせるかもしれない。
そして、その方法をぼく自身にほどこせば。ぼくは、またもとの戸波孝二にもどれるかも知れない。その可能性がある、ということです」
「でもいったい。どうしてそんなことがわかったんですか?」
さやかのもっともな疑問に、戸波は昨日の経験について、語り始める。
「じつは、ですね……」
ここで、手短に、簡単な説明をいれる。
戸波が発症した病気は、若年性認知症だが。これは正確には、若年性、アルツハイマー型認知症、という病気になる。
これが、いったい、どんな病気か、というと。
認知症は、一般的には。老化が原因で、もたらされる病気だと。そう理解されている。
ヒトはだれでも。成人後は。時間の経過にともない、肉体が老化していく。
そして、からだの老化にあわせて。ヒトはだれでも、それにともない、脳の細胞が少しずつ減少していく。それによって、脳が萎縮していく。
脳が萎縮したせいで。高齢者は、よくもの忘れをしたり、性格が怒りっぽくなったり、頑固になるが。それでも老化による脳萎縮の程度なら、日常生活を支障なく送ることができる。
ところがだ。シワが増えたり、シワが深くなる、通常の老化による脳萎縮よりも早く。なにか別の原因で、脳萎縮が急速に進行してしまう場合がある。
そうなると、そうなった患者は。普通に日常生活を送れるだけの思考力や判断力を失ってしまい。だれかの介護が必要になる。
これを、認知症と呼ぶ。あるいは、アルツハイマー型認知症という。
ちなみに、アルツハイマー型認知症は。この病気の全体の七割にもなるので。認知症といえば、ほとんどの場合は、患者はこれになる。
では、戸波がかかっている、若年性認知症は。いったいどういうものか、というと。
前述したように。認知症をもたらす脳萎縮は、高齢による老化が原因で起きるのだが。それなのに、なぜか、それがまだ若いうちに発症してしまう場合がある。
これが戸波がいまかかっている、若年性認知症になる。
わざわざ病名に、若い、とつくのだから。患者は二十代や三十代が多いと思うかもしれないが。若年性認知症は、一般的に五十代くらいからの発症をさす。
ちなみに、厚生労働省は。65歳未満で発症した場合の認知症を、若年性認知症だ、と定義している。
(若年性認知症の特徴として。患者は男性のが多くて。血管性認知症が四割くらいと、最も多くなる。
血管性認知症は。記憶力や判断力の低下だけではなくて。運動まひ。歩行障害。排尿障害など。アルツハイマー型とは違い。運動能力に異常をともなう。ということは、たぶん、小脳に影響がでるわけだ)
(ちなみに、若年性アルツハイマー病は、高齢者の場合よりも、若い患者のほうが病気の進行が早い。そういう特徴がある)
戸波の場合、いまのところは運動能力に問題は生じていないために。血管性認知症ではない、と診断されていた。
ここで、当然の疑問が生じる、と思う。
年齢による老化が引き金になって。脳萎縮が始まり。認知症になる。そういう仕組みなのでは、と思いがちだが。若年性のケースをみると、なにかほかの原因で脳萎縮がもたらされるのではないか、と考えざるを得なくなる。
あるいは、若年性認知症は。一般的な認知症とは、発症の原因が異なるのかも知れない。
もしかしたら、認知症により失われた、とそう思い込んでいる記憶を、とりもどせるかも知れない。
そうきかされた、さやかは。平静を装いながら。そう考える理由を、戸波にたずねていた。
「そんなことを言いだすなんて。まさか。もしかして……。戸波さんは。治療薬の開発をしていた頃の記憶がもどったんじゃないですか?」
その問いに、戸波は。くびを横に振ってから。自信がなさそうな表情と態度で。そう考えた理由を、さやかに語ってきかせる。
「それならいいんですが、そうじゃないんですよ……。」
「じつは昨日から、さやかさんが持ってきてくれた冊子を読ませてもらってますが。それでわかったことがあります。
