ABT5. クイーン・オブ・ホワイト (1)
ハロウィンの夜に、古ぼけたビルの屋上で美女メイドと男装の王子が決闘していたという噂は、歓楽街の一部でまことしやかに囁かれるようになった。その話は、新しい話題に飢えている街で少しずつ、しかし確実に広がっていったらしい。ついには、地元のいかがわしいオカルト誌が勝手気ままな妄想記事をでっち上げる始末だ。
マスターは、わざわざその雑誌を買ってきて、隠し撮り写真が大きく載っている見開きのページをフランツの眼前に突きつけた。
「まともな人たちの間では、イベントの余興か何かの撮影なのか、劇の稽古なのか……という話になっているようですが、この下らない記事では、『添い遂げられずに死んだ悲恋の恋人の亡霊が交わした愛の決闘』とかいう都市伝説に祭り上げられていますよ」
ルピナスは雑誌をフランツに押し付けると、腕を組んで半眼で睨んだ。
「その噂のせいで、用もないのにビルに入ってくる好奇心旺盛な人が現れて、非常に迷惑なのです」
「お客様が増えるなら、いいんじゃないですか?」
フランツは雑誌をゴミ箱に放り込むと、カウンターの隅に逃げつつ反論した。
「だいたい、俺じゃなくてシャロンさんのほうが勝負を挑んできて、あの状況では断れなかったんです」
「フランシス。前から思ってたんですが、その減らず口、口答えの癖を何とかしてください」
あれ以来、ルピナスは事あるごとにフランシスと呼んで揶揄ってくる。
「黙って立っていれば絵になるのに」
そう言いつつ、彼女は舞台女優のように大げさに肩をすくめて首を横に振った。
「マスター、そのフランシスというのは、やめてくださいませんか」
「いっそ女装メイド剣士のフランシスとして雇って差し上げても良いのですよ。そうすれば、そういう趣味の熱心な方が来てくださるかもしれません」
どうやら、けっこう怒っているらしい。大家にこっぴどく叱られたのだろうか。
「でも、うちは極力、一見さんを入れないようにしているんです。お客様の安全と個人情報のために。昔、色々あったんです」
ミドルティーンの彼女が昔と言うと違和感があるのだが、どうやらこの店は先代マスターから継いだものらしい。モニカが先日教えてくれた。
「……あのときは別の場所を提案すべきでした」
「そうです。まあ、しばらくの間、知らぬ存ぜぬで通せば、自然に忘れられるでしょうけど」
ルピナスに開店の札を掛けるよう指示されたフランツが緑色に塗られた扉を開けると、薄いピンク色の上品なワンピースを着た女性が一人、外で待っていた。黒いヴェールがついた帽子のせいで顔はよく見えないが、おそらく初めて見る客だ。
「ルメリ。お待たせいたしました」
彼女は会釈して扉をくぐった。
「アメリーさん、お久しぶりです」
ルピナスが声を弾ませた。帽子を取った女性は席に着くと、フランツのほうを振り返った。
「ええ。それから、久しぶりね、シャルル。驚いたわ」
フランツは我が目を疑った。雰囲気こそ昔と変わって洗練されているものの、そこに立って微笑んでいるのは、故郷の幼馴染かつ元同僚だったからだ。
「なんで君がここに……」
「そんな亡霊を見たような顔しないでよ。驚いたのはこっちのほう」
「んん? そうか、お二人は知り合いでしたか」
ルピナスは、ただならぬ雰囲気の二人を見比べた。間違いなく彼女の好奇心センサーは最大になっているはずだが、フランツは顔を背け、話す気はないと意思表示した。
「まあ、腐れ縁のようなものね」
肌も髪も瞳も白いアルビノの彼女は、青い光の中で非現実的な存在感を放っている。
「話は後にしましょ。いつものをお願い。そうそう、今日は面白い話を聞いたわ。屋上の決闘のことよ」
彼女は緩慢な動作でカウンターの椅子に腰を下ろした。ルピナスは渋面を作った。
「アメリーさんは口が堅いと信じて、真実をお話ししても構いませんが、つまらない話ですよ?」
「そうなの? じゃ、本当なのね」
「せっかくなので、フランシスから話してください」
ルピナスは、明らかに嫌そうな顔をしているフランツに、「テス・ダーバーヴィル、グラスに半分」と指示した。
「フランシス? シャルル、あなた、ここではそんな名前で呼ばれてるの?」
アメリーは含み笑いした。
「あの決闘は、俺とお客様の手合わせです。たいへん好戦的な方で、お断りできませんでした。以上」
「説明が足りないわよ、シャルロット。金髪のメイドはあなたでしょ?」
カウンターに肘をついたアメリーは、意地悪そうな目つきでフランツを見上げる。
「この目で見たかったわ。さぞ美しかったでしょう」
フランツは返事せずにグラスを差し出した。アメリーはフランツの手ごとグラスを掴んだ。ルピナスの視線が痛い。
「俺が自分の意志で着たわけではありませんよ。そこまで落ちぶれていません」
訊きたいことは山ほどあった。仕事を辞めたあと、どうしていたのか。故郷は今も変わらないままか。結婚生活は幸せか。
彼女は手を離そうともせず、白目の多い瞳でフランツを見上げている。その瞳は、昔と何一つ変わらない。獲物を獲って喰おうとしているネコ科を思わせる。
「アメリー、カクテルの温度が上がってしまうと美味しくありません」
今夜のBGMは、シューマン/おとぎの絵本 Op.113 第1楽章 Nicht schnellです。