ABT10. 矜持 (7)
壁にもたれかかるようにして動きを止めたエルンストに、フランツは外套をかけてやった。手が汗ばんでいるのに冷たい。まだ耳の奥で銃声が反響しているような気がした。
一つだけ救いだったのは――皮肉なことに彼が人間ではなかったことだった。硝煙とオイルの匂い、それだけだ。それでも全身の虚脱感が酷い。
目を閉じた。彼は土に還れない。モニカが帰ってくれば、分解されてしまうであろうことを心の中で詫びた。手向けに贈ってやれるものが無いかと考えたが、ここにあるものといえばアルコールしかない。
「マスター、ティスさん、我儘を言って申し訳ありませんでした。少し頭を冷やしてきます。俺は用心棒には向いていない」
ティスは何も言わずに武器を仕舞った。ルピナスは、唇を噛み締めつつ店を出て行こうとするフランツを目で追っていたが、フランツがドアノブに手を掛けたところで「待ってください」と呼び止めた。
「私はティスの後を継いでくれる人を探していました。でも、あなたは元々その気ではありませんでしたし、当座しのぎの仕事でした。たしかに、あなたは……残念ながら用心棒には向いていないようです。もし、この仕事が合わないとか、辛いということであれば、無理に続けろとは言いません。今週末まで時間を差し上げますので、考えてください」
一切感情を込めない彼女の口調に、どこかほっとしている自分がいた。それと同時に、一言叱ってほしかったという気持ちもある。どんな表情を浮かべるのが正解なのか分からず、フランツは頭を下げた。
「……分かりました。失礼します」
翌日、フランツは普段通り出勤した。
出勤予定の一時ではなく、その前。まだ誰も出勤していない午後八時に鍵を開け、掃除を一通り済ませるとカウンターに立った。
九時になり、現れたルピナスとティスは目を丸くしてフランツを見つめた。
「今日も一時からですよ? それに、少し時間を差し上げると……」
「ええ、でも仕事は仕事ですから」
フランツは、先程から作っていたカクテルの味見をして、少しシロップを足して調節してから、うん、と頷いた。
「お二人に味を見ていただきたくて」
無色の透き通ったカクテルをグラスに半分ずつ入れて二人に差し出すと、フランツは口を開いた。昨晩ずっと考え続けて出した結論だ。
「バーテンダーの仕事、最初は全然向いていないと思っていました。でも、お客様が美味しそうにお酒を飲んでくださると嬉しいし、心地いいひと時を過ごしていただくお手伝いができるのが、今は楽しいです。用心棒としては駄目でも、接客の仕事を続けさせていただけませんか」
ルピナスは、目線をフランツの瞳からグラスの中で揺れる液体に移すと、じっと見つめた。それからグラスを手にして口を近づけ、目を瞑ってから一口飲んだ。
「いい香りですね。ライチでしょうか。甘すぎず苦すぎず、ゆっくり飲めば、ほどよく酔えそうです。とっても上品ですね。フランツさんらしいです」
それからルピナスは、鞄から一枚の紙を取り出した。
「あなたが辞めると言い出したら、これで引き止めようと思っていました」
雇用契約書と書かれた紙には、アルコール類の販売・カウンターでの接客・調理補助という文字が見えた。
「これは……?」
ここに来た当初も契約書にサインしたが、いま見せられたものは、仕事内容欄から『用心棒』の文字が消えていた。
「フランツさん。試用期間も無事終わりましたし、これから、私と一緒にバーテンダーとして働いてくれませんか。あなたには、その才能があります」
フランツはルピナスのオッドアイを見つめ返した。彼女は静かに微笑んだ。
「カクテルのセンスもなかなかいいし、物覚えも早いし、お酒に強いですし。制服がとっても似合います。屈折してて、頑固で、青臭くて、いくら注意しても口答えが減らない憎たらしい弟子ですけど、何だかんだ、みんなに愛されるタイプですから」
