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雨の日の猫

作者: あんぱん

初投稿です。

拙い文章で恐縮ですが、もし良かったら感想下さい。






 三十七歳、独り身、埼玉のとある繁華街のアパートの一室を借りている。


 同居人は猫一匹。


 雨の日の仕事をしている。


 雨の日は外で仕事をして、晴れの日は家の中で猫と過ごす。

 そんな生活を意味もなく十四年続けている。


 十四年前、初めて離婚した。もちろん人間だ。初めて離婚したというのは、その女性は結婚した初めての女性だったから。


 私は一人の女性と恋をして、結婚して、愛を育んで、時間は立ち、温くなって、冷たくなって、そして乾いてしまった。

 二十三にして離婚。


 別に彼女に未練はない。ただ、乾いて何も感じないはずの心は、次第にひび割れて、そのたびに激しい疼痛に悩まされるようになった。


 ひび割れた部分が疼いて仕方がない。でもそこに水をかけるのは怖い。一時はよくても、すぐに乾いてもっとひどくなりそうで。どうしようもない苦しみが続いていた。


 そんな時、彼女に出会った。類に見ない大雨の日だった。

 仕事帰りのいつもの歩道に彼女は伏していた。歩道に飛散した鮮血の衝撃、そしてげんなりと横たわる彼女に際に感じたかすかな命の感触は、今でも鮮明に覚えている。


 私は彼女に同情した。


 いや、疲弊した生活の前に現れた非日常に対して、そう、ただ気まぐれに手が伸びただけなのかもしれない。


 とにかく、私は直観的にこの灯火を絶やしてはならないと確信した。


 すぐに仕事を辞め、彼女を生かすことだけに執心した。金も時間も何もかも、全てを彼女のために費やした。


 何故か、連日晴れの日が続いていたことははっきりと覚えている。

 暫くして、すっかり回復した彼女が部屋の中を悠々と歩き回る姿を眺めていたら、ふと気づいたことがあった。


 仕事を辞めるほどに、生きがいになるほどに彼女を救うことに没頭していて、それなのに彼女はこれっぽっちも感謝なんてしていなかった、そんなことにあっさり気づいてしまった。


 だから私は彼女を飼うことにした。彼女はいくら私が愛情を持とうが応えてはくれない。もちろん不満を持とうが気を遣うなんてことはない。だがそれでいい。


 一人でいるのは少し寂しいけれど、誰かと一緒にいるのは怖い。大切なものが乾いていく様子を前にすると、また私の心が渇いてしまいそうで、とても怖い。だから、気まぐれな猫くらいが一緒にいるには丁度いい。


 雨の日は仕事をして、晴れの日は彼女と共に過ごす、そんな具合の変わらない日々を目指そう。こんな意味もないことをしても、文字通り本当の意味では満たされないことは分かっている。それでもそうすれば、潤うことはなくても、少なくとも渇きに飢えることはないんじゃないか。



  ……そう思った。




 そうして私は、雨の日の仕事を始めた。


 雨の日に仕事をして、晴れの日に猫と過ごす。他には特に何もない。十四年間全く変わらない日々を送っている。


 敢えて変化を挙げるのであれば、時折猫に話しかけるようになったという程度である。


 もちろん返事は帰ってこない。

 会話によって人間関係は更新されるが、それは会話が成立しているからであって、猫との会話はつまるところ独り言だ。言ってしまえば、最近独り言が増えた、というだけであろう。


 しかし、彼女の目に、私をじっと覗き込む深淵のような眼差しに、そこにあるはずのない意思を感じることがある。行ってきますと、玄関前で毎日呟く独り言に、目の前の猫は反応を示すことはないのだけれど。


 そう、近頃は雨が多かった。仕事で疲れているのだろうか。そもそも猫に話しかけるのは不自然だろうか。

誰にこぼすのでもなく、益体のない言い訳をしながら、私は今日も雨の中仕事をしていた。


 家路につくといつものように雨の日のコンビニでおにぎりを二つ。ふと目新しいパンが目に入り、珍しくそれも買った。


 ドアを開けると、そこにはいつものように彼女が座っていた。私がコンビニのビニル袋をちゃぶ台に置くと、彼女は気まぐれに中身をのぞき込んでパンを咥えて見せたので、そっちじゃないよ、とお椀に彼女の夕飯を用意してあげた

