旭村での出来事
今日は十二月二十二日。明日は、いよいよサボー村訪問という日だ。
午前中に、京都府警の浅井和宏が、タイ警察のナットを連れて隼人を訪ねて来た。浅井和宏は前日の深夜便で日本を発ち、早朝にタイに着いたばかりだったが、どうも上層部をうまく説得したようで、機嫌が良かった。
「いろんなことがわかったぞ」
浅井和宏は、旭村で起こった事件を調べてくれていた。
早奈は気分が悪いらしく、部屋で寝ているので、十二階のラウンジで話をすることにした。
「旭村は、京都府北部の福井県との県境にかつて存在した小さな集落だ。もう四十年近くも前の話だが、その村に武智楓太という少年がいた。太田虎彦も少年時代をその村で過ごしている。二人は同い年だ」
浅井和宏の聞き取りによると、その村には柳史郎という、やはり同い年の少年がいたそうだ。
柳史郎は、その集落の中でも比較的裕福な農家の一人息子、武智楓太は、その家の使用人の息子だった。太田虎彦は、東京に住む父親の太田虎之助からなぜか疎まれており、旭村でやはり農業を営む母親の実家に預けられていた。
柳史郎は勉強が出来たが、ひ弱で気の弱い少年であった。武智楓太は気性が激しく、年長者に対してもよくケンカを仕掛けていたという。太田虎彦は温厚で口数の少ない少年であったが、三人は同い年ということもあり、また、互いに気が合ったのか、いつも一緒に遊んでいたそうだ。
そんな彼らに、ある時、転機が訪れる。三十八年前のことだ。
中学を卒業して一週間ほどが経った頃、突然、柳史郎の父親が事故で亡くなった。普段から酒癖の悪い史郎の父親は、酔っぱらって自宅の階段から転げ落ちたそうだ。母親の明子と息子の史郎が外出中の出来事で、打ち所が悪かったのか、発見された時にはもう亡くなっていたそうだ。
柳史郎の母・明子は、その後、柳家の田畑を売り払い、知人を頼ってアメリカに渡っている。ロサンゼルス郊外に居を構え、柳史郎と二人で資産を食い潰して生計を立てていたが、面倒を見る人間がいたのか、生活は派手だったそうだ。
柳史郎は、現地でハイスクールと大学を卒業したが、二十三歳の時に母親を残して単身帰国し、洛西大学の大学院に進学している。母親は、その後もアメリカで一人暮らしていたが、三年前に病死した。
一方、武智楓太は、柳史郎の渡米とほぼ同時期に家を飛び出し、行方がわからなくなっている。旭村のある住人は「あの少年は、いずれ家を飛び出すのではないかと周囲から思われていた」と語っている。
武智楓太が再び、旭村に顔を出すのは、それから八年後だ。ある日突然、村に現れて、太田虎彦と一緒に会社を立ち上げたと村の住人に言いふらしていたそうだ。
「その会社の名前はOT興業という」
浅井和宏は突然、隼人もよく知っている会社の名前を口にした。
「ちょっと待ってくれ、浅井さん。OT興業っていうのは、太田虎彦の父親の太田虎之助が立ち上げた会社じゃあないのか?」
隼人は浅井和宏に突っかかった。
「まあ、最後まで話を聞け」
浅井はそう言って、話を続けた。
会社登記簿によると、OT興業は確かに三十年前に武智楓太と太田虎彦によって設立されている。代表は太田虎彦だ。武智楓太は出資金を出しただけで、経営には参画していない。
太田虎彦は、柳史郎と武智楓太が村を出た後も一人旭村に残り、その後、東京の大学を卒業して、すぐにOT興業の代表に収まっている。出資金二億円の出元は百パーセント、武智楓太である。
この会社の実体は掴めない。ただ、当時の急激な円高とデフレをうまく利用し、株と不動産投資でぼろ儲けをしたことだけはわかっている。詐欺まがいの企業買収にも手を出していたようだが、詳細はわからない。
OT興業が、表舞台に顔を出すのは、さらにその七年後だ。太田虎之助が社長に就任し、本社を麹町に移し、従業員も大量に雇って、石松フーズの業務請負会社として生まれ変わっている。表向きの設立日はこの時だ。武智楓太は今でもOT興業の大株主だが、従業員で顔を見た者はいないと言う。
浅井和宏は、ここでいったん話を切った。
隼人はじっと考えている。
頭の中をよぎるのは、鉄平の会社乗っ取り劇の話だ。鉄平の祖父の創った小矢部輸入食品株式会社の乗っ取りには、一点、腑に落ちない部分がある。
鉄平の母・小矢部千恵子と祖母・小矢部清美を脅し、株式を手放さなければ倒産必至と思い込ませた闇金融の存在だ。その闇金融は、二人から安値で株式を譲り受け、それをただ同然の価格で石松三郎に渡している。
小矢部千恵子と清美が株式を闇金融に譲り渡すと言っても、さすがにただで、というわけではないだろう。それ相応の対価を要求したはずだ。当時の小矢部輸入食品株式会社の売り上げは五十億円を超えており、経営も順調だったようだ。企業価値は安く見積もっても五十億円、そこから借入金を差し引いて、譲渡価格は最低でも二、三十億円といったところか……。それ以下であれば、わざわざその闇金融に会社を渡さなくても、小矢部輸入食品株式会社の経営を引き受けてくれる資本家は他にもいただろう。借入金を全額返済しても、その金額であればお釣りがくる。
