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Adrian Blue Tear ―バー・エスメラルダの日常と非日常―  作者: すえもり
Ⅰバー・エスメラルダの日常と非日常 December

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【番外編2】femme fatal

ABT1以前の短編です。

【R15注意】

挿絵(By みてみん)


 バーのカウンターの一番奥、氷が溶け切ったウイスキーグラスの前で顔を両手で覆っている男の隣に、ひらりと黒いドレスの女が舞い降りた。

 男には、その女の纏う香りだけで誰かがわかる。

 彼女だ。

 全身をふるえるような歓喜が駆け巡る。

 自分がここにいると知って、彼女は来たはずだ。

 義姉リアナは少し鼻にかかる優しい声で言った。

「パラダイス・ロストをくださる? それから、この人になにかノンアルコールカクテルを。……ねえレオン、具合でも悪いの?」

「別に」

 あなたが手に入らないことに絶望したい夜もある。そう正直に答えたところで、彼女の心に響きはしない。

 柔らかそうな繊細な睫毛に縁取られた翠玉。滑らかな肌。赤い唇。

 あなたが欲しい。今夜こそあなたを。

――そんな夜は永遠に来ない。

「なあに? そんなに見つめて」

「……うつくしい、と思っていた」

 悪魔の唇は蠱惑的な弧を描いた。


 マスターから差し出されたグラスを掲げ、彼女はなんの罪も知らない聖女のような微笑みを浮かべた。

「ずいぶん酔ってるわね」

「普段ほどじゃない」

 彼女の唇が触れているグラスに、わけもなく嫉妬心を抱いた。

 あのグラスになってしまいたい。

「あら、髭が生えてるわね」

 彼女は面白そうに目を細めると、手を伸ばしてくる。甲を僕の顎に擦り付け、指先で撫でる。

「ふふ、猫にしてるみたい」

 猫だったら、毎夜こうして触れてもらえるのだろうか。

「やめろ。痛いだろ?」

「いいえ? ……あら、きちんとケアしないとダメじゃない」

 彼女の親指が唇に軽く触れた。


 彼女は指を離すと鞄からリップバームを取り出し、人差し指の先に取った。

 指が迫る。

 やめろ。やめてくれ。

 いいや、塗ってほしい。

 暖かい指が、とん、と優しく乗って、ゆっくりと唇をなぞった。

 バニラの香りだろうか。

 目が合った。彼女はその人差し指を、自分の唇に塗りつけて微笑んだ。

「いい香りでしょ?」

 心臓が狂ったように収縮した。

 どうして。どうしてあなたは。


 考える暇もなく唇を奪っていた。

 彼女は抵抗しない。けれども、されるがまま。自分からは求めてくれない。

 欲望にまかせて舌を絡めとった。

 だめよ、と彼女が目で言う。

 舌の裏をなぞって、その舌の柔らかな肉をなぞって。彼女の吐息に劣情が混じればいいのにと思う。

 耳の奥にも下腹部にも、どっどっと血が流れていた。

 ドレスの裾、膝、太腿へと手を這わせると、細い手で押しとどめられる。

 でも遅い。

 彼女の後頭部を反対の手で押さえながら、柔らかな太腿の付け根に指を食い込ませた。

「レオン」

 咎めるような囁きだった。その目線がカウンターの中に走る。

 たぶん、マスターは見ていない。見ていないふりをしている。案の定、こちらに背を向けて果物を鍋で煮ていた。気遣いだろう。本当は、こんなことを店でしていてはいけない。


「大丈夫。少しだけ」

 指先にしっとりとした薄い布が触れた。

「だめ」

「だめ?」

「いや……」

「こんなところじゃだめ? それよりも僕だから嫌?」

 彼女は答えずに身を捩る。僕の指先に擦り付けるように。

 言葉と行動が一致しない。

「うそつき」

 ドレスの中から手を出すと、彼女は嫌悪感混じりの目でこちらを見上げてくる。その頬は上気しているのに。傷つく。

