ABT16. Neige des Alpes (3)
「美しい、ですか。それはエレーヌ様、貴女のほうです。きっと、多くの人に身を投げ出させ、血を流させ、輝くでしょうね」
フランツは言い終えるなり、何の前触れもなく鳥打帽の男の大腿部に剣を突き立て、引き抜いた。男が父に向けて隠し持った拳銃の引金に指を掛けていたからだ。
男は耳障りな悲鳴を上げ、血を撒き散らしながら床を転がる。
「こ、の野郎……!」
「やっと野郎扱いしていただけましたね」
こちらに向けられた天使像のような顔が、信じられないものを目にしたかのように歪んだ。或いは、おぞましい魔物。掲げられた魔術増幅器を前にして、フランツは悪役らしく笑ってみせた。
「貴女は正しい。ですが、そのぶん貴女の周りは汚れています。その男は父上に手を出そうとしていましたね? ご自分の指示ではないと仰るおつもりですか? 話し合いで決めるつもりがないのなら、こちらも手加減はしません。このままお帰りくださるなら、後は追いません。その方、早く手当てすれば助かりますが?」
彼女が二人を無事なまま帰すはずがないことは、薄々分かっていた。
天使の顔をしていても、潔癖なふりをしていても、彼女はこの国で一、二を争う策士だ。
「いくら憎んでいても、やはり血の繋がった親を見放せないのですね。愛、ですわね」
うるさい、と呟いた。これが愛なんかであってたまるか。
「父上! こんな場所で、こんな奴にやられてくたばったりしたら許さない!」
ゆらり、と鉄格子の向こうで父が立ち上がるのが見えた。それと同時に、背筋が凍りつきそうなほどに禍々しい魔力が立ち込める。先ほどまでとは全く比べ物にならない。
魔剣が石の床を金属が擦る音は、おぞましい断末魔の声。
黒い刃は鉄格子をやすやすと切り裂くと、鳥打帽の男に迫った。男は手負いとは思えないほどの素早さで距離を取るが、水路側に押されていく。
「姐さん、こりゃ剣の方が主人で将軍は振り回されてるだけだぜ! 俺じゃ相手になれね、」
「これが……恐ろしい祭具ですわね、死神の魔剣は。『鼬鼠』は私たちほど影響を受けませんが」
顔は青ざめていても、口調は冷静そのものだ。彼女もまた、番人の一人だからか。自分への注意が逸れた一瞬の隙に、フランツは隠し持っていたナイフを突きつけた。
殺すことは容易い。が、いま彼女を殺せば、その記憶を継いでしまう。だから彼女はわざわざ自分の前に姿を現したのだ。
「もう一度言います。貴女を傷付けるつもりはありません。ですが、俺に関わる人間に手を出せば、ルイ様の身は無事では済みませんよ」
天使の顔色が明らかに変わる。その目の中に初めて憎悪の炎が浮かんだ。
「貴方……王族殺しを口にするだけでも罪ですのよ」
「『戦死者』を裁く法廷はこの世にはありません。守るべきものを守ることに専念されては如何ですか」
空色の瞳の中の炎は一瞬にして消え去り、怜悧な冷たさを取り戻していた。
「貴方もいずれ、陛下と宰相の間違いに気付き、私の正しさを認める日が来ます。手遅れにならないうちに、悔い改めることをお勧めしますわ」
「ご忠告、痛み入ります」
「次にお会いする時まで、お元気で。鼬鼠、将軍は長くありません。あれだけ魔力を吸われれば、もう……。せめて最期くらい、お二人だけにして差し上げましょう」
男は膝をついて、ナイフでかろうじて魔剣を受け止めている。いつの間にか衣服を千切って止血していたようだが、あの出血量で大したものだ。
「その感覚が非魔法圏の人間にはよく分からんのですよ! 助けてくださいって!」
しかし、小柄な体は既に地下水路の闇に消えていた。
拍子抜けした。部下をこうもあっさり見捨てるとは――しかしフランツが二人のもとに辿り着く前に突然、男の手元で発火と破裂音が起きた。
「父上!」
自分の甘さを後悔する暇もなく、父が崩れていく。男の右手首から硝煙が上がっており、手首から先はなくなっていた。しかし血は一滴も溢れていない。代わりに金属や剥き出しの配線が見えた。
機械人形か。いや、アーノルド達とは明らかに違う。身体の一部を機械化したのだろう。
黒い霧が、乾いた笑い声を上げている男の右腕に纏わりつきはじめていた。
