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Adrian Blue Tear ―バー・エスメラルダの日常と非日常―  作者: すえもり
Ⅰバー・エスメラルダの日常と非日常 December

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ABT15. ペールブルー・ターコイズブルー(3)

 店内に戻ると、ゴドフロアは珍しく疲れを滲ませた顔で、トニックウォーターが欲しいと言った。

 ルピナスは氷をありったけ入れたグラスにトニックウォーターを入れて差し出し、次のレコードを何にしようか迷った挙句、最初にかけていたものを選んだ。振り返ると、ゴドフロアは両目をきつく閉じて目頭を指で押さえていた。

「随分とお疲れのご様子ですね」

「ああ……まあ、もう歳だな」


 白髪の量ならフリードリヒのほうが多かったが、年齢の近い二人が並んでいれば、フリードリヒのほうが随分と若く見える。

「ちゃんとお休みを取られているんですか」

 彼は曖昧な笑みで誤魔化しつつ「オーナーは相変わらずいい男だな」と呟いた。

「そうですね。今の仕事は全く向きませんが、私生活とバーテンダーとしての仕事ぶりについては文句なしでした」

「天は二物を与えずか」


 ゴドフロアは独身だ。浮いた話ひとつなく、ひたすら滅私奉公してきた役人の鑑。物好きな大衆相手のマスコミは、寡婦の女王と独身の宰相との間にスキャンダルのネタが潜んでいないか嗅ぎ回っているが、大した成果はないらしい。


「愛などというものが、この歳になっても未だ分からない。私は人間として不完全なんだろうか」

 他人に素顔を見せることの無さそうな彼が珍しく無防備な姿を晒していると、妙な親近感が湧いてしまう。

「そんなことはないでしょう。でも、そんなに難しいものではないと思いますよ。親が子に抱くものだって愛です。……失礼かもしれませんが、ご家庭の環境が良くなかったとか?」

「いや、何もかもありふれた普通の育ちだ。中流の平和で温かい家庭で、平凡に成長した。それがつまらなかったのだと推測してくれても結構だ」


 身体能力も頭脳も外見も、すべて並だと彼は笑う。けれども、若い頃はそれなりに惹かれる女性がいたのではと思われる面影が残っている。

「美しい涙物語も復讐物語も、私の人生にはない。あるのは役割のみ。愛を知る人間には出来ぬことを、嫌われても憎まれても犠牲を出しても達成すること。最大幸福のために身を粉にすること。仕事以外の何もかもは平凡で退屈だ」

「その生き方は楽しいですか?」

 彼は幼な子のように首を傾げた。

「仕事に感情は邪魔だろう。掃除と同じだ。バーテンダーなら感性が求められるかもしれないがね」

「そうですね。……私個人はあなたの仕事の仕方はまだマシなほうだと思っています。良いとも思っていませんが」

「分かっているさ。若き改革家だった頃の私なら、今の私を許さないだろう。嘘と方便で人を騙すことなど」


「それで、レオンさんをけしかけたのは事実ですよね?」

 ルピナスが詰め寄ると、彼はため息をついた。

「いや。フリードリヒの首が未だに繋がっているのは運がいいとしか言えない。特に軍のトップは危険だ、多少はまともに話ができる人間に継いでもらわねば。そういう話をしただけだ。いずれ彼が記憶を継ぐ運命なら、後でも先でも同じだろう」

「それを、けしかけたと言うんですよ……いつからでしょうね。正しいか、正しくないかで物事を決められなくなってしまうのは」

 見えるものが増えるほど、人の心が見えるようになっていくほど、身動きが取れなくなってゆく。だから見えないふり、聞こえないふりをする。そのうちに、いっそ人の心が無ければ楽なのではと思うようになる。