仕事で疲れていたからか、私は布団もしかずソファーの上で寝入ってしまった。


 その日は悪い夢をみた。別に誰が出てくる訳でもない。喉が渇いてどうしようもなく満たされない夢。ただそれだけだったけれど、それがたまらなく苦しかった。

そんな夢にうなされていた私を心配してくれたのか、朝起きると彼女はソファーによじ登って、私により沿っていてくれた。


 翌朝も雨だった。


 私はいつも通り仕事に出たが、嫌な夢を見たせいか、いつも見送りに来るはずの猫が、部屋を出ようとする私の後ろを付いてきていないことに気づかなかった。


 異変に気付いたのは、再びドアを開けた時だった。いつも必ず迎えてくれる彼女の姿はそこにはなかった。不思議に思って部屋に入ってみると、彼女はソファーの上ですやすやと深い眠りについていたようで安心した。


 しかし、次の日も、その次の日も、ずっと彼女が起きることはなく、用意した食事はもちろん手は付けられていなかった。


 そうして四日もたつと、流石に何も食べずに生きている彼女を見て異常に感じた。


 彼女が深い眠りについて十日、その日はいつもより雨脚が強かった。


 雨の日の仕事は長引いた。

 いつもより帰りが遅くなり、夜の雨はすっかり町全体を暗く落とし込んでいた。


 彼女のためにも早く帰らなければ。そういった風な、どこか宙に浮いたような義務感に囚われ、道を挟んで向かい側のアパート、明かりの付いたその一室を見上げていた。


 ふと目線を横にずらすと、信号が青になっていて、慌てて足を踏み出したその時、背後で女性が叫ぶ声が聞こえた。空間を振動させるほどのクラクション。しかし、それに気づいた頃には、目の前までその大型トラックは迫っていた。


 何でこんな時に……


 私は早く彼女を看病しなくてはならないのに。この状況で最初に生じた感情は焦りといら立ちだった。


 しかしすぐに、身を避けられる距離ではないことが本能的に分かった。それが分かると、直前まで私の感情を埋め尽くしていた苛立ちは嘘のようになくなった。急に体の力が抜けて、不思議と避けようとも思わなくなった。


 そして思った。


 簡単に投げ出せてしまえるのは、きっと失くしてもいいものしか持っていないからだ。そう、当たり前だろう。十四年前からずっと、ただ漫然と生きてきたのだから。


 彼女は私にとって大切な存在だろうか。

 いや、考えてみれば私は彼女を本当の意味で気にかけてなどいなかった。


 たんなる人間様のきまぐれ。


 表面上は気にしている振りをしてみて、昏睡状態の彼女を病院に連れて行こうともしなければ、彼女が普通の猫ではありえない程は長く生き過ぎていても、何の違和感も感じていなかった。私は彼女に一方的に愛情をぶつけ、それが返ってくることは望んでいないのだ。彼女がいついなくなっても心が渇かなくて済むように。ゆがんだ愛情。ひどく傲慢で利己的な己の醜さに吐き気がした。


 大切だなんていう資格は私にはない…


 ふと、彼女と私、狭い部屋でただ一緒にいる静かな光景が頭に浮かんだ。


 どこまでずるい人間なのだろう。おそらく命に危機に瀕しているだろう彼女に対して何もしてやれないくせに、自分が死にそうになったら彼女に縋るなんて。全く笑えない冗談だ。


 でもそれさえ今更。どうせ死ぬ。あとほんのコンマ数秒で死ぬ。大切だなんて言わないから、どうか思い出すだけでも許して欲しい。単なる猫とはいっても、この十四年間、私には彼女しかいなかったんだから。


 私は、彼女がいる筈の方向へ手を伸ばした。


    本当は…


刹那、強い衝撃とともに、目の前が暗闇に包まれた。





 すぐ近くで、傘に打ち付ける雨粒の音が聞こえた。


 「大丈夫?」


 目を開けると、仰向けに横たわる私の脇には、一人の女性が屈んでいた。どうやらこの女性が私が雨に晒されないように傘をかざしていてくれたようだ。


「私は…」


 こめかみ付近が強く傷んだ。


 「あなたがトラックに気づかないで飛び出したときにには思わず声をかけたけど、正直間に合わないと思ったわ。でもトラックが通り過ぎた後、何故かあなたは反対側の歩道に倒れてたの。不思議ね。私以外に誰もいないみたいだったから、とりあえず駆け付けてみたら、丁度今あなたが目を覚ましたってところ。」


