ABT6. 青い (1)
午後十一時。
バー・エスメラルダの店内には女性客が一人。亜麻色の長い髪の女性、リアナはマスターと時々言葉を交わしながら、お気に入りの緋色のカクテルを傾けていた。
マスターによると、彼女は月に一度現れるか現れないか。前回の来店から一ヶ月経たないうちに来たのは、この後しばらく来られなくなりそうだからだという。
フランツは女性二人の会話についていけなかったので、存在感を消すべくカウンターの奥で銀食器磨きに勤しんでいた。時々横目で彼女たちの様子を伺っていたし、耳だけはしっかりと働かせていたが。
「私のものになって、っていうでしょ。あの言い回しって、おかしいと思うの。私たちは誰も、誰かのものになったりしないわ」
リアナはグラスの淵に細い指を這わせた。ルピナスは艶のあるボブカットの髪を微かに傾ける。
「誰かのものになりたいと、思ったことはおありですか?」
問われたリアナは、しばらくマスターのオッドアイを見つめてから、口を開いた。
「あるわ。夫よ」
「そうですね。……変ですよね、好きじゃない人に言われると、嬉しい反面、ちょっと困ってしまったり、最悪の場合イヤだと思ってしまうのに、好きな人には言われたくなりません?」
リアナは軽やかに笑った。悪女などという話を耳にしていなければ、フランツがこれまでで受けた印象は、聡明で好感の持てる物静かな女性だ。
「マスターの好きな人の話を聞かせて?」
「うふふ、そうですね、どこからお話しましょう? でも私の仕事は自分のことを語ることじゃなくて、お客様の話に耳を傾けることなんです」
「あら、そんなこと言わずに。あなたのことも知りたいわ。それとも、あなただけのものにしておきたい大切な思い出なのかしら? それなら聞かないわ」
「そうですね。いつか話したくなったら聞いてくださいますか?」
リアナは微笑みつつ顔の前にグラスを掲げた。グラスに半分ほど残ったスカーレット・レターは揺れ、まだ溶けきっていない氷がグラスの中で涼しい音を立てる。
「ええ、もちろん」
それからリアナは、ゆっくりとグラスの中身をあけると、別の質問をした。
「あなたは、恋を別の言葉に言い換えるとしたら、なんて言う?」
「そうですねえ……憧憬、でしょうか」
「私は期待だと思うわ」
ルピナスは、ほう、と呟いた。
「期待したぶんか、それ以上を惜しみなくくれるひとに惚れてしまうのだと思う。それがどんどんエスカレートして、その危ういバランスが崩れた時が終わりなの。愛とは全くの別物よ」
「ええ、そうですね」
「愛とは捧げること、見返りを期待しないこと。そうでしょ?」
「どちらが優れていると思いますか? 愛でしょうか?」
「どちらも優れてなんかないわ。あなたも分かっているでしょ?」
「ええ。ですが、聞いてみたくて。なぜそう思われるんですか?」
リアナは、遠くを見つめるような目でグラスの向こうを見据えた。
「期待するのは間違いで、期待しないのは愚かだからよ」
フランツは彼女が帰ったあと、ルピナスを問いただした。
「リアナさんって、ああして話していると普通の方ですが、話を聞く限りでは艦長さん達の邪魔をしてるんですよね。 犯罪者ですよね? どうして放っておくんです?」
ルピナスは、フランツさん、ちょっとそこに座ってください、と指示した。カウンター内に座るところなど無い。フランツは仕方なく裏から折りたたみ椅子を持ってきた。
彼女は昨夜、フランツの正体も本名も知っていると明かしたが、その理由はまだ教えられないという。いずれ近いうちに知ることになるから、と。結局呼び名は本名ではなくフランツのままで、態度も特に何も変わらなかった。
「いいですか、フランツさん」