 ゴドフロアはそれを聞いて、自嘲気味な笑みを浮かべた。彼との付き合いは長いほうだが、表情や言葉尻は暖かくても心の内は読めないし、人をどの程度まで人として扱っているのかは疑わしいと思う時さえあった。そんな彼が珍しく個人的な話をしてくれるので、ルピナスは気になっていたことを尋ねてみることにした。

「ひとついいですか? あなたがキャサリン女王に対して抱いているのが恋慕でないことは知っていますが、お認めになっていないか、気づいておられないだけということはないんですか?」


 しかし、彼は不思議そうな顔で瞬きするのみ。

「私と陛下は表裏一体の存在だ。恋愛というのは、いずれ両者のバランスが崩れていくものなのだろう? 私たちにそんな日は来ない」

「ならば、プラトニックな愛と言っても良いのでは?」

「名前をつけてラベリングしたがるのは人間の悪い癖だ。陛下は亡くなられた先王を愛しておられる。私に対しては愛情を抱いていないし、私も陛下に何かを欲することはない。身体的な繋がりも、言葉による束縛も契約も必要ない」

「わからないものですね……もしも彼女がこの世を去ったら、ひどい喪失感を抱くと思われませんか?」

「それはそうだろうが、理解し合える人間がこの世にいるか、あの世にいるかは重要なことかね?」


 それはやっぱり愛じゃないですか、と言いかけてルピナスは口を噤んだ。男女間の愛ではないと彼は言いたいのだろう。彼が理解できないのは、おそらく世間一般で普通とされる恋愛感情だけなのだ。

「ある人間と人間の関係性を何かに当て嵌めて標準化するのは無意味なことだよ。数値やパラメータであらわせるものでもない。関係性の数だけ名前を与えれば星の数ほどあるだろうな。言葉とは、まことに不便極まりない容れ物だ。……この話はやめにしよう」

 そう言うと彼は、さっきフリードリヒが飲んでいた試作を注文した。


 彼はルピナスの手元を見つめながら、また珍しいことに微笑みながら口を開いた。

「彼はいいだろう……ロラン君のことだ。私が彼を気に入っているのはな、物事を割り切ることを拒み続けているからだ。何の感情もなく人を殺められるというのに、その後いつまで経っても罪の意識に慣れないのだよ。そして仕事を嫌がっていながら、他の局員の仕事を寄越せと言う」

「なぜですか?」

「どうせ殺すことが決まっているのなら、最も苦しまずに済む方法で殺してやりたいと言っていた」

 ルピナスは、しばし黙り込んだ。弟子が妙なところで人道的なのは、以前に現れたアンドロイドを庇った時と同じか。


「本当はもう、フランツさんをここに戻って来させないおつもりなのではありませんか? 王家に忠実な人間を捨てるのは惜しいでしょう?」

 ゴドフロアは僅かに眉を上げた。

「彼は東北の前線で戦死したことになっている。戦場では死体の取り違えがよく起こるから、帰ってきたとしても問題はない。公夫人さえ言いくるめられたらな」

「問題はない、じゃありません。あなたが手放そうとしないんでしょう。フランツさんは故郷には未練がないと言っていましたが、せっかく積んできた学者への道が閉ざされたことを、やはり悔しく思っているようです。それでケルンを勧めましたが」

「なるほど。しかし、君は王都にもケルンにも行ってほしくなさそうだな」

「いいえ? そういう流れなら仕方ありません」


 出来上がったカクテルを手渡すと、ペールブルーの目がゆっくりと細められた。これはどうやら、心から笑っているらしい。

「私は表情を読むのが得意だぞ。君も人に執着するのだな。それとも彼だけかな?」

「そ、そのようなことは」

「はは、先ほどの質問攻めの仕返しだ。彼には気をつけたまえ。ああ見えて拷問も得意だったからな。スイッチが入ると、なかなか嗜虐的だぞ?」

「何となく推察はついています。でもあれは、ただの性悪ですよ」

「世の中の理不尽を受け入れるには、まだ若いからな。私は一人の人間の中にある矛盾を見ているのが好きなのかもしれん」

「女王陛下のこともですか?」

「そうだな」


 彼はグラスを傾け、美味しそうに飲んでみせた。そして、ぽつりと溢した。女王の手を一切汚させず、代わりを引き受けると覚悟した理由は、本当に下らないものだと。彼女は愛情深く心優しい人であるのに、人を畏怖させる方法を心得ていて、その誇り高く冷たい横顔があまりにも美しかったから、一番近い場所でずっと見ていたいと思ったからだと。


