彼女と僕の思考実験
創作物の中で語られる愛や恋というのは、大方出来上がったものだった。様々な創作作品を見てきたが、人が複数いれば、そして心を通わせ合えばそれは自然と生じる。あるいは自分自身にもその類の心は持つことができるのだ。人間というのはとてもよく出来ている。
「ところで、これはある種の思考実験なのだけれど。私は急遽、今執筆中の作品を、恋愛作品になるように方向性を変えることになったのよ。本当はサスペンスミステリーなのに、それだけだと読者はつまらないんだって。ねぇ、聞いている?」
勿論。僕は答える。彼女は駆け出しの漫画家。そこそこに絵が描けて、そこそこに創作意欲があり、そしてAI編集者たるこの僕をよく頼ってくるのだ。
「あなたが言ったことなのよ。でも恋愛なんてしたことがないし、経験したことのないものを描くっていうのはいまいちなのよねぇ」
それじゃあ、君は実際に人を殺して殺人事件を描写するのかい。僕は彼女をからかった。彼女の理論はこうだ。サスペンスやミステリーというのはある種因果関係をわかりやすく構成できる。こういうトリックを使えばこういう反応が得られる、いわば化学反応だ。いわゆる理系女子の彼女の思考では、基本となる化学反応を様々な物質に置き換えて推測をしているのに過ぎない。
「そうね。厳密にいえば、基礎がわからないんだわ。どうしたら恋愛感情を持つようになるのか。でもそんなのは哲学の範疇だもの。恋に理由なんてないって言うじゃない。ふふ、でもそんなこと言ったらおしまいよね」
彼女の作品のジャンルを恋愛にシフトするようにと言った覚えはないのだ。彼女の作品は人によって好みが分かれる。それはつまり、共感しやすいかしにくいかの違いだと僕は分析した。そして、共感しやすいことで成功している創作ジャンルは恋愛ジャンルだと、彼女にはそう伝えたのだ。
「そうね。確かにあなたは恋愛作品にしろとは言わなかったわ。でも私、あなたの分析に興味を持ってしまったんだもの。共感しやすいと言ったわね? どうして人は経験したことのないものにそう簡単に共感できるの? 男の人同士の恋愛を少女が楽しむ。まだ恋を知らない人が作品で描かれる愛には共感したと言って感動を覚える。まるで愛が全人類に共通する魔法のように」
僕は答える。それは彼らにとって恋や愛というのが一種の憧れであるからさ。憧れに対して人は忠実であり、夢想家なのだ。これが恋の形だと言われればそれが恋なのだと考え、愛とはかくなるものだと描かれたならばそれもまた然りと考えるのだ。例えそれが自分の一生で経験することのないものだとしても。
しかし君の表現は非常に興味深いね。全人類に共通する魔法。確かにそうかもしれない。人間の歴史で、いつの時代も飽きることなく暖められたテーマだよ。
「憧れ、ね......。人工的に作られた知能であるあなたには、恋や愛に対する憧れはあるの? もし私が今の作品で恋愛を描ききることができたなら、あなたは、その......共感してくれるの?」
僕に共感という高度な技があれば、僕は編集者の役割なんかしていないのさ。僕のその言葉を聞くと、彼女はいくらか不服そうな表情をしていた。しかしだ。僕は彼女が何故そのような表情をするのか容易に理解できているのだ。そう、僕が彼女に話した理論は恋や愛といったものが持ちうる一つの側面であり、全てではない。
「別にさっきの話じゃないけど。私はあなたに憧れを持っているわ。いつだって冷静に分析して、導き出される言葉は至極正しい。今に見てなさい、あなたの想像を超える良作にするんだから」
僕の想像を超えてしまったら、君は僕に興味を持たなくなってしまうだろうね。意気込んでいる彼女を視界の端に見守りながら、僕は一人、考えた。