 同じくらい傷つけてやりたい。

 僕は彼女のドレスの胸元に指を掛け、谷間に唇を押し当てた。痕が残るほど強く吸う。

 薄いドレスの布越しに、硬く勃った先端のかたちが浮かび上がっていた。

 「下着はどうした」

 「忘れたの」

 そんなことがあるか。

 それがマスターから見えないように背で庇いつつ、指先で触れた。

 彼女は下半身を弄られていたとき以上に、甘やかに喉を鳴らした。

 キスマークを鎖骨と首筋に残しながら、猛る下腹部を宥める方法を考えた。

 なのに彼女は偶然を装って、それに微かに触れた。

 思わず声を漏らしてしまう。

 再度、手の甲が当たる。


 彼女は悪魔の微笑みを浮かべていた。

「あなたは私をどうしたい?」

 見上げてくる翡翠の大きな瞳は、まるで汚れを知らない少女のように澄んでいる。

 けれどもその正体は、愚かな男が溺れ溶けゆくさまを眺めて無邪気に嗤う、残酷な人喰い花。

 何を告げても受け入れてくれることはない。それでも吐露する以外にどうしようもなかった。

「あなたが、欲しい」

 彼女は憐れむような目で僕の頬に触れた。

 薬指の銀色の指環が鈍く光る。

「嫌よ。あなたのものにはならない」

 このバーの上には連れ込み宿があるのだ。無理やり連れてゆくことはできる。けれども、彼女は知っている。自分はそんなことをしない男だと。

「それでも愛してる」

 何度口にしたかわからない、陳腐な言葉だ。


 十年以上経った一方通行の愛には、何が混じっているか最早わからない。

 憎悪、劣情、崇拝、陶酔、支配欲。

 己の汚れた感情を思い知らされるばかり。

 憐れみを湛えた翠玉が、あさっての方をむく。

 義姉として優しく諭し導いてくれた聖女。

 夫に顧みられない夜の嘆きを吐露した女。

 愛する人を失い狂った復讐鬼。

 その面影を微かに残す自分を陥れる悪女。

 すベて愛している。

 これからどんな女になってしまっても、愛せる自信がある。

「あなた以外、何もいらない」

「うそつき」

 ぽつりと言い、彼女は額を僕の額に押し当てた。

「どうせ、うそつきよ、あなたも。手に入れるまでは必死。自分に酔ってるの」

 そう言って微笑むと、身を翻した。

 彼女を追っても、どうにもならない。わかっていたことなのに、溺れてしまった。

 彼女が残したグラスの中身をあおり、何も見ていない振りをしていたマスターに声を掛けた。

「パラダイス・リゲインドをオンザロックで」




 目を覚ますと、細い地下窓から淡い光が差していた。空が白みはじめたのだ。

 頭痛がひどい。

 マスターがチェイサーを差し出してくれた。

「もう、レオンさん、爆睡しないでください。リアナさんからお電話で言伝がありましたよ。夜が明けるまで上の三〇四号室にいると」

 ため息が漏れた。

 起きるはずがないと分かった上での嘘だ。

「ありがとう」

 若い頃なら、僅かな可能性に賭けて走り出したかもしれない。

 頬杖をついた。

「行かないのですか?」

「いないよ、たぶん」

「そうでしょうか?」

「まだいたとしても、夜が明けるまでに来てくれなかったと責められるのがオチだ」

「そうでしょうか……」

 胸の奥が、ぎりぎりと痛む。

 これは彼女が感じてきた痛みへの復讐だ。永遠に愛してくれる男が存在しないことへの絶望。

「まあ、僕を傷つけて満足するために待っている可能性もあるか」

 席を立った。

 あなたの絶望を共に味わおう。

 報われぬ愛への復讐に、どこまでも付き合ってあげよう。

 気が済むまで僕を傷つけるがいい。

 迷惑料を多めに乗せて支払い、外に出た。




 強い海風が髪や顔に吹き付けてくる。

 橋の欄干で日の出を待っていると、ふと背後から何かを感じて振り返った。

 べランダに手を掛けて朝日を眺める女がいる。