ルピナスは咳払いしてから左手を腰に当て、教師のように勿体ぶると、右手の人差し指をぶんぶん振った。真剣な表情をしているのだが、どこかオジサンくさくもあり、一方で子どもっぽくも見える。ちょっと可愛いので、フランツは必死で笑いを噛み殺した。
それに気付いた彼女は、急に汚物を見るような目つきになってフランツを見下ろし、続けた。
「私たちは常に中立でいなければなりません。この街のスタンスと同じです。対価を払われれば情報を提供しますが、同時に自分たちのことも敵に知られる可能性があると、皆さんは分かった上でご来店されています。最低限の自己防衛は自己責任でお願いしています。正義も悪も、あくまでどちらかの立場に立った場合にのみ語れるものなんですよ」
ルピナスは淡々とした口調で語った。
「対立を煽るのは本意ではありません。得た情報をどう使うかは得た人に委ねますが、私は根本的な争いそのものを止める為にのみ、情報を提供しているつもりです。そしてこの店にいる間は、荒事を起こさない限り、どんな方も平等な、ひとりひとり大切なお客様なんです」
彼女はもう一度、肝に命じてくださいねと念を押し、腕を組んだ。
「ですが、あのリアナさんって人は、めちゃくちゃ曲者です」
「犯罪者としてですか?」
「まあそうですが、それは脇に置いておきましょう。あの人は、期待以上を与えれば相手がもっと欲しくなると分かっていて、与えてはやめて飢えさせ、与えては飢えさせを繰り返しているんです。やれやれです」
眉間にシワを寄せつつ、ルピナスは首を横に振る。
「典型的な悪女ですよね」
「なんでああなっちゃったのか……まあ、少なからずレオンさんにも責任があるんです。どっちもどっちですよ」
「ええ? そうなんですか?」
「十年間も泥沼な感じで……いわばクレイジーに縋られ慕われ続けたら、どうですか? 自分の思うまま、相手の全てを支配できるんですよ? ちょっと感覚が狂うかもしれません。義弟相手の、いけない恋だから余計に」
フランツは、その言葉で、はたと思い当たった。
「あー……あれ? リアナさんが艦長さんのお兄さんの妻ということは……まさか、シャロンさんのお母さんって」
ルピナスは唇に指を当てた。
「御察しの通りです。でも、私たちは口を挟んではいけません」
「そうですか……そうですね」
「レオンさんは理性的な判断ができる人だと思ってたんですけど。まあ、恋はひとを狂わせますからね。特に、何かに飢えているひとは餌食になったが最後です。他の方と結婚したのに結局離婚してますし、仕事にも支障を来すようなのはね……、でも本人も分かっていてどうしようもないんでしょう」
そんなめちゃくちゃな恋が出来るのも少しばかり羨ましいです、と付け加えてルピナスはフランツに背を向けた。
「師匠って……いえ、なんでも」
「何ですか?」
「時々、親くらいの年齢の女性と話してるんじゃないかと思うんですが……」
突然、足の指を思い切り踏みつけられ、フランツは悲鳴を上げた。ルピナスは幼さの残る顔に凶悪な笑みを浮かべ、一回り近く歳上の弟子を見下ろした。
「フランツさんは、せめて一人くらい女性を落とせるようにならないとですよ。私の勘が、あなたは彼女いない歴イコール年齢だと告げています。アメリーさんの件はノーカウントです。せっかくお母様からいただいた美しいお顔が駄目になる前に、頑張ってください」
「分かりました、すみません、もう言いません、だから足を退けて」
「そういえば」
彼女はフランツを無視して踵をぐりぐりと押し付けつつ、さらに凶悪な笑みを浮かべた。
「あなたにとっても、懐かしい……というほど時が経っていませんが、明日、とあるVIPの方の予約が入っています。楽しみにしていてくださいね、フランシス」
今夜のBGMはUtada Hikaru/Too Proud(Remixed by YOSHIKI)です。
投稿時書き忘れていました!




