ABT14. forget it at least now (1)
翌日、金曜日。
開店する直前、カウンター内の黒電話が鳴った。電話のすぐそばに立っていたルピナスはフランツのほうに視線を送ると、「出ますか?」と言って意地悪そうに笑った。金曜日のこの時間ならシャロンからかもしれないと言いたいのだろうか。
フランツは電話につかつかと歩み寄ると、「他の方かもしれないでしょう」と、ぼやいてから受話器を取った。
「お電話ありがとうございます。バー・エスメラルダでございます」
電話交換手の女性はクリステヴァ王都からだと早口で告げると、すぐに回線を切り替えた。それなら、まずシャロンからではない。ルピナス宛だろう。視線を送ると、彼女は片眉を上げた。ややあって、回線が再度繋がる音がした。
『もしもし、ティタンのエスメラルダというバーですか? そちらにシャルル……じゃない、フランツ・クロイツァーがいたら、代わっていただけません?』
少し音質が悪く聞き取りづらいが、若い女性の声だ。フランツは訝しみながら返答した。
「私です。失礼ですが、どちら様でしょうか」
『シャルル? シャルルなの? ちょっと声が聞こえづらいわ』
「あの、そちらは……」
『私よ。サビーヌ』
姉の名前に、フランツは耳を疑った。
「姉さん。いま王都にいるんですか? どうしたんです、電話なんかかけてきて」
『いい? 落ち着いて聞いて。今日、父さんが倒れたの』
急速に血の気が引くのが分かった。
『病院にいるけど、脳卒中みたいなの。今は意識がなくなったり戻ったりを繰り返してて、このままの状態が続けば、もしかしたらダメかもしれないってお医者様はおっしゃっていて』
久しぶりに聞く姉の声は、いつもの覇気を完全に失っていた。
「それは……治療もできないということですか?」
『できることは、やってくださっているけど……、ねえシャルル、ディアスさんっていう、あなたの上司だった方が連絡を下さったんだけど、もしあなたが戻って来るなら、入管の手続きと、王都に着いたあとは手助けするって言ってくださってるの。そこから出ている夜行列車を使って、なるべく人目につかないようにしろって。最終便ならまだ間に合うでしょ』
フランツは、しばし沈黙してから答えた。
「そんなご面倒をおかけするわけにはいきませんし、無事に帰れるかどうかも分かりません。姉さんや兄上たちには申し訳ありませんが――」
『あんた、バカなの!?』
突然、鼓膜が破れそうなくらいの大声で叫ばれ、フランツは思わず受話器を遠ざけた。
『こんな時に、何とかして帰ろうと思わないわけ!?』
深刻な内容であることを察しているのかいないのか、ルピナスは興味津々の様子で、顔には中途半端な笑いを浮かべている。フランツは裏の部屋に入り、電話線ぶんの幅だけ残して扉を閉めた。
「店内なので静かにしてください。言いましたよね、なんとか公にならないようにしてもらっていますが、俺は王国に戻れる身分ではないんです。王都なんかで俺と一緒にいるところが見つかったら、兄上達や姉上の家族にも危険が及ぶかもしれません」
『それはあんたのせいじゃないって分かってるわよ。私もできることはする。あんたの場合は父さんに会いたくないだけなんでしょ。もう会えないかもしれないのよ? こんな時ぐらい何とかしなさい。最終便は二十三時半よ。帰ってきなさい。いいわね』
盛大な音を立てて受話器が置かれ、電話が切られた。
フランツは、ため息をついて受話器を戻しに行った。最終便が出るまでは、あと一時間半。ここからなら、半刻ほどあれば駅に着く。
カウンターに戻ると、客席にはシャロンの姿があり、フランツはうっかり受話器を落としかけた。
「ル、ルメリ……」
シャロンは微笑むと、目を覗き込むようにしてフランツをじっと見つめた。
「フランツ、もしかして何か大事な連絡があったの?」
受話器を戻して一呼吸おいてから、フランツは口を開いた。
「実は……父が危ないらしく、今日の最終便で帰ってこいと姉が言っておりまして。ですが、警務に引っかからずに帰れるかも分かりませんし、週末を空けてしまうわけには……」
ルピナスが首を横に振る。
「フランツさん、お店のことは構いませんから、出来るだけのことをしましょう。今すぐ準備してください」
フランツは、もう一度息を吸って吐いた。自分が落ち着いているのかいないのか、分からない。いまいち状況が飲み込めていないのだった。
「フランツ、帰らなきゃだめだよ。私も行くから」
シャロンが席を立った。
「え? いや、そんな訳には」
「一人じゃ危ないんでしょ? 私は警務の人間だから、一緒にいれば怪しまれる可能性を減らせるかも」
フランツは、いやいや、と断った。
「あなたを巻き込むわけにはいきません。もう異動まで時間がないのに、そんなご面倒をおかけする訳にはいきませんし、月曜までに帰って来られませんよ」
「ちょうど来週のどこかで王都に行かなきゃいけなかったんだ。それを月曜にすればいいよ。私が行かなきゃ、もうデートする機会、ないかもよ」
シャロンは若干気まずそうに目を逸らしながら言う。フランツは言葉に詰まった。
ルピナスは腰に両手を当て、フランツに迫った。
「フランツさん、女性にそんなこと言わせちゃダメですよ。シャロンさん、旅費も食費も、全部フランツさん持ちで行くといいです。不甲斐ない弟子をどうかよろしくお願いします。ほれ、行け」
「……すみません」
フランツが頭を下げると、シャロンは「最終便なら駅の券売り場に二十三時ね」と言うと、半分以上残った果実酒をそのままに、代金を置いて素早く出て行った。ルピナスはその代金を、そのままフランツに手渡した。
「返しておいてください」
「すみません、マスター」
「こういうことは気にしないでください。さあ、早く行った行った」
追い出されるようにしてフランツは下宿まで走った。
ABT14(1)〜(8)のBGMはKarel Boehlee Trioの『Midnght Blue』より、Victor Young/Golden Earrings です。