 つまり、助かった、ということだろうか。まだ頭がぼんやりとしていてよく考えられない。


 「あなたは…」


 「あなた私のこと覚えてないの?」


 何とも取れないその微笑みに、私はどこか覚えがあった。


 「ああ、君か。」


 「あなた本当に思い出したんでしょうね。まあ別にいいけど。どうする?救急者呼ぶ?」


 彼女も一応は心配してくれているようだ。


 「いや、いい。」


 すると、彼女は間をおいて躊躇いがちに口を開いた。


 「なら家まで送っていってあげる。あなたどうせ一人でしょ?一人で帰って死なれたらせっかく駆け付けたのに助け損だわ。」


 彼女の表情は、寂しげだった。

 その渇いた表情は、今の彼女は、多分以前の私と同じだ。


 「よしてくれ、君と私はもう他人だろう。」


 「何よ。新しい人でもいるの。」


 「いないよそんなの。」


 「なら…」


 その先は聞かないことにした。


 「傘はどうもありがとう。」


 私は会話を断ち切るように立ち上がると、それだけ伝えて歩き出した。


 「まって!」


 振り向かずとも、彼女が地面に傘を落とした音ははっきりと聞こえた。まるで頬を伝う涙を雨で覆い隠すように。

私は立ち止まっていた。


 「あなたのことで色々悩むのに疲れて、あなたといることがストレスになってたのは認めるわ。あなただってそうでしょう。でも一人になってみたらどうしたらいいか分からなくなった。自分の足じゃ立てないことにようやく気付いたの。」


 後ろにいる筈の彼女の姿は見えないが、十四年間溜め込んだ想いを間違えないように、彼女が唇を噛んで慎重に言葉を選んでいるのが分かった。


 「別に愛してるなんて言わないし、あなたに愛してなんて言わない。ただ…私は一人がさみしいの。そう、あなたも一人なら私がそばにいる!。ただ一緒にいる!それ以上でも以下でもない!…だからもう一度!!」


 「すまない。君の気持には応えられない。」


 私は決して軽い言葉にならないように、確かに自分の意思が伝わるような強さで言った。


 「私にはもう『大切な人』がいるんだ。」


 彼女の表情は見えない。でも傘も指さない彼女の顔は多分暖かい雨粒で濡れているだろう。


 「そう、やっぱ新しい人いるんじゃん。」


 私は振り返らず再び歩き出した。

 私がやっと見つけた帰るべき場所に向かって、ただ真っ直ぐに歩き出した。


それ以上、彼女は何も言わなかった。






 ドアの前についても雨が降っているのは初めてだった。


 今朝家を出たばかりなのに、何故か久しぶりに家に帰ってきたような気がした。


 ドアを開けてもそこに彼女の姿はなかった。そう、彼女はここ最近ソファーの上で昏睡状態に陥っているのだ。途端に不安が押し寄せてきた。早く彼女の姿をこの目で見たい。


 もしかしたら起きているかもしれない。彼女は多分私の言葉なんて理解できないけれど、ちゃんと話したいことがある。謝りたいことがある。自室に通じる廊下を歩きながら、ドアの隙間からこぼれる淡い光に、初めて、そんな期待を覚えた。


 しかし、ソファーの上には彼女はいなかった。どんなに見渡してみても、部屋の中には見慣れた一匹の猫の姿は見当たらなかった。


 代わりに、その部屋の中央に一糸まとわぬ一人の少女が、私に背を向けて立っていた。


 しかし、私が気になったのは、あらわになった純白の肌よりも、その足元まで伸びる黒い髪だった。それは長く丁寧に手入れされてあるだろうことが一目で分かる程のきめの細かさだった。控えめな艶を織入れて、上から下に流れる様はどこか神秘的で、おとぎ話の存在が現出したようにも思われた。でも何故か、その色合い、質感は昔から私が知っているもののような気がして。


