バンコクの夜(一)
小矢部鉄平と山森飛馬が出て行くと、部屋は急に静かになった。
隼人はソファにもたれて、どうやって自分たちに掛かった容疑を晴らせば良いのかを考えている。
容疑が掛かったままだと、いずれは隼人たちの居場所を警察に特定されるだろうし、先に太田虎彦やタケチに知られるかも知れない。それはどうしても避けたかった。
「どこで俺たちの指紋が付いたんだろう?」
隼人は独り言のように何度もそう自分に問い質した。そして、何かに気付いたのか、顔を上げて早奈を見た。
「なあ早奈。今年の十月の終わり頃、近江屋の特販会に二人で行ったよな」
近江屋というのは、江戸時代から続く老舗の鍛冶屋兼刃物商である。
「隼人が新しい包丁を買いたいって言うから、付き合ったよ」
「俺たちが特販会に行くってこと、誰かに言ったか?」
「確か……、落合真由美には言った覚えがある。彼女も料理に興味があると言っていたし、特販会に行くって言ったら、一緒に行きたそうにしていたけど……」
「あの時、二人で切れ味とか、使い勝手とか、色々な包丁を試したよな」
「見本が置いてあって、切れ味も試したよ」
早奈はそこで少し考え、そして「あっ、そういうこと……」とぼそっとつぶやいた。
隼人の包丁を早奈が使うことはないし、早奈の包丁を隼人が使うこともない。二人の指紋が付いているということは、その特販会で試し切りをした包丁を持ち出したとしか考えられない。そしてその犯人は、二人が特販会に行くことを知っていた人物、そう落合真由美である。
包丁といっても近江屋の刃物には文化財級の値打ちがある。日本古来の製鉄法である、たたら製鉄で作られた希少な玉鋼を、刀匠が渾身の力を振り絞って繰り返し鍛え上げた、まさに芸術品ともいえる世界に誇れる日本の刃物なのだ。
それを殺人に使うとは……。隼人は信じられない思いであった。
「さて、犯行に使われたのが盗まれた包丁だって、どうやって証明してやろうか……」
「近江屋に電話して聞くのが一番手っ取り早いと思う。特販会の日に私たちが触った包丁で、消えたものがないか、聞いてみればいいんじゃない」
「そうだな。近江屋に聞くのが、一番確実だ。しかし、どうやって聞くか……?」
「スマホが使えたらいいんだけど……、電源を入れると、位置情報が筒抜けになるってニーナは言ってたしね」
「ここはタイだし、どんなシステムになっているのか、さっぱりわからん」
タイに来てから公衆電話は見たことがない。北川幸江やナタポーンなら固定電話を使わせてくれるかも知れないが、ニーナがいないと場所がわからない。しばらく考えていた隼人は、何かを決めたような顔で早奈に言った。
「早奈、外に出て運試ししようか」
「運試し?」
「ここでスマホの電源を入れたら、鉄平に迷惑がかかる。外に出て電話をかけようと思うんだ。警察が来るのが早いか、電話をかけ終るのが早いか、どっちが早いかの競争だ」
「面白そう」
早奈の目が生き生きと輝いてきた。
「スマホの電源を入れても、警察が来るまで時間稼ぎが出来る場所が良い。どこか良いところはないか?」
「GPSで位置情報を得ても、どこにいるのか、すぐにはわからないところよね」
「そうだ」
「高層ビルはどう? スマホのGPSは高さ方向の精度が悪いって、聞いたことがある。水平方向の位置がわかっても、何階にいるのか、探すのに時間がかかるんじゃない?」
「そうなのか。じゃあ、それでいこう。オフィスビルで五十階くらいの高層ビルに潜り込むか……。出来れば、雑居ビルが良い」
一フロア当たりの捜索時間が長くかかるビルが良い。高層で複数の会社が入居する雑居ビルが、隼人の考える最適の建築物だった。
「さあ行こうぜ」
隼人は張り切っている。早奈もわくわくしてきた。
「肩は大丈夫?」
「大丈夫だ」
少し歩いてタクシーを止めた。はるか先に高層ビル群が見えている。二人は慣れない言葉を駆使して、そこを目指して進んで行った。
