ABT13. after thirty years (4)
珍しく黙り込んでいるフランツを、ルピナスは瞬きもせず、じっと見つめた。彼女の遠回しな言葉の真意を見抜いたつもりになって、妙な表情を浮かべていたのかもしれない。
「時間切れです。例えば、部屋にいるならお茶を淹れる。外にいるなら、たまたま持っていたキャンディなんかを渡すのでもいい。小さいことでいいんです」
彼女の中身が、ただの十六歳の少女ではないことは理解しているつもりだ。記憶の番人として、千年もの間積み重ねられた記憶を引き継いでいる。それは一体どんな感覚なのだろうか。神にも近い視野を持っているのだろうか。
知り合った中で鉄の女に例えられるとしたら、女王を除けば彼女くらいかもしれない。弱みも隙も簡単に見せはしないが、それは決して彼女が強いという意味ではない。
「泣いてらっしゃるくせに」
上着のポケットから出てきたキャラメルを彼女の小さい手に握らせた。横目で見上げると、彼女は口を緩めて笑った。その心に踏み込んでよいものか分からない。けれども、放っておくべきではない気がした。興味がないふりをしてしまえば、ふらりと遠くに離れていってしまいそうだった。
「まだまだですね。でも私の好物を選ぶだけ、フリードリヒよりマシです」
フリードリヒという名は、フランツも耳にしたことがあった。確か、バーの初代店主だ。
「フリードリヒが誰か聞かないのですか?」
「師匠の師匠でしょう?」
「正確に言えば私が記憶を継いだひとの、ね」
「彼からの手紙だったんですね?」
「そうですね。私ではなく彼女宛てです。立場上、送れなくなると分かっていたから、先に書いておいたのでしょう。気が早すぎますね」
彼女は片手で器用に包み紙を捻って開けると、口の中にキャラメルを放り込んだ。
「男女構わずモテて一流の気遣いができるくせに、『私』のことは眼中になくて、気付かずにいた。そのくせ、もう会えなくなる前になって、自分の気持ちに気付いたと抜かした男です」
そう言うと、ルピナスは白い靄に覆われた街を背にして、挑発するような目でフランツを見上げた。
「彼によると、我々がアルコールを必要とするのは、死や睡眠のように、人間には自我が消えてなくなる時間が必要だからだそうです。音楽でも本でも観劇でも誤魔化せなくなったら、最後の砦はアルコールなんですって。……ねえ、恋は何年で冷めると思いますか?」
また、この瞳だ。屋上には青い光を投げかけるランプは無い。けれどもブルーとグリーンの瞳には、波ひとつない表面の下に揺らめく、底知れない世界が見え隠れしていた。
「……三年でしたっけ。でもそれは、その二人次第かな」
「ふふふ、そうですね」
目をゆっくり閉じて開いた少女は、いつもの澄まし顔に戻る。
「何年続けばほんとうの恋だとか、そんな議論は無意味です。たった一瞬でも百年でも、ほんとうですよ。『私』の場合、一瞬が三十年続いた、それだけです」
彼女はフランツの脇を抜け、昇降口に向かった。
「師匠は――」
記憶を継いだ女性が愛した男のことが、好きなのか。記憶を引き継ぐとは、人格までも侵食されてしまうということなのか。問おうとしたが、言い淀んだ。そうだと肯定されるのが怖かったからかもしれない。
「なんです?」
「その……あなたは、あなたですよ。記憶に引きずられる必要はないと思います」
「引きずられたくて、そうしているんじゃありません。あなたもいずれ分かりますよ。それに私が屋上に来た理由は、手紙とは無関係です。全く、早とちりする男はモテませんよ」
ルピナスは、ほんの少し不機嫌そうに言うと、階段を下って行ってしまった。
その後ろ姿が視界から消えると、目覚めはじめた街の喧騒が急に耳に入ってくる。それから手足がひどく重いことに気付く。体の芯が冷え切っていることにも。
「――イヤだ」
この世界を、この感情を、あの男に支配されたくない。絶対に明け渡したくない。本当は自分を愛しているなんて、冗談でもあり得ない。腹の底から湧き上がってくる嫌悪感や吐き気すら、拒絶したい。背後のフェンスを拳で殴りつけて、骨まで響く痛みに歯を食いしばって堪えた。痛いだけだ。毎度、馬鹿なことをしたと後悔すると分かっているのに。
「くそ……くそが……」