 「君はまさか…」


 振り返った少女の瞳は透き通る蒼さで、それでいて全てを包み込んでしまいかねない深い暗さを含んでいた。それはまるで、この街に降る雨そのものであるかのようだった。


 「初めましてご主人。」


 今思えば、それは初めて聞く、彼女の声だった。


 確かめたいこと、分からないこと、気になることは山のようにあったが、ひとまずその少女に服を着せることにした。二人分のコーヒーを淹れ、都会の狭い一室、安いちゃぶ台を挟んで向かい合って座った。


 「なんであなたは私の部屋に入っているんですか?」


 私はできるだけ落ち着いた声色を装って尋ねた。


 「ご主人様は三十七歳らしく頭が固いですね。」


 目の前の女の子はそんなことを呆れ顔で言ってきたので、私は半ば冗談交じりに聞いてみた。


 「まさかとは思うけど、君は私の猫?」


 「そうですよ。それ以外に何だと思っていたのか私はとても気になります。」


 「本当?」


 「はい。本当です。」


 「……。」


 「……。」


 この少女が十四年間共に過ごしてきた猫ということが本当にあり得るのだろうか。確かに猫の毛並みを彷彿とさせる黒髪。その蒼い目もよく見れば猫の目にみえる。それにもし本当にそうだとしたら、十四年も猫が生きていること、最近は飲まず食わずで十日もめむったまま生きていたこと。普通の猫ではありえないこれらの現象も納得できる。


