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亡霊のたくらみ  作者: 長栄堂
第七章 首都警察にて
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浅井和宏の腹括り(二)

 以下は、隼人が浅井和宏とナットことラムセンクライ・ウォンバークルに話した内容である。

 十四年前の一月二十日、多岐川美奈と早奈の父・多岐川正一郎が、NPO法人『こぶし』の職員である小矢部健司に連れられて、タイ北部のミャンマーとの国境近くにあるS村を訪問した。バンコクを車で出て五日目、良く晴れた日であった。

 用件は、S村で定期的に田畑に発生し、村に甚大な被害を生じさせている悪質なカビの防止法を見つけるためである。

 多岐川正一郎は一目見て、それが新種の菌によるものであり、山の湧水に原因があるとみて、水源を変え、水質を管理することでカビの防止に成功した。

 さらに多岐川正一郎は、このカビが強力なセルロース分解能を持っていることを突き止めた。セルロースとはあらゆる植物質の約三分の一を占める食物繊維のことである。

 化学的に極めて安定な炭水化物であるが、これを工業的に安価な方法でブドウ糖などの単糖に分解出来れば、バイオ燃料としての用途が大きく広がる。人類が直面するエネルギー問題に対して、展望を開くことが出来る画期的な発見だった。

 彼はその七年前にも京都府北部の山村で、同種の菌を見つけている。この時は公開実験の時に、ある人物Aに菌をすり替えられ、さらに山村に自生していた菌も焼却されている。それ以来、同種の菌を求めて世界中を放浪し、やっと探し求めていたものに七年振りに出会ったのだ。

 彼はS村に約三年間滞在し、自らの研究所を村に設立して菌の研究に没頭した。そして遂に、セルロース分解菌には二種類が存在し、その二種類をある割合で掛け合わせることで、最高の能力を持つ新しい菌が生まれることを明らかにした。

 彼はその菌に、T737という名前をつけた。この菌は培養が難しく、特殊な条件下で培養しないと短時間で死滅する。彼は時間をかけて、T737の培養条件を明らかにし、そのノウハウを研究ノートに書き残した。このノートは多岐川ノートと呼ばれ、多岐川正一郎が亡くなった時にチャイが美奈から借り、昨年、京都のムアン・サボーで美奈に返したノートそのものである。

 十一年前の四月、多岐川正一郎は三年に亘るS村での研究を終え、研究拠点をバンコクのタイ自然科学大学に移すことにした。T737も大学に持ち込んだ。大学の試験評価部長ナタポーンの話によると、T737はタイ自然科学大学でも順調に培養され、優れたセルロース分解能を示したとのことである。

 事故はその年の九月十八日に起きた。多岐川正一郎とその妻小百合、そして小矢部健司が乗った乗用車が、チェンマイの小矢部家に向かう途中で大型のトレーラーとぶつかり、三人は帰らぬ人となった。この時、そのトレーラーを運転していたのは、鬼塚恭介である。隼人と早奈は、この事故もある人物Bによって仕組まれた偽装殺人だと考えているが、動機はわからない。どうも菌を奪い取ろうとしたのでは、なさそうである。

 この直後、タイ自然科学大学では、伊崎睦夫が多岐川正一郎の残したT737の評価を二回行い、二回目の結果だけを大学に報告している。菌がすでに死滅し、セルロース分解能を示さなくなった結果のみを報告したために、多岐川正一郎の業績は完全に消されてしまったが、この時、多岐川正一郎の意思を受け継いで、自分たちでT737を新たに創り出そうとした人物がいた。S村のスーとチャイである。S村での多岐川正一郎の研究を三年に亘って支えた人物であり、彼らはまた、菌の培養には、多岐川ノートに記載された培養ノウハウや、多岐川正一郎が残した実験データの参照が必要なことを知っていた。

 彼らは多岐川美奈に頼み、多岐川ノートを借り受けた。恐らく、実験データもコピーさせてもらったのだろう。

 それから約十年が過ぎた昨年の十一月十二日、成人したチャイは、美奈と早奈の住所を聞きに、タイ自然科学大学微生物研究所を訪問している。その時、彼は多岐川ノートを美奈と早奈に返そうと思っていることを研究所の事務員ならびに伊崎睦夫に話している。

 その情報を何らかの方法で入手した人物Cは、美奈と早奈に尾行をつけ、チャイがどちらかに接触すれば、すぐに連絡が入るように手配をした。

 昨年の十二月七日、チャイは美奈に会って多岐川ノートを返却した。何か、美奈と早奈に伝えたいこともあったようだ。しかし、その情報は即座にCに入り、Cはその日の深夜に美奈を殺害した。その時、Cは多岐川ノートと多岐川データのコピーを盗んでいる。

