ナットからの電話
「俺たちがあの家で爺さん婆さんとドンチャン騒ぎをしたから、太田虎彦に見つかったのだ。申し訳ない」
「いえ、私の顔と名前は彼らに知られています。私がきっと後をつけられたのでしょう」
飛馬とニーナが、互いに自分の責任だとしきりに反省する。
「いや、俺も空港のカウンターで、秋山の行き先を聞いたからいけなかったのだ。誰かに聞かれていたのかも知れない」
鉄平も肩を落として、元気がない。
「私もホテルではしゃぎ過ぎたよ。それに私が飛馬君になるなんて、土台、無理な話だったのね」
早奈が仲間入りしようとすると、鉄平が自信を持ってそれを否定した。
「いや早奈さんは見つかっていない。完璧に飛馬を演じきったと思うよ」
「えっ? どういう意味?」
「早奈さんを拉致すれば隼人さんへの脅しに使える。もし見つかっていれば太田虎彦が放っておくわけないよ」
真面目に言う鉄平の言葉に、早奈は複雑な表情を見せた。
ここに集まってから、全員が初めは悔しがり、そして今は落ち込んでいる。
チェンマイ行きは仕方ないとして、どうして偽装サボー村訪問計画まで太田虎彦たちにばれてしまったのか?
それは自分の責任ではないかと、全員が意気消沈しているのだ。
航空券やレンタカーの手配状況から、サボー村訪問を掴んだ可能性は考えられる。
しかし彼らは、それは偽装ではないかという疑いを持ったのではない。完全に偽装だと見破ったのだ。そうでなければ、今回の太田虎彦とタケチの動きは取れない。万が一、偽装でなければ、石松大吾に先にT737を奪われてしまうのだ。
隼人たちの情報が洩れている……。
その時、ナットから隼人に電話が掛かってきた。良い知らせと悪い知らせであった。
「どうした隼人さん、ナットは何と言ってきた?」
鉄平が聞く。隼人は良い知らせから言うことにした。
「鬼塚恭介の指紋照合の結果が出た」
「えっ? どういうこと?」
早奈は意味がわからないという顔をしている。
「あいつは殺された時、ポケットに鬼塚恭介のパスポートと運転免許証を持っていたから、タイ警察は日本大使館に身元照会をしたのだ。それで、すぐに鬼塚恭介ということがわかったのだが……」
隼人はナットに、タイ国内の指紋データベースとも照合するよう提案をしたのだ。
「そうしたら……、出た」
「何が?……」
「鬼塚恭介の指紋と同じ指紋を持つタイ人がいた。名前はバークリック・ファジョング。その男は、二十五年前に日本に渡り、その後、日本とタイを行き来している」
「どういうこと? 鬼塚恭介は、美奈の事件の時に、指紋照合で本人特定されているじゃない。その鬼塚の指紋がタイ人の指紋とも一致したって言うの?」
「そういうことだ」
隼人は説明を続けた。
隼人の仮説は当たっていた。鬼塚恭介の別人Yは、バークリック・ファジョングというタイ人だったのだ。いや、どうも逆で、バークリック・ファジョングの別人が鬼塚恭介だった可能性の方が高い。
今から二十五年前、バークリック・ファジョングというタイ人が日本に渡った。彼は日本で鬼塚恭介という日本人の戸籍を得た。
本物の鬼塚恭介は、パスポートも運転免許証も持っていなかったのだろう、バークリック・ファジョングは鬼塚恭介の名前でパスポートを取り、運転免許証を取った。多分、銀行の口座も開設し、住むところも鬼塚恭介の名前で確保したのだろう。
彼は、鬼塚恭介という名前で、今から十八年前に傷害事件を起こし、日本の警察に指紋を取られている。
昨年の美奈殺害の時、照合されたのはこの時の指紋だったのだ。また鬼塚恭介が殺された時、本人確認のために照合されたのもこの時の指紋だ。これで、鬼塚恭介の指紋を持つ、バークリック・ファジョングという男の死亡が確認されたということだ。
「逆はないのか? 日本人である鬼塚恭介が、タイ人のバークリック・ファジョングのIDを取得した、という可能性だ」
鉄平が聞いてきたので、隼人は「それは難しい」と答えた。
日本と違って、タイではID取得の時と更新の時に指紋を採取する。別人であればすぐにばれるのだ。
バークリック・ファジョングは、直近では二年前にIDの更新を日本でやっているが、その時の指紋は、四十年以上も前に採取されたバークリック・ファジョング本人の指紋のままだ。その時、鬼塚恭介はまだ七歳であり、この時点で、すでに鬼塚恭介がバークリック・ファジョングに成りすましていたというのは考えにくい。
「なんだか太田虎彦とかタケチの周りは、いつもややこしいね」
早奈は複雑な顔をしている。理屈はわかるが感情がついていかないのだ。
「そういうことか。隼人さん、かなり核心に迫ってきたな」
飛馬の言葉に全員が頷いた。
あとはタケチの別人X、太田虎彦の別人Zの名前だ。バークリック・ファジョングとしょっちゅう連絡を取り合っていた人物、バークリック・ファジョングに報酬を渡していた人物、そいつがXかZだ。そいつを表に引きずり出すのだ。どちらかがわかれば、もう一方は、芋ずる式にわかるだろう。あと一歩だ。
隼人は、次にナットからの悪い知らせを伝えることにした。それは最悪の知らせだった。
「T737が奪われた」
全員が驚いた顔で隼人を見た。
「奪われたって……、どういうことだ?」
いつも冷静な鉄平が、さすがにいきり立っている。
「石松大吾と落合真由美が逮捕され、太田虎彦は日本に帰った。これで事件はほぼ解決と思った警察に油断が生じたのかも知れない。今日の未明、警護の隙をついて、T737が奪われ、残った菌は燃やされてしまったようだ」
「チャイは、やはりT737の培養に成功していたのね」
「早奈、そうみたいだ。しかし、全て灰になってしまった」
タケチの狙いはこれだったのだ。
石松大吾と落合真由美に美奈殺害事件の罪を着せ、鬼塚恭介の殺害も、今回の偽装サボー村襲撃も全て二人の仕業と思わせる。わからないのは誰が石松大吾と落合真由美を襲ったのかという点だけだ。しかしそれは石松大吾と落合真由美の回復を待って、二人の証言を取れば、いずれわかるだろう。そう思わせてT737の警護に油断を生じさせたのだ。あごを叩き割って証言出来ないようにしたのは、そのための時間稼ぎだ。殺してしまうと警察による犯人の追及が格段に厳しくなる。
「しかし、なぜタケチは、T737がサボー村にあることを知ったのだ?」
鉄平が隼人に突っかかるが、それは隼人にもわからない。ただし、それがわかったところで、もう後の祭りだ。
「隼人さん、終わったな。T737を奪われては万事休すだ」
飛馬が残念そうに言った。
「そうだな。もう奴らは俺たちの前には姿を現さない。後はT737を金に換えるだけだ。取引現場を押さえても、T737を奪ったという証拠は何もない。どうしてサボー村のことを知ったのかなんてことは、もうどうでもいいんだ」
鉄平の顔は悔しさでいっぱいだ。
T737には三十億円の値がついている。奪った菌を金に換えれば、もう隼人や鉄平たちの前からは永久に姿を消すだろう。全員が肩を落とし、残った酒を一気に飲み干した。