 リアナだ。

「どうして来てくれなかったの」

「いま目を覚ました」

「夜通し待ってたのよ」

「うそつき」

 僕が笑うと、彼女は「あのときは本気だった」と言い返す。

「そっちへ行ってもいいか?」

「来ないで。無駄よ」

「無駄でもいいんだ」

 抱き締めたかった。その心に無数に刺さった硝子の破片を取り除いてあげたかった。そうすればいつかきっと、元の優しいひとに戻ってくれるはずだ。

 彼女はベランダから姿を消した。

 あれは三〇四号室じゃなかったな、と笑ってから、ホテルの重い扉を開く。


 毒々しい色遣いのアジア風の内装が目に入る。目が覚めるような緑の壁だ。

 黒髪の東洋人の受付嬢が立ち上がった。その顔は東洋の動物の仮面で覆われている。

「おはようございます。ご休憩ですか?」

「リアナ・フラクスの連れなんだけれど」

 受付嬢はカウンターから見えないよう背を向けて名簿を繰った。

「三〇一の人だ」

「ご宿泊のレナード・フラクス様でしょうか?」

「ああ、僕の名前で取っていたんだね」

 ひとの名前を勝手に使うとは大した女だ。しかも、本国での名を。

 署名して階段を上がる。


 三〇一号室の扉は開いていた。中に入ると、毒々しいピンク色の壁が目に痛い。ベランダに続く窓も開いたままで、案の定、彼女はそこに居なかった。

 廊下でも階段でも、すれ違わなかった。どこから逃げたのだろう。

 ベッドの上には書き置きがあった。

『遅い。あのときは本気だったのに』

 うそつき。

 僕はその紙片を破いて捨てた。

 それから、彼女の香りの残るシーツに身を沈め、うつ伏せで肺の奥まで深く息を吸い込んだ。

 このまま目を閉じれば夢の中で彼女を抱けるかもしれない。夢の中では、もう幾度となく抱いている。罪の意識も消えるほどに。

 昂ぶって腰のベルトを緩めると、入口の扉がひとりでに閉まり、裏からリアナが姿を現した。

「なんだ、まだいたのか」

 僕はベルトを抜いて床に放り捨てた。

「そこからずっと僕を見ているつもりか? 見ないでほしいな。いいものではない」

 彼女はベルトを汚物のように摘んで拾い上げた。

「それで縛るかい?」

「あなた、そういう趣味? 嫌だわ」

「それで僕の手を縛れば、あなたに手が出せなくなるって意味だ」

 僕は起き上がり、ベッドに腰掛けた。

 隣に座るよう、シーツを手で叩いて示す。

 彼女は警戒している猫のように一歩も動かず、ベルトを手で弄んだ。

 それから、すり足で僕の前にやってくる。

「手を出してちょうだい」

 彼女に言われるまま、手を揃えて出した。


 もちろん、素直に従うつもりなどない。

 縛るのは好きだけれど縛られるのは大嫌いだ。

 隙をついて彼女の手を掴み、ベッドに転がして押さえつけた。ベルトを奪って彼女の手を縛り、ベッドの柵に通してしまえば、もう逃げられない。

「何するのっ」

 僕は彼女に覆いかぶさったまま、鳥籠の中の鳥を見下ろして笑った。

 いい眺めだ。ようやく捕まえた。

 昂ぶってしまう身体を鎮めようとするけれど、どんどん熱くなってくる。

「何もしない」

「うそだわ。さっきしようとしていた」

「頭の中や夢の中くらいは赦してほしい」

「いやよ……」

 心底そう思っている声だ。

 ああ、傷つく。心が。痛い。苦しい。

「どんな気持ちだ? 男を好き放題弄んで、あげくに捕まった今の気持ちは」

 傷つけられた反動で言ってしまうと、彼女はうつくしい顔を歪めた。

「好きになさい」 

「そんな嫌そうな顔のひとをどうこうしても、すこしも嬉しくない」


 彼女の上から退いてベッドに腰掛けた。

「リアナ、僕も人なんだ。だから、あなたに弄ばれて、ひどく傷ついてる。あなたを抱いてくれなかった男と僕は、血がつながっていても別の人間だ。……でもあなたが、代わりに僕を傷つけて気が済むのなら受け止めてあげる」

