ABT5. クイーン・オブ・ホワイト (3)
いくら酒に酔わないといっても、さすがに五杯もアルコール度数四十パーセントの酒を飲むと、脈拍数がかなり上がる。が、頭は逆に冴えていた。
「あらシャルル、ちょっと顔が赤くなってるわよ」
そう言うアメリーは既に頬を赤く染めていて、カウンターに体重を預け始めている。フランツが水を出すと、敵に塩を送ってどうするのと言いつつ、唇をつけた。
ルピナスは、他の客が来るか勝負がついたら教えるようにと言って、カウンター裏の部屋に籠もっている。
「それで、決めたの? 勝ったらどうしてほしいか」
「うーん……」
「思いつかないなら、私が決めてあげるわよ。あの頃と同じでいいじゃない」
フランツは潤んだ灰色の瞳を見下ろした。
「人妻にそれは、まずいですね」
「そうね。でも他に思いつかないでしょ?」
「じゃあ、今度来るときに地酒でも持って来てくださいますか? お代はもちろん出すので」
「そんなのでいいの? つまらなくなったわね」
「アメリー、夜に一人でこんな遠くまで出歩いていて大丈夫なんですか?」
「急に何? まだ子どももいないし、今日はあの人、帰ってこないわ」
「退屈なのはわかりますが、人の道を踏み外さないでくださいね」
アメリーは気怠げにため息をついた。
「お説教? 上流階級じゃ不倫は普通よ。好きでもない人と結婚するんだもの。あなたはいいわね。三男でも資産はそこそこあるし、働くか働かないか、結婚するかしないかも選べる」
フランツは黙り込んだ。王国の女性の社会的地位は、一部の職業を除き、結婚以外ではほとんど保証されていない。
「外で働いている方が、まだマシよ。あなたに言ったって仕方ないけど」
黒のビショップが紅い爪に弾かれて倒れる。フランツは自分のグラスに六杯目のウオッカを注いだ。唇をつける。舌が痺れてくる。
「涼しい顔して飲んじゃって、むかつくわ。あなたの綺麗な顔もむかつく」
「綺麗じゃないです。綺麗なのはアメリーの方です。前よりもずっと」
彼女は一瞬、表情を変えた。うまく形容できないが、口にすべきでない言葉だったことだけは理解できた。それでフランツは、すかさず付け加えた。
「客観的な事実を言っているだけですが」
「そういう所もむかつくのよ。だからあなたは女に避けられるの」
フランツは、「そうですね」と言って空になったグラスを置くと、静かに白のナイトを取った。
「あ……この………」
「今日はマスターに、減らず口って怒られました」
アルコール度数が低い発泡酒の瓶を開けて、それを注いだグラスを差し出すと、アメリーは睨むような目つきをしつつ、それを受け取った。
「あなた、次の一手を指したらチェックじゃない」
「キングの分は飲まなくていいですよ」
「むかつく……」
「君は、もうこれ以上飲まないほうがいいですから」
アメリーは悔しそうに唇を噛むと、次の手を指した。
「その敬語、私の前ではやめなさいって言ったでしょ。忘れたの?」
「そんなこと、言ってましたっけ」
嘘をついた。だいたい、家の方針で敬語を使うように教育されていたので、こちらの方が普通なのだ。そう何度も説明したのに、忘れたのだろうか。白のキングを指先で弾くと、急に手首をぐいと掴まれた。
「ちょっと――」
バランスを崩したフランツはカウンターに手をつく。柔らかい感触が唇に触れた。それが何か理解するのに、アルコールの回った頭は時間を要した。すぐに離れようとしたが、ネクタイの結び目あたりを強く掴まれていた。
「何で、私を選んでくれなかったの? あなたなら、婚約なんて破棄させられたのに」
彼女の口からは到底出そうにない言葉に驚き、フランツは呆けた顔で、かつて惚れていた女を見下ろした。
「俺のことが好きだったんですか?」
「あなた、馬鹿じゃないの?」
「馬鹿って」