フランツは男を絶命させようと剣を振るったが、通路側から飛んできた横殴りの銃弾の雨に吹き飛ばされた。
そのまま石壁に肩口からぶち当たって倒れ込む。特に左のふくらはぎに、熱した火かき棒で貫かれたかのような激痛。
銃をぶっ放していたのは小柄な少女だった。弾倉を取り替えながら金切り声を上げる。
「何もたついてんの、鼬鼠! 早くオッサンを始末して! まだ生きてる!」
「ふざけんな、こっちは脚もやられてんだぞ……待ってりゃ番人を継げるんだ。お前は兄さんのほうを始末しろよ」
血溜まりの中で仰向けに倒れている父に、伸ばした手は届かない。
自分たち二人の相手をするのに、あちらは二人だけでは都合が悪い。そんなことは、考えればすぐに分かることだったのに。
中途半端に頭が良いとか、甘いとか――わかっている。
自分は、たった一人で不死を名乗れるほど強いわけじゃなかった。さすがに、ここまでか――
冷たい石床を爪で引っ掻く。
全身の血潮が沸騰した。
まだだ。まだ死んでいい場面じゃない。
そうだ、たった一人でここまで生き延びてきたわけじゃなかった。持っているくせに気付いていなかった、或いは認めたくなかったものを、やっと受け入れたところなんだ。
俺には帰る場所がある。一つじゃなく、二つも。
だから死ねない。たとえ醜く無駄な足掻きだとしても。
歯を食いしばり、傷口に持っていた小さな魔法石を押し当て、火の魔術で焼く。先生から、もしもの時のためにと仕込まれた方法だった。加減するほどの腕前がなくとも、大した火力がないから、かえって安全だと言える。
熱をもった脚は感覚が麻痺していて、火傷の痛みすら感じなかった。
男は血溜まりに浸かった魔剣が生み出す闇に呑まれつつある。あの死霊の声に蝕まれているのかもしれない。
フランツは立ち上がった。男は、恐怖でひどく歪んだ顔をこちらに向けた。
「し、死神……はは、そうだ、こんなゾッとするほど綺麗な人間がいるわけねぇ」
男の向こうで、リロードを終えたらしい機械人形がこちらを向く。フランツは無言で鳥打帽の頸動脈を切り裂いた――汚いし、雑なやり方だが他に選択肢は無い――鮮血を迸らせる体を盾がわりにし、ナイフを少女に投げるが、それは眉間に刺さりもせずに床に弾き落とされる。
「機械人形……!」
目をやっていれば時間を稼げたかもしれない。しかし、アーノルドは聴覚だけでもかなりの精度で撃てると言っていた。
少女は舌打ちすると、拳銃を抜いてフランツに向けた。
「しぶとい人間だな! 生かしておいてやるから降参しろ!」
微かに勝機が見えた。あの機械人形は鳥打帽と違って自分を殺せない。機械では番人を継げないから、捕らえて仲間に殺させるつもりだろう。応援が来る前に勝てば、こちらのものだ。
機械人形相手に勝てたらの話だが。
フランツは魔剣を拾い上げた。
それは、ぶるりと身体を震わせて反抗する馬のように見えた。まだ父は死んでなんかいない。こいつは血を求めている。でも、希望通りにはしてやらない。
一振りすると、少女と自分とを隔てていた格子が綺麗に切れた。そして、少女の右腕は拳銃を握ったままの形であっさりと飛んでいき、循環剤の油が飛び散った。
「な……化け物……!」
それを機械人形に言われるのは心外だ。アーノルドやエルンストのことが脳裏をよぎったから、口にはしなかったが。
少女の瞳に不気味な赤い光が灯る。残った手の中にある機関銃が火を吹くかにみえたが、それは叶わなかった。その前に彼女の左腕は、背後から銃弾に貫かれていたからだ。
少女は続いて撃ち込まれた弾丸に頸部を完全に破壊され、床に膝をつき、重い音を立てて前のめりに倒れた。
「ちょっと来るのが遅かったけど、役には立てたみたいだね」
まだ硝煙を上げている銃を掲げた人物は、フランツに微笑みかけた。見覚えのある姿に、フランツは全身の痛みも忘れて駆け寄りそうになった。
「エルンスト……? エルンストなんですか?」
「また会えて嬉しいよ、フランツ。でもそれより今は、そこの人と話をしたほうがいいんじゃない」
振り返ると、血溜まりの中にいた父が魔剣を支えに立っていた。