ぼくは、昨日の夜に、はじめてその論文を読みました。それなのに。まるで、その論文の内容を、最初から把握していたように。昨夜のぼくは、そこに書かれていることを、スムーズに理解することができたんです。
そのときに覚えた感覚を、どう言えば、さやかさんに伝えられるでしょうか? 自分がとっくにそれを知っている気がした。どこかでこれを読んだことがあると感じた。そういう感覚を覚えた。そういうべきでしょうか……」
戸波は、言葉を選びながら、自分の考えを、さやかに語る。
「これは断言できますが。ぼくは、戸波孝二という研究者について、なにも知りません。思い出そうと頭をひねっても、なにも思い浮かんでこない。なんの記憶もよみがえってこないんですからね。
ところが、さやかさんが持ってきた冊子を読んでみたら。それまですっかり忘れていた遠い記憶を思いだすように。論文の内容が、ボンヤリとよみがえってきた。そんな感覚を覚えたのです。
ということは、ですよ。ぼくの脳内にある、戸波孝二の記憶は。病気によって喪失してしまったわけではなくて。よみがえらせることができなくなっているだけで。まだそこにある。
病気のせいで失われた、と思い込んでいるだけで。戸波孝二の記憶は。いまもここにある。そういうことになるんじゃないでしょうか……?」
戸波は、さらに続ける。
「さっきの理屈に従えば。認知症が発症した、ということは。認知症の進行による脳萎縮のせいで。ぼくは、脳に保持されていた戸波孝二に関する記憶を、すでにもう失っているはずです。そういうことになるはずですよね?」
「認知症という脳の病気は。神経細胞の減少にともない。脳の萎縮が進行することで、失われてしまった記憶は、二度ともどってこない。それが定説になっています。
ところが、認知症だと言われた、ぼくの脳のなかに。よみがえらせることができないだけで、戸波孝二の記憶は、ちゃんと残り続けている。
つまりは。記憶は失われているように見えるだけで。なにか適切な処置をほどこせば。また再び、よみがえるんじゃないでしょうか?」
そして、その方法を確立できれば、それが認知症の治療方法になるんじゃないでしょうか?」
「……」
「とはいうものの。たとえそうだとしても。それでは、どうしたらいいのか。ぼくには見当もつきません。本当に、どうしたらいいんでしょうね……?
ぼくの話は、以上です。つまらない話に、つきあわせてしまい、失礼しました。どうか、いまの話は忘れてください。すみませんでした……」
そういって、戸波はベッドの上で、ワザとらしく、ため息をついてみせる。
さらには、おてあげだ、というように笑ってみせる。
戸波としては、これで笑い話として終わらせて。昨日のやりとりに決着をつけるつもりでいた。
ところが、幕引きをしようとする戸波に、さやかはいきなり抱きついてくる。
さやかは、両腕でしっかりと、戸波のからだを抱きしめてから。驚いている戸波に、次のように言いきかせる。
「戸波さん、そんなことを言わないでください……。そんなことありません。本当のところを言わせてもらえば、私は嬉しいんですよ……。
この前は強がっていましたけれど。戸波さんが病気で倒れて。それが原因で記憶を失った、と知ったときには。私は内心では、これでもう治療薬を開発できる可能性はなくなった、と思い込んでいました。
でも今日のことでわかりました。戸波さんはまだ、あの戸波さんのままです。だとしたら、まだあきらめるわけにはいきません。きっとまだ、方法はあります。なんとかなります。ええ、そうですとも……」
「さやかさんに、そう言ってもらえるのは嬉しいのですが。脳内のどこかにある、失われたと思っている記憶を、どうしたら再生できるようになるんでしょうか? そんな方法があるんでしょうか?」
さやかに抱きしめられた格好のままで、ちょっとばかり苦しそうな顔で、戸波はそうかえす。