ABT1. エメラルド・グリーン (2)
常に緊張を孕んでいる二大国、クリステヴァ王国と聖十字帝国の緩衝帯にある自由都市ティタンの歓楽街は、ここ数年で両国民の観光地として繁栄し始めた。出入国手続きは厳格で面倒なものの、国交が断絶された両国にとって、この小さな都市の果たす役割はけして小さくない。政治的には緩衝地帯として、異文化との出会いを求める両国民にとっては息抜きの場所として。
夜十時から明け方五時までの営業時間にこのバーを訪れる客は、常連か常連の連れだ。
ルピナスは出来上がったアルコールを青年に差し出した。
「ところで、ディアスさん、お元気ですか?」
「ええ。最近は忙しいからここに来られないと言っていました」
「そうですか。寂しいですねえ」
青年は笑った。少し緊張がほぐれたらしい。
「どうぞ、冷める前に」
「ありがとうございます」
彼は品のある動作でグラスを傾けた。ガリウス・ディアスは王国の役人だ。表向きは文化省の研究員だが、本職は『女王』直属の組織に属している。この青年はおそらく後者のほうの部下だろう。
「この都市まで辿り着いたはいいんですが、今後の行き先に困っているんです」
彼はため息をついた。
「頼るよう言われた先がなくなっていまして……それで宿がないんです」
「それは大変。戻りの手持ちはおありなんですか?」
「ああ……その方面では困らないんですが、戻れないんですよね、はは」
犯罪者には見えないが、やはり訳ありらしい。
「この街なら仕事さえ見つかればなんとかなりますが」
「そうですか。仕事……研究生活が長かったもので……」
「なんの研究ですか?」
「神学です。でも牧師を目指していた訳ではないので、仕事に繋がりませんね」
ルピナスは彼の手をじっと見つめた。ガリウスの部下であれば、ただの研究者のはずがない。
「とりあえずの間、糊口をしのぐということであれば、用心棒の空きがありますよ」
彼は眉を寄せてルピナスを見つめ返した。
「用心棒?」
「はい。うちの用心棒です。そこそこ地位のあるお方が来られますので……両国からも」
彼は部屋の隅で眠っている男性の方をちらりと見た。
「あの人は?」
「お客様です。用心棒は裏にいます」
ルピナスが指を鳴らすと、魔法のように現れた銃口から青年の眉間にポインターの光が伸びた。ルピナスが手をあげると、用心棒は闇の中に消える。
「失礼しました」
「一見の客に手の内を見せてしまっていいんですか? 私は犯罪者かもしれませんよ」
青年は全く動揺していない。
「これはリクルーティングなので」
ルピナスは微笑んだ。
「私の勘は当たるほうなんです。勘というのはデータの蓄積です。剣かナイフの名手とお見受けしました」
彼は年端もいかない十代半ばの少女の顔を、鳩が豆鉄砲を食ったような顔つきで見つめた。
「月給二十トリンで各種保険完備、武器や制服の支給と賄い付きです。厨房補助も出来ればありがたいです」
「いや……剣の名手?」
「もちろんこれは提案ですから、お受け頂かなくても大丈夫です。聖務省の研究院に長く在籍されていて、身なりも作法も言葉遣いもきちんとしておられる。それなりに名の通った王国貴族の方でしょう。それでディアスさんの部下であれば、その剣だこを見なくても想像がつきます」
彼は相好を崩した。
「迂闊に外を歩けませんね」
「ふふ、大丈夫ですよ。その外套を着ていれば分かりません」
「食うに困ったら考えさせてください」
「はい。でもお早めにお願いしますね。急募なんです」
彼は奥で寝ている客に再度目線をやった。
「あの、聞かれていないでしょうか?」
「あの人なら大丈夫ですよ」
ルピナスはそう言うと、奥の客に水を出した。
「起きてますよね、艦長さん」
艦長と呼ばれた客は顔をしかめ、ため息を吐き出すと、緩慢な動作でグラスを受け取った。
「今の話は内緒ですよ」
「ああ、頭が痛いから明日には忘れてるさ」
「はい、忘れてください」
彼は青年の方を見遣った。
「新規さんを口説くなんて、切羽詰まってるね」
「そうなんです。退役された方や仕事を探している方がいらっしゃれば教えてくださいませんか?」
彼は口元を緩めた。
「今はいないと思うけど、うちより条件が良いから、誰かに辞められると困るなあ」
「そんなことおっしゃらずにお願いします」
「うーん……。ミドルマーチ、オンザロック」
「まだ飲むんですか?」
「頭痛だけで酔ってない」
「はあ……また何かありましたね?」
彼がここに来るのは、女絡みの何かがあった日だ。青年は心配そうに艦長の方を見ている。
「聞かないでくれ」