抱っこされるコアラは「短命」となる
長生きできなくたって、短命だって。命がけで交尾するカマキリのオスを前にしたら、軽々と言い切れない気がします。オスの本当の幸せってものを少し考えてみました。
かなりの歳月が経っているが、オーストラリアを旅したときの話である。
南オーストラリアのアデレードを廻ったとき、そこの動物園で来園者にコアラを抱かせている情景に遭遇した。記念の写真を撮るための抱っこだから同じ掌に抱かれてる時間は短い。抱っこする掌は次々と変わり、抱っこされるコアラも途中で変わっていく。日本人観光客が多くいて、若い女の子のはしゃぎ声がドーム型の屋根にこだまする。
しばらくその様子を眺めていたので、そこのチーフらしい女性に「いかがですか」と勧められた。当時は此方もいまよりもグッと若かったが、男ばかりの3人組では弾みがつかない。丁重にお断りする。もちろんやりとりはすべて英語だったはずで、直接の内容は覚えてはいないが、そのときのはなしの筋は剝がされず記憶されてきた。
もともとヒトに抱っこされるコアラなんていたわけじゃない。だからコアラにとってヒトに抱っこされるのは結構なストレスが掛かるらしい。だから、3、4組ごとにコアラは交代するのだという。
ひとに抱っこされるみたいな顔して生まれてきたのに、結構な苦労なんだと苦笑する。だからなのか、皆んなが皆んなだまって抱かれる子ばかりでない。なかには決して抱かせてもらえない子もいる。
「ほらっ、あそこのユーカリの木のてっぺんにしがみついてるあの子、あの子はけっして降りてきては呉れない。抱っこさせて呉れない。いま、うちでは10頭のコアラがいますけど、あの子だけはけっして抱かせては呉れないんです」
指さすコアラをあらためて見返す。あらためて見直す。わがままな感じが少し伝わってきて、この一群の中で一番可愛い存在に思えてきた。親近感が湧いた。
「わたし、本当のことをいうと、抱っこさせて呉れないコアラの方が好き」
エメラルドがかった瞳でアイコンタクトして呉れるとても素敵なスナップショットが入いる。「だって、抱っこさせて呉れない子の方が長生きするんだもの。ちゃーんと自分を大事にすること分かってるんだもの」
わたしはことあるごとにこのことを胸の隠しから取り出して、眺めて生きてきた。都度都度現れてくる出逢いが、吹きっさらしの風が、長生きする穂先を削ってまで浴びる間尺のあったことなのかと並べてみる。すると、樹冠の上から「ひとりっきりがいいに決まってる」と返してくる。それを繰り返すうち、10のうちのいっぺん、100のうちのいっぺんのチャンスはすり抜けていく。そうやってわたしは人生の大半を過ごしてきた。考えないように努めても、ひとはそれを臆病と呼ぶ。
可愛かったコアラも年を取る。老いていく。叩かれるひびの入った背中を気の毒に眺めていたのに、そのいびつに変わった背骨が少し羨ましく思えてくる。鉄火場修羅場を巡った肌は少し眩しい。
安全な居場所にいたって、自分だけいつまでも溌剌の紅顔でいれるはずはないのに。傷だってケロイドだって時が経てば味わいだっていってもらえるのに。 ー はじめてのひとに抱っこしてもらうのって嫌なことばかりじゃないよ。いい目みることだってたくさんあるのに。限りある命なのに冒険しないなんてもったいない。
時を過ごしたスナップ写真にそんな囁きが混じりだした。仙人のような達観に導いたエメラルド色のアイコンタクトは、本当はそれも伝えていたのだろうか。それともわたしが勝手に隠しに隠したままだったのだろうか。「わたし、本当のことをいうと、抱っこさせて呉れるコアラの方が好き。だって、抱っこさせて呉れる子の方が直を感じられるから。ちゃーんと他人に可愛いって想われること、分かってるんだもの」
たとえ長生きできなくたって、若死にだっていわれたって、楽しいことたくさんもってたもん勝ちじゃない。
そこからは、続きの話が出てきた。落語の短命の噺が舞台を模様替えしたように現れた。拍手のあとの上げた顔を見ると、覚めたやっかみ顔の似合うさん喬師匠だ。伊勢屋の入り婿が亡くなった。これで3人目だと。若い衆がご隠居に所へ弔いの作法を伺いにやってくる。商いは番頭がやってくれ、奥の離れに若い後家さんだった奮い立つようないい女のお内儀に、差し向かいで飯を食べさせもらっている。綺麗な「あーん」なんていってる顔と白魚のような指を見ながら飯が口に運ばれる。すると・・・・・
「おい、おい、飯なんか食ってる場合じゃないだろ。なぁ、短命だろ」とご隠居がいくらいっても、間の悪い男は何度短命を聞いても、そこの処へ落ちてくれない。「若死だろっ」の前に、「なっ」「ほうーら」「・・・・んっ」といい変える。その歯がゆいくすくす痒くなる感じが噺の妙味だ。
この噺、イヤホンで聞くだけの時でも下げで深々と頭を垂れる師匠の後ろに、いつもカマキリが出てくる。交尾のあとの恍惚のまま身体半分を持っていかれたオス。もうこの世でないためか、輪郭も緑の色もなんだか薄い。すかして見ると、その絵の背景に若死にした3人の婿さんが仲良く火鉢を囲んでいるのが浮かんでいる。どてらを羽織って火鉢の真ん中に網を敷いて餅なんか焼いている。役者顔に泥饅頭あんこう顔とまるっきりの別々が並んでいるが、3人は仲がいい。穏やかな余生を送っている。 ー みんな若死にだったけど、絹地の布団の上でおっ死んだんだ、本望だよなぁー なんて、膨れた真っ白い餅で思い出したように最初の役者顔が言うと、あんこう顔が、- そろそろ此処の隙間つくってやんないと、ぼちぼち新顔が入ってくる時分だから・・・・・・
気持ちよく抱いてもらうのは命がけ。だけどそれを脇においやったりしちゃあいけないよ。そんな先達のお説教が埋め込まれているのかもしれない。