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亡霊のたくらみ  作者: 長栄堂
第六章 コブラの襲撃
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バンコクの夜(三)

「ねえ、今日はこのままバンコク見物をしない?」

 早奈がいきなり方向違いのことを言い出した。

「運試しの続きよ。怖がってばかりいたら、運が逃げてしまうんじゃない?」

 自分たちが狙われていることを、早奈は百も承知で言っている。早奈にスイッチが入ったなと隼人は思った。

「見つかれば、その時はその時よ」

「ああ、そうだ。まずは王宮からだ……」

 早奈と隼人はトゥクトゥクと呼ばれる三輪タクシーに乗った。二人が道で地図を見ていると、運転手が声をかけてきたのだ。隼人が王宮に行きたいと地図を指差すと、運転手はしきりに何かを言いだした。

 料金のことを言っているのか、行き先のことを言っているのか、早奈も隼人もさっぱりわからない。「ワップラケー」と言っているようにも聞こえる。

 とにかく、ここに行ってくれと地図を指差して言うと、運転手はまた同じことを言う。

 今度は紙に何かを書いて渡してきた。多分、料金なのだろう、決して高くはないし、交渉する元気もない。それで了解した。

 少しして、隼人は気がついた。

「そうか、ワット・プラケオと言っていたのか」

 隼人は今頃、運転手が何を言っていたのかがわかった。

 一七八二年、今に続くラッタナコーシン朝の開祖チャオプラヤー・チャックリーことラーマ一世が、この地を王都と定め、王が住む王宮と、宗教的儀式を行う王宮内寺院・ワットを同じ敷地に作った。その寺院は名をワット・プラケオ、別名エメラルド寺院と呼ばれ、タイでは最も格式の高い別格の寺院となっている。

 観光名所としては、王宮とワット・プラケオはセットになっており、王宮を指差された運転手は、『ワット・プラケオに行くのだな』という確認をしたのだ。

 何度も確認したが、早奈と隼人がわからない様子だったので、やがて諦めて料金だけを提示して、とりあえず走ってみることにした、ということなのだろう。隼人はやっと理解した。

 早奈は初めて乗った三輪車に揺られながら、流れる風景を楽しんでいる。

 トゥクトゥクは快調に走る。オートバイを改造したのだろうか、狭い道を器用に走り抜け、いくつかの運河を渡ると、やがて『王宮&ワット・プラケオ』の入り口に着いた。

 白い広大な壁がどこまでも続き、遠くには王宮内建築物の屋根が見える。

「小銃、持ってるよ」

 入り口には衛兵なのだろう、小銃を持った兵士が立っている。

「彼は俺たちを捕まえるのが仕事ではないから、大丈夫だろう」

 そう言いながら、二人は中に入った。

 広大な敷地にどこまでも芝生が広がる。緑が鮮やかで目に優しい。朝からの殺伐とした二人の心の中に、気持ちの良い爽やかな風が吹き抜けた。

 敷地の中には、金色の仏塔があり、本堂があり、王宮があり、他にも様々な建物が並んでいる。早奈と隼人は順路に従って見て回った。

 やがて本堂が見えてきた。裸足になって中に入ると、彫り物で飾られた長い廊下があり、その先に翡翠で出来たエメラルド仏が祀られていた。思ったより小さいが、美しく、威厳がある。早奈も隼人も手を合わせた。

 次に王宮内の敷地に入ったが、少しすると閉館の時間となった。考えてみれば、もう夕方なのだ。

 今日も朝早くから色々なことを経験した。

 いきなり鬼塚殺しの犯人にされ、警察に逮捕されそうなところを間一髪、ニーナの友達のアパートに逃げ込み、そこを怪しい男たちに襲撃され、山森飛馬に助けてもらい、不思議な縁の小矢部鉄平に会い、そして近江屋の俊子さんに電話をして、今、バンコク市内を観光している。本来なら、今頃はチャイのいるサボー村を訪問しているはずなのに……。

 二人は王宮を出て、ぶらぶらと歩くことにした。

 ゆったりと流れる大きな川に出た。まさに大河というに相応しい。チャオプラヤー川である。

 バンコクに王都が築かれる前、この川を船で行き来する西洋人が、川岸にマコークの木が多く生えているのを見て、この地を『マコークの生える村=バーンマコーク』と呼んだ。それが訛って、バンコクという地名になったという。

 しかし、今でもバンコクというのは、外国人が使うこの都市の英語名であり、タイでの正式名称は、『クルンテープ・マハーナコーン・アモーン・ラッタナコーシン・マヒンタラアーユッタヤー・マハーディロックポップ…………』と修飾語が延々と続く、他に類を見ない壮大なものである。

 早奈と隼人は川辺に立ち、茶色に染まった川を眺めた。

 ほぼタイ全土にその支流を張り巡らし、この地に広大で肥沃なチャオプラヤーデルタを創り込んできた大河である。その雄大でゆったりと流れる様を見ていると、長い歴史の中のその一瞬を、確かに自分たちも生きているという実感が、身体中を走り抜けた。