 いや、しかし常識的にはこの少女の正体が私が飼っていた猫であることなど絶対にあり得ない。


 そうだ。やはり疲れているんだ。さっき事故にあったし。

この少女はどこかで私が猫を飼っていることを聞きつけ、何らかの企みを持って私を騙そうとしてる、そう考えた方が現実的であろう。


 よく見れば分かるはずだ。これは人間、猫じゃない…ん~…。


 「…それマジ?」


 「ご主人、驚きすぎて三十七歳のキャラ設定が崩壊してます。本当ですよ。ほら、にゃんにゃん。」


 そういうと、少女は得意げに両手首を丸めて猫の真似をして見せた。それだけならまだしも、少女の綺麗な黒髪の下から、二つの獣耳がひょっこり現れたのだ。


 「……」


 「……にゃん。」


 私からの反応がなかったからか、今度は自信なさげだ。

私はじっとその少女を見つめる。


 自分でやっていて恥ずかしくなったのか、両手を膝の上にのせてもじもじしている。


 しかし、表情だけはどこか申し訳なさそうだった。


 不安げに私の顔を伺うその少女を見ていると、今は、この子を安心させてやりたくなった。


 「ふっ。」


 そう思うと、急に気が緩んで、思わず吹き出してしまった。


 「なんでそこで笑っちゃうんですかぁ。私頑張ったのに。」


 そういってむくれる彼女の表情にも、安堵の色が見て取れた。


 二人でひとしきり笑い終えると、私は彼女に向き直った。


 「会えてうれしいよ。」


 彼女は驚いたように猫に似た目を瞬かせると、すぐにはにかんで見せた。


「何言ってるんですか。ずっと一緒にいたじゃないですか。」


「それもそうだ。」


 彼女はほっとしたように微笑むと、


「ご主人……私は――」


私は手のひらでそっと続きを制した。


「コーヒー。淹れなおそうか。」








 「私、雨を降らせるために遣わされた猫なんです。」


 彼女が言うには、彼女は十四年前、この街に雨を降らせるために神様から遣わされたそうだ。


 雨を降らせるために、人間の姿で街をうろついていたところ、運悪く車に跳ねられて重傷を負ってしまい、そこに偶然通りかかったのが私だったという。


 戸籍もない、名前もなければ金もない、そんな彼女は、人間として病院に運ばれるのは避けたかった。だから咄嗟に野良猫に化けたという。


 「ご主人に拾われて数か月で力は戻ったんですけど、急に人間になったらびっくりさせちゃうかなって。」

どこか自信なさげに彼女はそう言った。


 「まあ私も飼っている猫が急に人間になったら驚くよ。さっきもキャラが崩壊しかけたしね。」


 「いや完全に壊れてましたよ。」


 私のキャラ設定がブレブレなのはともかくとして、私は一つ気にかかった。


 「人間の私に気を遣ってそうしてくれていたなのら、私が留守の間にうちから逃げればよかったのでは?拾った野良猫が失踪するなんてよくある話じゃないか。」


 彼女は答えない。


 「どうしたんだ?」


 「…いえ別に。私はこの世界に来るのは初めてだったので、最初は、慣れるまでこっそりいさせてもらおうかと思ってたんですけど……。」


 俯く彼女の表情は陰に隠れて見えないが、そばだつ耳が私の反応を待っていた。


 「ふむふむ、そういうことか、なら仕方ない。外は色々と危険があるもんな。実際に君は事故にあっている訳だし。」

私が納得したそぶりを見せると、顔を上げた彼女は何故か不満げな表情をしていた。


 「……。」


 「何?。」


「何でもないですけど。」


 彼女がプイッと目を反らしたので、私は話題を変えようと頭を巡らせた。


 「そういえば何でここ最近ずっと眠っていたんんだ?」


 彼女は目を反らしたまま、でも耳だけはやっぱりこちらを向いていた。


 私の言葉を聞き終えると、彼女の表情は一層不満の色を濃くしたような気がした。


 「もう、知りませんよそんなの。自分で考えてください。」


 完全にそっぽを向いてしまった彼女。どうしてかは分からないが、私は彼女を怒らせるようなことを言ってしまったようだ。


 違う話題を見つけなければ。


 「そういえばさっき不思議なことが起こったんだ。トラックに轢かれそうになったと思ったら歩道に倒れていて。なんだったんだろう。」


 「そうですね。私がいなきゃご主人は死んでましたね。」


 「ちょっと待て。あれは君が助けてくれたのか?」


 「私は雨を司る存在なんです。雨の降る場所は私の領域、そこで起こっていることは喩え眠って居ようと何でもわかります。」


 頬を膨らませつつも自慢げに話す彼女。


 「そうか…。助けてくれてありがとう。」


 私は素直にそう言ったところ、背けたままの彼女の横顔は少しばかり紅潮してたような気がした。







 暫く沈黙が続いたせいか外の雨の音がやけに大きく聞こえた。


 それはこの部屋の状況がいつもといくらか違うからかもしれない。


 彼女は今、猫としてではなく人間として私の前にいる。どことなく緊張感が漂っていた。


 すると彼女は探るような目つきで控えめに口を開いた。

「ご主人様、これからどうしましょうか。」


 これから。これから私はどうしたいのか。


 「私は…」


 どうしてもその続きが出てこなかった。私に、その続きを言っていい資格はない。


 彼女は姿勢を正し、一つ息を整えると、まっすぐに私の目を見ていった。


 「私はここにいたいです。あなたと一緒に、今まで通り。だめですか?」


 彼女は堂々とした様子でそう言った。あまりにも純粋な蒼い瞳を真正面からは見れなかったけれど、私はできるだけ正直に言った


 「でも、私にとって君はただの猫だった。私には君の気持ちにこたえる資格はない。」


 そう、私は彼女を文字通りただの猫だとしか捉えていなかった。私にとって彼女はずっと本物の人間の代わりでしかなかった。いや、代わりですらなかったかもしれない。多分、仕方のないことだと彼女は言ってくれるだろうが、私自身がそんな風に彼女をないがしろにしていた自分を許すことが出来ない。彼女は多分、今の私がどんなに卑怯な人間か知らないのだ。


 「すまないが、私は君の思っているような…。」


 「知ってますよ、そんなこと。」


 「え?」 


 十四年も見てきたんですから、と彼女は当然のごとく言い切った。


 「ずっとわかってました。ご主人にとって私はただの猫だったこと。あなたが私に対して何も期待していなかったこと。」


 私は俯いた顔を上げることが出来なかった。


 「こんな言葉で済むとは毛頭思っていないが、本当に申し訳ない。怖かったんだ。」


 「なんでご主人が謝るんですか?猫の姿のままあなたを騙していたのは私の方なのに。私の方こそ、すみませんでした。」


 彼女は困ったような、それでいて少し安堵しているような微笑を浮かべた。


 「違う、君をそうさせていたのは私の方だ。」


 私は彼女が猫だから一緒にいることにした。彼女がもし意思疎通のできる存在であることがわかったら、私は一人ではなくなって、少なくとも彼女は私にとって失くしていい存在ではなくなっていた筈である。彼女は薄々それに気づいていて、自分の気持ちに蓋をしたまま、十四年間も私のためにただの猫でいてくれたのだ。