「さあ、電話するぞ。早奈、窓から警察の動きを見ていてくれ」
早奈と隼人は、ラーマ四世通りを走っている時に、恰好のビルを見つけた。三十八階建てで一階から六階はショッピングフロアー、七階以上に様々な会社が入っている高級雑居ビルだ。
会議室は十三階と二十五階と三十六階にあり、最上階とその下の階はレストランとなっている。ショッピングフロアーとレストランが、同じエレベーターで繋がっており、オフィス階は別のエレベーターを使わなければならない。
少し高さは低いが、これだと警察は、まずショッピングフロアーから探すに違いない。早奈と隼人は二十五階の会議室に潜り込むことにした。
二十五階にもICカード式のセキュリティドアがあったが、しばらく待っていると誰かが出て来た。早奈と隼人は自然の会話を装いながら、タイミングを見てさっと中に入った。
隼人はスマホの電源を入れ、京都の近江屋に電話した。
警察が来るまで五分、それから、この会議室にいることがわかるまで十分、合計十五分が持ち時間だ。
怖いのは太田虎彦たちの実行部隊が、今朝と同じように警察の先回りをして動くことだ。それも含めて、制限時間は十五分、隼人はそう設定した。
早奈は窓から下の状況を伺っている。
『もしもし、毎度おおきに。近江屋どす』
出たのは、近江屋の副社長の北条俊子さんだ。販売は俊子さんが一手に仕切っている。茜ばあさんとは親子ほど年齢が開いているが、馬が合ったのか、特別に仲が良かった。
「あっ、俊子さん? 桐島です。桐島隼人」
『あら、隼人君。ご無沙汰しております。お元気にしてはりますか?』
京都特有のゆったりとしたイントネーションだ。京都を出てからまだ三日しか経っていないのに、なぜか懐かしい。
「あんまり元気でもないというか、タイでえらい目におうてますのや」
隼人も京言葉がうつった。
『いやあ、隼人君が、なんかの犯人ちゃうかぁ言うて……、今、テレビで大騒ぎしてはるんどすえ。でもなあ……、それはいくらなんでも違うやろう言うて……、うちら、みんなでテレビに向こうて、ちょうど、文句言うてたとこどすねん』
隼人の名前も早奈の名前も、まだテレビには出ていないはずだが、明らかにそれとわかる言い方をしているのだろうか。しかし、俊子のこのゆったりとした話し方だと、時間がどんどんと過ぎてゆく。
「心配かけてすみません。そのことで近江屋さんに助けて欲しいことがあって、お電話したのですが……」
『私どもで出来ることやったら、何でもさせてもらいます。どうぞ、言うておくれやす』
俊子は今年の特販会に、隼人と早奈が行ったことを覚えていた。特販会場からなくなった包丁がないかを聞くと、すぐに答えを返してきた。
『そうそう、あの時、隼人君らが帰りはって……、しばらくしてから、店のもんが見ましたらなあ……、包丁が一本のうなってんのんがわかりましてん。隼人君らが帰りはってから、誰かが持って帰らはったんどっしゃろなあ。なんか、嫌やわあ、包丁がのうなるなんて……。縁起の悪い話やし……、物が物だけやさかい……、警察にも届けましたわ。はっきりと覚えてます』
「それって、刃渡り十七センチの洋包丁と違いますか?」
『そうそう、それどす。確か、隼人君にお買い求め頂いたもんより、少し、小ぶりの洋包丁どした。あの時、隼人君らの他に……、そやね……、パラパラとお客さんがおられましたんやけど、それが誰なんか……、よお、わからしまへんなあ』
時間がどんどんと過ぎてゆく。
「タイで殺人事件がありましてね、僕と早奈の指紋が付いている包丁が現場に落ちていたらしいんです。多分、その特販会場から消えた包丁ではないかと考えているのですが、その包丁には、なんか、それにしかない特徴みたいなものはありませんか?」