 夕方とはいえ、まだまだ陽射しは強い。しかし、バンコクに来て丸三日が経ち、暑さにも慣れて来た。真冬の日本からいきなり南国に来たので、暑さに弱くなっていたのであろう。真夏の日本よりはかなり涼しい。爽やかな初夏と言ったところだろうか。

 また、ぶらぶらと歩き始めた。

 至る所にワットがあるが、今日はもう全て閉まっているようだ。

 どれくらい歩いただろう。次第に街並みが賑やかになり、人通りも多くなってきた。飲食店がずらっと並んでいる。二人は目の前に現れたタイ料理のレストランに入った。

「タイと言えばトムヤンクンだ」

 言葉は通じないが、身振り手振りで、なんとかトムヤンクンと、何種類かの単品料理をオーダーした。

 部屋の中は寒いくらいに冷房が効いている。汗だくになっている二人には、冷たい風が今は心地良いが、もうすぐ寒くなってくるのは間違いない。また身振り手振りで店と交渉し、小さなブランケットを借りることに成功した。

 料理は一言でいうととても酸っぱい。パクチーやレモングラスと言った香草を煮込んで、それで徹底的に味付けしている。隼人はあまりに強い香草の味に少し閉口したが、早奈は平気でパクパクと食べている。

 すっかりと夜も更けてきた。店を出て、また歩いた。言葉の通じない異国の街にももう慣れた。次第に気持ちが大きくなってきた。何と言っても、俺たちゃあ、もうすぐ容疑者なのだ。

 どこから出てくるのか、人がどんどん増えてくる。通りにはショーパブがあり、ゴーゴーバーがあり、カラオケも並んでいる。

 クリスマスツリーを象ったLEDが、道のあちこちに華やかな光彩を放っている。夜が更けるにつれ、それらが次第に怪しげな光に変わってゆくような錯覚にとらわれた。

 少し歩くと、賑やかな屋台街に出て来た。

 電球が煌々と灯り、財布にベルト、バッグに置物、ありとあらゆる雑貨品や装飾品が店先に並んでいる。

 ここはどこだと観光客らしい西洋人に聞いたら「パッポン」と答えた。これがパッポンのナイトバザールか……。

 小一時間もいただろうか、結局、早奈も隼人も何も買わなかった。見ただけだったが、それでも十分満足した。

 二人はそれから近くのショーパブに入った。何のショーかわからない。若い女性も大勢いるので、早奈を連れて入っても大丈夫だろうと隼人は思った。

 二人は中二階の席に案内された。とにかく、文字も話し言葉もさっぱりとわからない。

 前を見るとステージがある。やがてスポットライトが点き、まぶしい光を浴びた若い女性が、五人ほど賑やかに踊りだした。

 聞いたことのない音楽が大音量で流れだす。早奈が何か言っているが、音にかき消されて何も聞こえない。

 少しすると、女性たちは客席に降りてきて、隼人たちの近くでも踊り出した。客がチップを渡している。隼人も札を一枚折りたたんで渡した。どうもチップを渡すまでステージに戻ってくれないみたいだ。

「早奈。彼女たちは、もとは男だ」

 隼人は大きな声で早奈に言った。


 早奈と隼人が鉄平のマンションに帰ってきたのは、午後十一時。それから順番にシャワーを浴びて寝ることにした。

 寝室を早奈が使い、隼人はソファで寝ると言ったが、早奈は「私もソファがいい」と言った。大きなL字型のソファで二人でも十分に眠るスペースはある。

 何かあった時に、すぐに行動に移せるように、傍にいてくれと言うことか……。隼人はそれもいいかと思い、毛布をかぶって先に横になった。

 どういうわけか、鉄平の父親・小矢部健司のことが頭をよぎった。

「ここにも同じタイプの人間がいる」

 小矢部健司も会社を乗っ取られた後、家族を連れて海外で農業指導を行うという選択を行った。司法の力を借りて、不正を暴こうと思えば出来たにもかかわらず、彼はそうしなかった。多岐川正一郎と同じだ。

 彼らの共通点は、今まで生きてきた社会や、そこにある不正には目もくれず、ひたすら自分の道を進むという選択をしたことだ。もっと言えば、人や社会を相手にせず、それらを超越した絶対正義に身を投じたとでも言えば、良いのだろうか? しかし、それが結局は悪をはびこらせ、自らも毒牙にかかり、多岐川小百合や小矢部千恵子や美奈までも巻き添えにしてしまった。

 正義とはなんだろう? 隼人はよくわからなかった。

 この部屋のエアコンの冷え具合は、なかなか快適で気持ちが良い。しばらくすると、早奈も横になり、あっと言う間に寝息をたてだした。早奈も疲れているのだろう、隼人はそう思いながら深い眠りに落ちた。そう言えば肩が痛んだ。


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