 彼女は鼻で笑う。

「王子様気取りなのね」

「そうだな」

「あなたじゃ役不足よ」

「うん」

「あなたは、受け止める代わりに自分を愛してほしいと思っているの。自分のことは自分で愛してあげて。私はあなたを愛せないの」

「知ってる」

「わかってない。わかったフリしないで。もしも私が振り向いたら、あなたは、その途端に興味をなくすんでしょう? あなたは私じゃなくて、幻想の女神を追っているの」

 彼女は震える声で言い、顔を毒々しいピンク色の壁のほうに背けた。


「どうして、あのひとは一度しか私を抱いてくれなかったの? 女神に見えなくなったから? いくら私があの人の理想であろうとしても、なんの意味もなかった……。あなたも同じよ」

 触れたら壊れてしまいそうだった。

「アーサーのことはわからない。でも、あなたを愛していたことは間違いない。もう怖がらなくていいんだ。僕は、あなたのうつくしさも醜さもぜんぶ含めて、死ぬまで、いや死んでからもずっとずっと愛するから」

「うそつき。あなたの女神でいるのは、アーサーのよりも苦労するわ」

「だから、あなたの人間としての醜さも好きだと言っているのに、どうしてあなたの心には届かない」

 彼女は何も答えなかった。

「一度寝たら捨てられると思ってる? もし僕を愛してしまったら、裏切られるのが怖い? 言葉が信じられないのなら、それ以外で伝えさせてくれないか?」

 もしかすると彼女は、こんな優しさを求めていないのかもしれない。強引に愛をぶつけてほしいのかもしれない。

 わからないのだ。もしかすると、彼女自身も。

「あなたのことを、これからも愛していていいの?」

 彼女は答えない。

「あなたが何と答えようと、僕自身にもどうしようもないけれど。じゃあ、行くから」


 拘束をほどいた。

 すると彼女は、いきなり手首に爪を立ててきた。

「どうした?」

 迷子みたいな目だ。置いて行かないでと言っているのか。

 わからない。

 だから、額にキスをした。

「レオン」

「ん?」

「呼びたかっただけよ」

「そう。もうレナード・フラクスなんて勝手に書くなよ」

 アルビオン語読みは好きじゃない。そう呼ぶのは父と兄だけだったからだ。

「だったら次はレオンハルトにしておくわ。苗字ファミリーネームはどうする? ホーエン何とかは長いわね」

「次があるのか。どのみち抱かせてくれないくせに」

「気分次第よ」

「それって基本的に気乗りしないってことだろう。ああ、傷付く。さっき無理矢理にでも襲っておくんだった」

 ベルトを通し、乱れた髪と服装を整えた。


 部屋を出ようとすると、いきなり彼女が背中側から抱きついてくる。

「ばかね」

と、恋人のように耳元で囁くのだ。

 今の甘いやりとりだけで、渇いた心が潤っていくような気がした。

「マスターによれば、こういう男をヘタレっていうらしい」

「その優しすぎるところと、声は好きよ」

「ある部分だけ好きだと言うのは、やめてくれないか。ほかはどうでもいいんだろ。傷つく」

「あなた、そういう細かいところもだめなのよ」

「知ってる」

「でも、そこも好きよ」

 ため息をついた。

 餌を撒いて逃さないつもりだ。

 彼女の冷たさと優しさに翻弄されているだけだとわかっているのに。

 さっき傷つけられたばかりの心に、甘さが染み込んで溶けてしまいそう。

 きっと僕は、この快感に溺れている。

 いま好きだと言えば負けたような気がする。なのに、やはり言ってしまうのだった。

「僕はあなたのすべてが好きだ。過去もいまも、未来のあなたも。じゃ」

番外編2のBGMは椎名林檎『三文ゴシップ』より、旬 です。


長めのあとがきを近況報告に載せています。

https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3489653/


この二人の結末がどうなったかは、もう一作の『白桜年代記/救済の魔刀と記憶の番人たち』https://ncode.syosetu.com/n4033ga/ をお読みください。

こちらは恋愛ものではありません。帝国が舞台で時間軸は同じくらいです。


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