後半は、ほとんど悪口だ。が、今回は反論しないことにした。
「……いいんですか?」
「ええ。ひとまず次の人が見つかるまでは、アーノルドが帰ってきたら時間を増やしてもらって何とかします。それまでは今まで通り、用心棒も兼ねてでお願いしたいんですが……それは大丈夫ですか?」
フランツは、黙ってカクテルを飲んでいるティスのほうに視線を送った。
「私に許可を取る必要はないわよ。美味しいわね、これ。なんだか懐かしい味だわ」
「……ありがとうございます」
フランツは胸のポケットからペンを出し、書類を受け取るとサインした。ルピナスは嬉しそうにそれを受け取り、「用心棒の当てなら、今アイディアが浮かびました」とウインクした。それを聞いてティスが顔を上げる。
「あら、私が知ってる人?」
「さあ、どうでしょう。まだアイディアですから内緒です」
ルピナスは、その場でくるりと回ると、着替えてくると言って裏の部屋に消えた。
「ところでフランツ君、このカクテルに名前はつけたの?」
「ええ。黒の兄弟です」
「透明なのに黒?」
「この店の命名ルールに則りました」
「ああ、小説のタイトルね」
ティスは思い出したように笑うと、空になったグラスを掲げた。
「あなたには、このカクテルを捧げたい友人がいるのね。そういえば、昨日の機械人形だけど……ヘッケルに調べさせようと思ってここに置いたままにしてたのに、いなくなってるわね」
日曜、深夜二時。日曜だけは閉店時間が早い。扉にCLOSEDと書かれた札を掛けたルピナスは、カウンターに肘をついているベテランの用心棒に微笑みかけた。この時間は二人の自由時間だ。
「ティス、フランツさんのこと、けっこう気に入ったんですよね」
ティスは肩をすくめる。
「あら、あなたこそ手放す気なんか無かったんでしょ? 腕もあって常識のある若者に後を継いでもらえるなら、すっきり辞められると思ってたのに。やれやれだわ」
「すみません。そこは私が良い人材を見つけられていないせいです」
「まあ、仕方ないわよ。あの子、プライドなんて語っちゃってさ。私より先に死のうとするタイプなんだもの。なんで男って、ああなのかしら」
「男に限りませんよ。若い頃のあなたも、ああだったじゃありませんか」
「あなたが私とフランツ君を止めなかった理由はそれ?」
「ええ」
ルピナスは微笑みながら、グラスにアルコールとジュースを注いだ。ティスは少女を見上げて嘆息した。
「いつになっても、やっぱり慣れないわ。エメラの記憶を持ってる女の子と話してるなんて」
「あら……私も同感です。あなたがどんな少女で、どんなふうに女性になって、母になって、これまで生きてきたかを全部知っているなんて、とっても不思議です」
ルピナスは、エメラの親友であり初恋のライバルであり、彼を奪っていった女を見つめた。記憶がそう告げているだけで、それが本当かどうかを証明するものは記憶そのものしかない。
「ま、余計な記憶のせいでフランツさんに年増扱いされてるんですけどね」
「あら、それは酷いわね。今度とっちめてあげる」
「十分とっちめてますよ。それに今回の件は、結局逃げられたとはいえ、心の傷になっているでしょうから……。若さは羨ましいですね。私たちはもう、大抵の物事には答えを決めてしまっているじゃないですか」
「そうね。それでも時々迷うことがあるけど……ああいう純粋さ、好きなのよね」
「ふふ、そうだろうと思いました」
「その純粋さを失っていく過程もね」
ルピナスは、彼女が愛するカクテルを差し出した。ピンクがかった夕陽色は青い照明と混じって、日没前の空を見上げるひとときを思い起こさせる。
「リメインズ・オブ・ザ・デイです。今日はゆっくりしていってください」
ABT10. (7)のBGMは、Rie fu / Decay です。