では、その闇金融は、いったいどうやってそれだけの資金を調達し、そして、どうやってその金を回収したのだろうか? 隼人は鉄平の話を聞いて、そのことがずっと頭の中で引っかかっていた。
OT興業という会社が、小矢部輸入食品株式会社の乗っ取りとは関係なく、それ以前より存在し、会社乗っ取りとほぼ同時に石松フーズの業務請負会社として生まれ変わったという今の浅井和宏の話を聞いて、隼人には、ある仕組みがぼんやりと見えてきた。
その闇金融というのは、OT興業に違いない。
OT興業は、まず安く買い叩いた土地を石松三郎に新店舗建設用の土地として法外な高値で買い取らせ、そこから得た利益と一部OT興業の持ち出しで、株式の買取り資金を賄った。もちろん、その土地代金の支払いは、石松三郎ではなく、小矢部輸入食品株式会社である。
そして、OT興業が小矢部千恵子と小矢部清美から株式を買い取り、それをただ同然の価格で石松三郎に売り渡す。
石松三郎に渡した株式の対価は、新たにOT興業と石松フーズとで業務請負契約を結び、代金を水増しして、石松フーズからOT興業に毎年振り込ませる。表向きには契約単価が他社より高いだけである。資金の回収に時間はかかるが、これだと目立たない。そのため石松フーズの業務請負会社として生まれ変わったのだ。
問題は、正規の業務請負会社としての体裁と実体をOT興業にいかに身につけさせるかという点である。それは武智楓太にも太田虎彦にも難しい。そこで、石松フーズの業務に精通している太田虎之助をOT興業の社長に据え、業務請負会社としての表の仕事は全て彼に任せた。もちろん太田虎之助は、武智楓太と太田虎彦にあごで使われる操り人形である。
こう考えると、あの乗っ取り劇の裏の構図がはっきりと見えてくる。このストーリーを描いたのは、太田虎之助ではない。武智楓太だ。OT興業のOTは、太田虎之助のイニシャルではなく、太田と武智のイニシャルを合わせたものだったのだ。
武智楓太は、ここでもいっさい表には顔を出さない。会社の役員ではなく、オーナーとして裏で会社を操っている。太田虎彦の部屋にはよく出入りしているようだが、従業員にもそれが武智楓太だとは気づかれていない。恐らく、株主総会にも代理を立てているのだろう。
武智楓太とは、いったい何者なのだ?
OT興業設立の際、なぜ彼は二億円もの出資金をポンと出せたのだ?
隼人がじっと考えていると、浅井和宏が、再び口を開いた。話の続きがあったのだ。
「柳史郎の母親は、渡米する前に柳家が持っていた土地の大半を売り払っている。ただし、住んでいた家とそれに隣接する一部の土地だけは、どういうわけか残しているんだ。武智楓太の両親が、しばらくその面倒を見ていたが、不思議とその家と土地を八年後に太田虎彦が買い取っている」
隼人は意味を図りかねていた。
「そしてなあ、隼人。多岐川正一郎さんが、二十一年前に、初めてセルロースを分解する菌を見つけた場所っていうのは、太田虎彦が買い取った、その土地なんだ」
隼人の頭の中に衝撃が走った。いったい、これは何を意味しているのだ?
「それとなあ、隼人。アメリカに渡った柳史郎だが、その後は母方の姓を名乗り、名前も変えている。姓は和賀寺、名は永昌だ」
和賀寺永昌……? 洛北大学エネルギー科学研究所の教授である。彼も多岐川正一郎がセルロース分解菌を発見した旭村の出身で、武智楓太や太田虎彦とは幼馴染みだったのだ。隼人はますます混乱してきた。これは、いったいどういうことなんだろう?
「今、わかっているのはここまでだ。京都府警の若手が、さらに詳しい調査に入っている。そのうち、何かもっと詳しいことが、わかるかも知れん」
武智楓太の両親もすでに他界しており、本人たち以外に一連の出来事の内情を知っている者はいないと言う。浅井和宏も、これらの出来事が、美奈殺害事件とどのように関係するのか、考えあぐねているようであった。
隼人は、明日からのサボー村訪問について、浅井和宏とナットに相談した。
隼人にはどうしてもチャイに会って確認したいことがある。そのために、明日からのサボー村訪問を計画したのだ。しかし、それは取りやめることにした。
鉄平と飛馬に新しいコブラの拠点がチェンマイだと聞き、隼人たちの訪問が彼らにばれているのではないかと危惧したためだ。それと、コブラの再結成が思ったより早かった。
隼人は、代わりにある計画を思いついた。偽装サボー村訪問計画である。
その内容を二人に話し、入念な打ち合わせを行った。浅井和宏とナットは、隼人たちの安全を十分に確保するという条件で賛成してくれた。
最後に、隼人はナットにあることを頼んだ。
「ナット。悪いが、なるべく早く、こっそりとチャイに会いに行ってくれないか? 本当は俺が行ければ良いのだが、しばらくは無理みたいだ。俺の代わりにサボー村に行って、彼にあることを相談してもらいたい。これを言いに来たと言えば、あいつは必ず話に乗ってくると思う」
隼人が伝言の内容を話すと、ナットは快く了解し、「すぐに行く」と言ってくれた。