「私生活の姿ではなく、君主としての姿を敬愛しているのだ。だから、これは崇拝だよ」

 静かな語り方だったが、ペールブルーの瞳には狂気と言ってもいい熱情が確かに宿っていた。

 これが愛ではない、か。ルピナスは心の中でそう呟いてから、「今夜は珍しく饒舌に語られるお姿を見られて新鮮でした」と言った。


「ふむ、では君とロラン君の関係性に名前をつけてあげよう」

 ゴドフロアは空になったグラスを掲げ、悪戯っぽく笑う。

「へっ……?」

「ネバー・レット・ミー・ゴー。アルプス山脈の万年雪のようなアイスブルー、甘さの欠片もない引き締まった辛さ。なのに、身体の芯から少しずつ暖まってくる不思議なカクテルだ。気に入ったよ。千年節の用が済んだら、彼を君にあげよう」

「ちょっ……ちょっと、何をおっしゃってるんですか」

「要らないのかね?」

「フランツさんは物じゃありません! それと私は別にフランツさんのことなんかっ」

「ロラン君にはハッキリ言わないと伝わらんぞ? 屈折した受け取り方をするからな」

 真っ赤になっているルピナスを前に、明るい笑い声をあげると、ゴドフロアは女王の横顔が描かれた最高額の札を気前よく並べた。


「キャサリンに今日話したことは黙っていてくれるね?」

「仕方ありませんね。でも、あなたが王国至上主義な手を打つたびに、全ては女神キャサリンのためだと皆さんにバラしちゃうかもしれません」

 仕返しとばかりに迫ると、辣腕の宰相はモノクルをかけながら顔を背けた。

「陛下の耳に入るだろう。やめてくれ」

「あら、フォローして差し上げようと思ってるんですよ? 悪役の人間らしい弱みは共感を得やすいです」

「君は人を油断させる天才だな、マスター。私も陛下も心から争いを望んでいないのだよ。最小限の犠牲で平和を守りたい。誓って本当だ」

 そう言い残し、彼は雨の降りしきる夜の街へと姿を消した。


 雨足は、夜が更けるにつれて強くなってきているようだ。今日の営業はここまでにしよう。ティスを呼ぼうとカウンター内に入ろうとした時、ゴドフロアが飲んでいたグラスの下に折り畳まれた紙片が挟まれているのを見つけた。

『D公夫人がアーサー・フラクスの一人娘を引き入れたと分かった。注意してくれ』


 紙片を持つ手が震えた。まさか、フランツは罠にかけられたのか? ガリウスに連絡を取らねば。すぐさま国際電話をかけるが、こんな時に限って出ない。それならロラン家にかけるか? しかし、そんなことをしてもフランツには連絡が届かない。 


 ルピナスは予約名簿を引っ張り出し、ある人物の電話番号を探した。あった。いま王都にいて、ガリウスと繋がりのあった彼女なら、或いは。震える手で電話のダイヤルを回す。眠そうな声の交換手が出る。ややあってから、澄んだ声の女性から応答があった。

 こんな夜更けに連絡した非礼を詫びて用件を伝えると、彼女は事態の深刻さをすぐに理解してくれた。

『シャルルが危ないのね? 分かったわ』

ABT15(3)のBGMは宇多田ヒカル/あなた です。ちなみに(1)の冒頭でかけているのは、同アルバム『初恋』よりFoevermoreです。

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