「父上!」
「まだ……魔剣はお前を認めていない。私の言っていることが分かるな、シャルル」
一言一言、口にするごとに血が溢れていく。しかし、あの鋭い目に射抜かれても、手は動かない。
この人を殺さないと、記憶を誰が継ぐことになるか分からない、なのに。
「殺せるわけ、ないだろ。帰るんです。帰りましょう」
「馬鹿を言え。腹を撃たれて、これだけ出血していれば、助からん……そのくらい、分かるだろう」
首筋に凍てつくような冷気を感じた。
瞬きすると、聖母のようにやさしい微笑みを浮かべた女性の亡霊がそこに居た。彼女は両手で包み込むようにしてフランツの首に手を掛けていた。
首を絞められる、と思った。しかし、その手の感触は無い。よく知っている顔だった。人の命を奪う前、鏡の向こうに居るひと。
彼女はフランツの両頬に手を添えた。
『ゆるしてあげて』
風が囁くような声を残し、亡霊は空気に溶けて消えた。
父は母の亡霊が消えたあとの虚空を見つめていて、顔からは一切の感情が抜け落ちていた。
ぞっとした。
戦場で嫌というほど目にした死人の顔と、ほとんど同じに見えた。
「マリー、許してくれ」
手が伸びてきて、フランツは右腕を掴まれた。尋常でない力で掴まれていて、振りほどけない。
「許してくれ……」
最期まで威圧的な存在であってほしかった。憎ませて欲しかった。こんなに脆く哀れな姿を見せないでほしかった。
母上。主よ。赦すとはどういうことですか。
赦して、一体何が変わるというのですか。
己の心を救うためですか。報復を許されず、ただ踏みにじられることを受け入れよとおっしゃるのですか。
赦したって、今から自分は相手の命を奪わねばならないというのに。
俺も、赦される資格はあるのですか。
「あなたの罪は許さない。でも、あなたを許す」
黒い闇が、父が伸ばした右腕に絡みついた。そして腕は指先から、あっという間に腐り落ちていった。
その白く細い指は、男の指ではなかった。父はいつも手袋をしていたから、気付かなかったのだ。
「父上……なんで、こういう話を先にしておいてくれなかったんですか。いくらでも機会はありました」
魔剣を握った左手はフランツの意志と無関係に動いて、父の左腕の肘から先を切り落とした。
魔剣を握った左手は、熱された金属を当てられたようだった。
左の肘から先が自分のものではなくなっていく。
「記憶だけじゃなくて腕を継ぐ、とか。母上のことが何より大切だったとか。俺のことが嫌いだったわけじゃないとか」
父の腐食は止まらなかった。番人の最期がどんなものなのかを思い知った。番人の力は、きっと神が与えた奇跡でも何でもない。
「早く……殺せ、馬鹿者」
「番人は多分、魔力を差し出して祭具を維持しているんだ。番人は祭具を使うための器でしかない。番人を継ぐのって、悪魔に魂を売るようなものなんじゃないですか」
父を支えて膝をついた。
「そうだとしても……お前は馬鹿だから……悪魔の言うことも聞かないのだろう……そうすれば魔剣に喰われるのだぞ」
フランツは笑った。
「そうですね。でも俺は死にません。父上だって、さっき死ぬなと仰ったくせに」
「馬鹿者……お前にだけは継がせたく……なかっ……」
父の全てが崩れ落ちる前に、黒い刃を振るった。白い靄が降りつつある雪影色の瞳はもう、冷たさも熱さも浮かべていなかった。
刃は、鏡のような刀身を煌めかせながら、主のいない空っぽの服を貫いて床に突き立っていた。
ひどく寒気がした。それから次の瞬間には全身が燃え上がるように熱くなり、思い出したかのように左腕と右手と撃たれた脚に痛みが戻ってきて、フランツは荒く息をついた。
床にぽたぽたと落ちた水滴が汗なのか、そうでないのか、もう分からなかった。
「行こう。まだ安全とは言えない」
ずっと気配を消していたエルンストが、手を差し伸べてくれた。
いくら人間らしいとはいえ、彼は機械であって人間ではない。そのことにフランツは心から救われた。残された血塗れの服と、石灯の光を反射して輝いた何かを拾い上げても、彼は何も言わずに肩を貸してくれた。代わりに自分が破壊した仲間の残骸に、ごめん、と呟いていた。