『そやね。刃も柄も手作りやさかい、職人が見たら、すぐに、見分けると思います。例えば、刃やったら……、そやね……、鍛錬の時の温度とか鍛え方によって、出て来る模様とか、刃先の硬さとか、峰の色合いとかが、全部、微妙に変わってくるんどすえ。それから……、そやね……、柄やったら……』
「俊子さん、すみません。あんまり時間がなくて……。とにかくあの特販会の時になくなったものと今回の事件で使われたものが同じ刃物やったら、それは職人さんが見たら、わかるんですね」
『ええ、ちゃんとわかります』
その時、早奈が窓の外を見ながら言った。
「パトカーのような車が、続々と集まってるよ」
隼人も窓の下を見た。制服を来た警官が建物に走り込んでいく。
「俊子さん、お願いがあります」
『はい、なんでっしゃろ』
「今年の十月に開催した特販会の会場から鬼塚恭介殺害の凶器と同じサイズの包丁が盗まれたことと、それに僕と早奈の指紋が付いていてもおかしくないことを、京都府警の浅井和宏という刑事に伝えてもらえないでしょうか?」
俊子は『しっかり手帳にメモしました。隼人君のためやったら喜んで……』と言って快く引き受けてくれた。
『それとタイで遺体の横に落ちていた刃物が、うちの品物やないか、鑑定させて欲しいって、それも言うてみますわ。特販会の日に、のうなった包丁やったら、隼人君らの疑いは晴れるんどっしゃろ。そやけど、何か嫌やわ、うちの品物で殺人やなんて……』
隼人は助かったと思った。これだけのことを言えば、浅井和宏のことだ、より詳しい聴き取りをして、隼人たちの容疑を晴らしてくれるに違いない。
「そろそろ危ないと思う。ビルから出られなくなるかも知れない」
早奈が下を見ながら言った。警察がビルの出入り口を封鎖して、出てくる人間に検問をかけているようだ。隼人たちがどの階にいるのか、見つけるのが難しいので、出口で捕捉しようという魂胆だ。隼人たちは決して容疑者ではない。やり過ぎだと思った。
あと二分だ。
「それから俊子さん。特販会の時の防犯カメラの映像は残っていませんか?」
『防犯カメラの映像? 残ってます。普通やったら保存期間は一カ月なんやけど、ほら、あの時は包丁がのうなりましたやろ。そやから、今も防犯カメラの映像を大切に保管しとるんどすわ。それも警察に提出しときましょか?』
「俊子さん、恩にきます。よろしくお願いします。それと……」
『それと……? どないしはりました?』
「防犯カメラに写っている誰かが、刃渡り十七センチの洋包丁を買ってるはずなんです。特販会場からなくなったのと同じ包丁を……。それを調べて警察に言ってもらえませんか?」
隼人の考えでは、隼人と早奈の指紋の付いた包丁は、犯行には使われていない。その包丁は鬼塚恭介の血糊を付けて犯行現場に置かれただけで、犯行には、犯人が購入した同じサイズの別の包丁が使われたはずである。従って犯人は、近江屋の購入者リストに載っている可能性が高いのである。
『わかりました。それも調べて、今からすぐに京都府警に行ってきますわ。早い方がよろしいんでっしゃろ?』
「俊子さん、すみません。すぐにお願い出来ますか?」
『わかりました。すぐやります。ほな、隼人君。どうか、お気張りやす』
そう言って電話は切れた。ちょうど時間切れだ。
隼人はすぐにスマホの電源を切った。まだ警察はこの階まで来ていない。
エレベーターホールまで行くと、会議が終わったのか、何名かの人間がエレベーターを待っている。隼人たちもその中に混ざって、下りのエレベーターに乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、向かいのエレベーターのドアが開き、数名の男が駆け出してきた。
一人の男と目があった。京都府警の浅井和宏だ。向こうも気が付いてこっちに駆け寄ってくるが間に合わない。ドアが完全に閉じ、エレベーターは下降を始めた。