 Cはまた、早朝にはチャイが身を寄せていたムアン・サボーを放火し、店長スーを拉致・殺害し、チャイをタイに帰らせた。チャイを尾行し、T737の在りかを探り出すためであったが、チャイが京都府警の三条署に駆け込んだため、この尾行は失敗している。

 昨年の時点でT737には三十億円の値が付いている。条件はT737の現物を引き渡すこと、その培養方法を記した多岐川ノートと実験データを揃えること、この三つである。多岐川ノートとデータを手に入れたCの次の狙いは、T737の略奪である。

 T737がどこにあるのか、なかなか情報が取れないCは、ある時点で考え方を大きく変えた。自らが探すのではなく、隼人と早奈にS村を探させ、T737の在りかを知ろうとしたのである。Cは恐らく、隼人と早奈の動きをこのタイでもじっと観察し、S村の所在地がわかるや否や、一気に襲い掛かってくるものと思われる。

 なお、隼人と早奈の考えでは、人物A、B、Cは、全て同一人物で、東京の麹町に本社を置くOT興業という会社の専務取締役・太田虎彦とその友人のタケチという人物の二名である。実際の犯行は全てタケチが企てて実行している。

 この二人と落合真由美との関係や、落合真由美が鬼塚恭介を殺害してその罪を隼人と早奈になすりつけようとした理由はわからない。ひょっとすると、太田虎彦やタケチとは別のグループが動いているのかも知れない。

 以上が、自分たちが調べた美奈殺害事件についての全てである。

 今日は、これを説明するためにここに来た。

 隼人はここまでを一気に話した。


 浅井和宏もナットも正直言って驚いた。隼人と早奈が、ここまで事件の詳細を調べているとは思っていなかったのだ。どう考えても作り話とは思えない。よくぞ、調べたものだ。

 何より驚いたのは、一連の事件の黒幕を太田虎彦とタケチという人物に特定していることだ。彼らにどのようにしてたどり着いたのか、浅井和宏は隼人を問い詰めたが、答えなかった。証拠はあるのかと聞くと、証拠はないが確信はあると答えた。

 また、十一年前の多岐川夫妻と小矢部健司の交通事故が太田虎彦とタケチによる偽装殺人だという発想や、二十一年前の公開実験の際の菌のすり替えも二人の仕業だという発想も浅井和宏にはなかった。

 浅井和宏は隼人をじっと見つめた。彼は説明を終えた後、一言も発しない。黙ったまま、浅井和宏にじっと視線を向けている。

 なぜ何も言わないのか? 浅井和宏は考えた。

 隼人たちは、決して警察を非難するためにここに出向いて来たわけではない。

 美奈殺害直後、警察は隼人と早奈を容疑者扱いしたことがある。隼人も早奈もそのために職を失っている。しかし、そういった警察の対応を責める言葉を、これまで彼らから聞いたことは一度もない。

 一方、彼らは警察に容疑をかけられても、それを否定する言葉を発したことも一度もない。普通、警察に疑われると、ある者は怒り、ある者は必死になってそれを否定する。浅井和宏はこれまで、隼人や早奈のそういう姿を見たことがなかった。それが捜査に必要なことであれば、どんどんとやれば良い。ただし、腹だけは括れよと、まるでそう言いたげな様子で、いつも聞かれたことに淡々と答えるだけだ。

 強い者に依存せず、おのれの世界を築いて、おのれの知恵と工夫だけで生きてゆく。隼人や早奈からは、そのような強い意志をずっと感じていた。恐らく、彼らを育てた茜というばあさんの教えなのだろう。浅井和宏はそんな隼人や早奈が好きだった。

 隼人と早奈が何も言わないのは、浅井和宏の腹の括り様を探るためだ。何かを浅井和宏に頼みたいが、組織の意向を優先するような人物であれば頼めない。それだけ難しい事件だということだろう。浅井和宏としても望むところだった。

「わかったよ。俺はいったん日本に帰るが、すぐにここに戻ってくる。話はそれからだ。隼人も早奈も、それまでは無茶をするな」

 浅井は嬉しそうに言った。ナットが驚いた顔をして浅井和宏を見る。

「必ず戻って来る。もし、日本の警察をクビになったら、タイの警察で雇ってくれ」

 何かが吹っ切れたような、さっぱりとした顔をして、浅井和宏が笑いながら言った。

 浅井は愉快だった。こんな愉快な気持ちになったのは久しぶりだ。

 隼人がやっと重い口を開いた。

「浅井さん、すまん。京都の北部にある旭村という集落で起こった事件を調べてくれ。多分、三十年以上も前になると思うが、タケチという人物が関係した事件が、その村で起きているはずなんだ。頼む」

 浅井和宏は気持ち良く、了解した。


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