「あれだけ一緒にいて分からないなんて、馬鹿以外の何でもないわ」
「そんな素振り、全然見せなかったじゃないか」
「言わないと分からないの? もう遅いわよ」
彼女は涙など流さなかった。そういう強さも含めて好きだった。フランツが彼女の瞳の端から涙がこぼれるのを見るのは、これが初めてだった。
掛ける言葉に困り、ハンカチを差し出す。が、彼女はそれを受け取らず、目を閉じた。
「可笑しいわ。もうあなたは私のことを何とも思っていないのに、私のほうがあなたを忘れられないなんて。馬鹿みたい。会いたくなかった。なのに、またチェスを指せて嬉しかった。馬鹿は私ね」
彼女は水を飲み干すと、代金をカウンターに置き、帽子を被った。
「さよなら。元気でね、シャルル」
フランツはルピナスから、今日はもう上がっていいと言われ、着替えもしないままカウンターに突っ伏していた。水をかなり飲んだが、それでも頭痛がする。
「今夜はとてもドラマチックでしたねえ。こういうの、大好き」
ルピナスは、腹立たしいほど呑気な声でそう言った。
「やめてください。この件で揶揄われると、ダメージが大きすぎます」
「うふふ。あなたも色々あるんですね。いいものを見せていただきました」
瓶の蓋を開ける軽い音と、グラスを液体が満たしていく音が聞こえたので顔を上げると、ルピナスは「ノンアルコールです」と言いながら、グラスを差し出した。アメジスト色の液体は、グラスの底から微細な気泡を立ち上らせている。
「ハンチバック・オブ・ノートルダム。失恋の味ですよ」
「傷口に塩を塗るのが趣味なんですか?」
「やだなあ、師匠が精一杯慰めてあげてるのに」
ルピナスはカウンターに肘をついて、小ぶりな唇で笑みを形作った。フランツは目を逸らしてグラスに唇をつけた。ほろ苦く舌に残る後味、そして微かに上品なカシスの香りが鼻孔を抜ける。
「若いというのは、いいですねえ」
「子どもが何言ってるんですか」
「うふふ。まあ、若くなくなっても人間は恋をしますし、それはそれでまた別の味わいがありますから。これだからやめられないんですよね、バーのお仕事は。……ところで、シャルル」
年若いマスターは、オッドアイの両目をすっと細めた。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか? あなたの本当の名前」
フランツはグラスを掴んだまま、視線をカウンターに落とした。
「そんなものは、とうの昔に捨てました」
「ならば、当てて差し上げましょう」
その蒼と翠の瞳には、波のように揺れる間接照明の光が映って揺れていた。
「シャルル・フランソワ・ロラン。『冬将軍』ジョルジュ・ロランと、『傾城の眠れる美女』マリーを両親にもつ、ロラン家の三男。クリステヴァ王国聖務省附属研究院生で、スタンリー・コーネル教授の助手」
「マスター、ガリウスに聞きましたね? 俺がここに来たことは言わないと約束したくせに」
少女は、年齢にそぐわない微笑を浮かべた。
「いいえ? あなたの名前、あなたの経歴は以前から耳にしていました。電話したのは、彼のことですから、あなたの安否をさぞ気にしておられるだろうと思ったからです。そう、あなたはクリステヴァ王国が女王キャサリン二世の私設組織、機密局の局員。どんなに過酷で残酷な任務でも、必ず遂行し生還することからつけられたコードネームは、『氷の不死鳥』」
今夜のBGMはVa-11 HALL-Aボーナストラック・コレクションよりGaroad/Your Love is a Drugです。
実を言うと、この物語の舞台がバーになったのは、このゲームと某アプリゲームのコラボストーリーの完成度が非常に高く、かっこよかったからです。
本家のほうもやりたいけど、まだできていません。
私も、ふもふもドリーム飲んでみたい。