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Adrian Blue Tear ―バー・エスメラルダの日常と非日常―  作者: すえもり
Ⅰバー・エスメラルダの日常と非日常 November

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ABT8. ロシアン・ブルー (3)

 もちろんフランツは、そんな話をそのままブレンにしたりはしない。しかし、彼は明後日には()ってしまうというのに、アストラはまだ宿題を終わらせていないらしい。ブレンは困惑した顔でルピナスを見上げた。

「マスターは俺があいつを怒らせたって言いたいのか?」

「いえ、アストラさんは、ご自分に苛立っていらっしゃるんです。宿題は計画的にするタイプなのに、なぜか今回は出来ないんですよ」

「何だ? ますます分からねえ」

「じゃあ、電話をお貸ししますから、今すぐここに来いってアストラさんに言ってください。ご本人から話を聞くのが手っ取り早いです」


 ルピナスは容赦なくカウンター内にある黒電話のダイヤルを回し始めた。

「ちょ、待てよ、時間が時間だろ」

 ルピナスは答えず、コール音が漏れ聞こえる受話器をブレンに押し付けた。彼は仕方なさそうに受け取る。

「あー……アストラ、今からエスメラルダに来られたりするか?」

 受話器からはアストラの声が微かに聞こえてくる。

『ブレン? 急に何なの? 今から夕飯なんだけど』

「じゃ、食ってからでいい。(あせ)らなくていい。待ってるから」

『ちょっと』

「明日は休みだろ」

 ブレンは、まだ話し声が聞こえる受話器をルピナスに突き返した。彼女は「お待ちしております」と告げると、素早く電話を切る。


「さて! アストラさんに何か差し上げるなら、すぐ出せるようにしておきますよ」

 ブレンは額を押さえた。

「来るかどうか分かんねえよ。昨日飲みすぎたんだろ?」

「ふふん、必ずいらっしゃいます」

 小さなマスターは、自信満々の顔で胸を張る。

「じゃあ軽いやつにしてやってくれ。あいつが好きそうなやつ」

「ブレンさん、アストラさんが、いつも最初に飲むのは?」

「シューティング・アン・エレファント」

 ルピナスはフランツに目配せした。作れということらしい。彼女はノンアルコールのワインで出すようにと指示した。今日、試しに仕入れたものだ。


「じゃ、アストラさんは、どうしてあのカクテルが好きなんでしたっけ?」

「香りがいいんだろ? 煙草を吸ってても風味が損なわれないって。でもこのクイズ、なんか関係あんのか?」

「アストラさんが残り少ない煙草の箱を大事にしていらっしゃるのをご存知ですか? 紺色のケースの」

 ブレンは眉をひそめた。

「誰かに貰ったそうですね。もう廃番になったものだとか。ちょっと火が()きにくいって言いつつ、一人で来られた夜は、最後に必ずあれを吸われるんです」

 ブレンは、ああ、前にあげたやつか、と呟いた。

「あいつ、まだ残してんのか」



 電話の受話器を置いたアストラは、遅い夕飯にするつもりだったホワイトシチューが入った鍋に蓋をした。寒い時期だから明日でも大丈夫だろう。

「急に呼びつけて、何なのよ……ああ、マスターの差し金か」

 何も食べずにあの店までは保たないだろう。一本吸って空腹を紛らわせることにする。それにしても、お節介なマスターだ。泣きついたのは自分だけれど、我ながら、みっともない酔い方をした。


 ポケットから取り出した紺色の煙草の箱には、あと三本しか残っていない。二月(ふたつき)ほど前にブレンに貰ったものだ。湿気(しっけ)て火がつきにくい。


『それ、廃番よね。よく手に入れたわね』

 休憩時間、アストラは、いつもどおり職場である帝国南部国境支部局の狭い喫煙室にいた。部屋の隅には、この部屋のもうひとりの常連であるブレンが壁にもたれつつ煙草を吸っていた。彼の手には見慣れた紺色のケースが握られていた。

『買い占めてた』

 彼は無言で、アストラのほうに箱を突き出した。一本だけ残っている。

『最後じゃない。いいの?』

『まだ、あと一箱ある。湿気て火がつかなくなる前に使い切らないとな』

『ありがと』

『お前から感謝の言葉を聞くのは初めてだ』

『そんなことないでしょ。一言余計だわ』


 ブレンはポケットをまさぐり、使い込まれた金属ケースのライターに火をつけ、アストラに差し出した。アストラは貰った煙草を、その火にかざした。少しだけ時間がかかる。細長い煙の筋が上がり、懐かしい香りが鼻孔をくすぐった。この銘柄が廃番になったのは、半年ほど前だ。吸い始めてからずっと、これだった。

『これからはどうするの? 私は今のところ、これがマシだと思ってる』

 アストラが差し出した白い箱を、ブレンは断った。

『こいつが切れたら、やめるつもりなんでね』

『あら。じゃ、この部屋は私だけのものになるわけね』

 彼は鼻を鳴らした。

『休憩時間にまで顔を突き合わせなくて済むようになるな』

『それはいいわね』


 ブレンは灰皿に煙草を押し付けると、羽織っていた上着のフードを被った。照れ隠しするときや、何かを誤魔化したいときに、彼がそうすることをアストラは知っている。なぜ今そうしたのかは、よくわからなかったが。

 それから彼は、先程とは反対側のポケットから、おもむろに新しい箱を取り出した。

『最後の一箱、やるよ』

 アストラは瞬きして、彼の青い瞳を見つめ返した。

『どういう風の吹き回し?』

『未練がましくなりそうだからな』

『急に口寂しくなっても知らないわよ』

 ブレンは口元を歪めて笑った。

『代わりのものでも探すさ。キャンディとか?』

『糖尿病にならないでよ』

『ならねーよ』

 アストラの手に箱を押し付けると、ブレンは喫煙室を出ていった。それきり、彼は本当に煙草をやめた。続くのかどうかはわからないが、あの性格だと、本当にやめるつもりだろう。


 開け放ったキッチンの窓からは、乾いた冷たい風が吹き込んでくる。微かに雪が舞っているのが見える。アストラは灰皿に煙草を押し付けると窓を閉め、部屋を出た。

今夜のBGMはVa-11 HALL-Aボーナストラック・コレクションよりGaroad/Truth です。

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