 しかし彼女はそんな私の考えを見透かすかのように、


 「違いますよ。私は私のためにそうしたんです。猫なんかに肩入れする優しいあなたを好きになったから。私はあなたが望む私になりたいと思った。だから猫のままでいたんです。でも私は知っています。私はご主人にとってただの猫だったけれど、今はそうじゃないこと。今の私は、あなたの『大切な人』なんですよね?」


 頬を赤らめながらそう言った。


 「聞こえてたのか。」


 「当たり前じゃないですか。私は雨を司る存在なんですから。雨の日に起こっていることなら何でも知ってますよ。」


 彼女はこの耳が聞いていたと言わんばかりに猫耳をはためかせた。


 「それだけじゃないんです。最近あなたがやっと私に話しかけてくれるようになって、私に返事を期待して声をかけてくれるようになって、私は猫人生で一番嬉しかった。あなたにとって私はただの猫のはずだったから、私の想いは届かないはずだったから。だから人間になろうと思ったんです。あなたが求めてくれたから私はこの姿になれたんですよ。まあ、人間になる力を蓄えるために最近は眠ってしまっていましたが。」


 だからずっと彼女は起きなかったのか。彼女は死を近くして眠りについたわけでないことが分かり、自然に暖かい感情が芽生える。


 そうすると、冷たいものに感じていたここ最近の激しい雨が、急に暖かいものに感じた。もちろん今の雨も。


 「ああそうか、さっき不機嫌だったのはそういうことか。」


 「ごめんなさい、でもあなたが悪いんですよ。あんまり冷たいこと言うから。」


 彼女は両手で包んだコーヒーカップで顔を隠すようにしていった。


 「私に逃げればよかったなんて、雨よりも冷たいこと言うから。」


 「すまない。」


 彼女の想いに本当は気づいていながら、試すような問いを掛けてしまった自身の臆病さ加減に嫌気がさす。


 「ほんとに分かってるんですかぁ?」


 彼女は呆れたように、それでも暖かい目で私を見てくれていた。


 結局、雨を司る彼女は、私の建前も本音も、すべてお見通しだったという訳だ。


 今思えば彼女は最初からずっと待ってくれていた。あの部屋の中で、いつも私を待ってくれていた。


 私が死を前にして彼女を思い浮かべたのは、決して偶然ではない。私が彼女を『大切な人』と思えるようになったのは、きっと死を覚悟したからではない。きっと私は、彼女がいつも玄関前で迎えてくれる姿に、悪夢にうなされる私に寄り添ってくれる姿に、ただの猫ではない彼女の想いをちゃんと見つけることが出来ていたのだ。


 「私は卑怯な人間だ。」


 「知ってます。私はそうは思いませんけど。例えそうだとしても、猫に申し訳ないなんて思えるご主人は優しい人です。」


 「君は猫だろうが人間だろうが、私の『大切な人』だ。」


 「知ってます。ずっと一緒にいたんですから。」


 彼女は優しく微笑んだ。


 「それもそうだ。」


 私はさっき言えなかった言葉の続きを、今度はちゃんと言葉にした。


 「私も君と一緒にいたいよ。」


 「はい。私もです。」











 止まない雨はないらしい。


 この雨も、きっといつか止んでしまうのだろう。


そして彼女と私の関係はいつか乾ききってしまうかもしれない。


 そして、私はまた渇きに飢えてしまうかもしれない。


 でもそんなことは誰よりも私自身がよくわかっていて、それでも彼女ならきっと。


そう思えるのは、彼女と過ごした十四年の暖かい時間だろうか。それとも、根拠なんて本当はないのだろうか。


 どちらにしろ、神秘的な彼女の蒼くて深い瞳は、まるでこの街に降る雨そのものであるかのようで、私の不安も恐怖も幸せも、すべてをただ静かに包み込んでくれそうな、そんな気がした。

 

 二杯目のコーヒーは未だに白い蒸気を立ち昇らせていた。


 おもむろに立ち上がった彼女は、私の手を引いて窓際まで行くと、白くて細い、妖精のような手で窓に触れた。


「渇いたりしませんよ、私は雨を司る『雨の日の猫』なんですから。」





・終わり





読んでくれてありがとうございます。

読んでくれてありがとうございました。

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