きつね男と空手男(一)
早奈と隼人はバンコク市内のマンションにいた。
空手男は、「ここなら安心だ」と言った。
広いリビングだ。濃いブラウン系の腰壁が、純白系のクロスとうまく調和し、部屋全体に落ち着いた雰囲気を与えている。床は腰壁と同色のフローリング仕様だ。やはりブラウン系の革のソファには、それほど派手ではないインテリア調の照明が良く似合っている。
バンコク市内を走る幹線道路の一つ、スクインビット通りに面した、バンコクでも高級と言われるマンションだ。
「君はニーナを知っているのか?」
隼人は、ニーナから居場所を聞いたに違いないと思った。
「俺もよくわからんのだ。ただニーナは無事だ。それは間違いない。とにかく、まずシャワーを浴びろ」
先ほどの格闘で二人とも泥まみれだ。このままではソファには座れないし、何より臭い。
空手男が、隼人に着替えと打撲用の湿布薬を持ってきてくれた。隼人は案外と細かいところにも気がつく男だと、空手男のことを改めて見直した。
早奈には、クローゼットに女性用の衣類があるので、好きなものを選べと言った。空手男の彼女なのか、このマンションには女性も住んでいるようだ。
隼人がシャワーを浴び終わると、寝室から早奈の呼び声が聞こえた。
早奈は先にシャワーを浴び終えて、寝室のドレッサーに腰を掛けて、ドライヤーで髪の毛を乾かしていた。膝上までのショートパンツとタンクトップ、その上に花柄のブラウスを羽織っている。
「私より少し小柄の女性みたい。この家の住人」
「俺のも少し窮屈だ。空手男のではないようだな」
「あの人はマンションのオーナーの友達みたいね。オーナーは隼人がシャワーを浴びている間に帰ってきたよ」
早奈はオーナーと会ったそうだ。きつね男を男前にしたような顔だと早奈は言うが、隼人にはイメージが湧かない。
「でもおかしいんだ。これ、全部、新品なんだけど、買ったのは十年以上も前なんだよね」
早奈は完全にマイペースを取り戻していた。クローゼットにある衣類は、全て未使用だが、買ってからずいぶんと時間が経っていると言う。
隼人は驚いて、ゴミ箱に捨てたタグを見に行った。
「確かに、日付は十年以上も前のものだ。買ったまま、置いておいたのか」
「そうみたい。どうしてなんだろう?」
二人がリビングに行くと、空手男と男前のきつね男がいた。
ソファに座ると、きつね男がコーヒーをいれてくれた。こいつも割と良い奴だと隼人は思った。
早奈と隼人は自己紹介し、二人に助けてもらったお礼を言った。
きつね男も空手男も照れくさいのか、ちょこんと頭を下げただけで何も言わない。
「あのお……、助けて頂いて、それに新品の服まで使わせて頂いて、こんなことを聞くのは何なのですが……、あなた方は何者なのですか?」
早奈の質問はもっともだ。敵ではなさそうだが、味方と言える根拠は何もない。
「俺は小矢部鉄平、こいつは山森飛馬」
きつね男が言った。ぶっきらぼうだが嫌味はない。空手男がまたちょこんとお辞儀をする。
「小矢部鉄平……? どこかで聞いた名前だな」
隼人は首を傾げた。早奈も考え込んでいる。
「あんた方の調べの中で、よく似た名前が出てきたんじゃあないか。俺はまさか美奈さんに早奈さんという妹がいて、それがサナだとは最近までわからなかった」
何を言っているのだ、この男は……。前半部分はまだ良い。それはそうかもしれない。しかし『早奈がサナとはわからなかった』とは何なのだ。美奈とは知り合いのような口振りだが、彼女とはいったいどういう関係なのだ。
それに……、彼の名前が小矢部鉄平だということもわかった。それも良い。しかし、なぜ自分たちは彼らに助けられ、このマンションにいるのか? それが早奈と隼人にはわからない。
「あんたらを襲ったのはタケチだ。美奈さんを殺害したのもタケチだ。タケチに気をつけろ」
空手男の山森飛馬が、ど真ん中のストレートを投げ込んできた。
タケチというのは誰なのだ。なぜ、空手男の飛馬も美奈のことを知っているのだ。彼らの話はさっぱり要領を得ない。
「俺の家族も、タケチに襲われそうになったことがある。俺も鉄平を手伝って、家族を守るために闘っているのだ」
もう限界だ。隼人は鉄平に、初めから順序立てて全てを話してくれるよう頼んだ。ニーナのことが気になったが、それは後回しだ。彼女も大丈夫そうだから良いだろう。
「わかった。じゃあ、順序立てて話をするよ」
鉄平は素直に応じてくれたが、次に、「今から六十年以上も前の話なんだが……」と言い出した時には改めてびっくりした。
順序立てて話をすると、六十年以上も昔に遡るのか?
隼人はこれ以上クレームをつけても、このバランスの悪そうな青年を混乱させるだけだと思い、覚悟を決めて話を聞くことにした。
鉄平の話は一時間以上かかった。
何十年にも及ぶ膨大なストーリーを、断片的な情報を繋ぎ合わせて、的確に人に伝えるのは難しい。しかも、その情報は伝聞で入手したものが大半だ。早奈と隼人は粘り強く二人の話を聞き、自分たちの知識も織り交ぜながら、少しずつ全体を紡いでいった。
祖父の小矢部金吉の会社設立から始まり、父親の小矢部健司が社長の時に、石松三郎と太田虎之助に会社を乗っ取られたこと、父親の健司は、その後、タイで農業の技術指導の仕事に携わっていたが、十一年前に事故で亡くなったこと、この事故にOT興業が関与しているのではないかと疑い、盗聴器を仕掛けて、太田虎彦の動きを探っていることなどを、鉄平は時間をかけてゆっくりと話した。
このマンションも、鉄平の両親がバンコクに生活の拠点を移すために、亡くなる直前に購入したものだった。
「ご両親がここで生活するために、この衣類も揃えておかれたのね」
早奈も隼人も衣類の購入日が古いことに納得した。
鉄平は続いて、太田虎彦やタケチの過去の犯行について語り出した。
「タケチというのは、実に狡猾で用心深い男だ」
彼らの犯行の特徴は、実行犯を固定せず、アジトも固定せず、必要に応じてその都度メンバーを集め、犯行が終われば解散するといったところにある。そのために犯罪者集団としての実態が掴みにくい。その仕組みを作り、犯行を一手に差配しているのがタケチという男だが、その正体はわからない。盗聴器の中だけに存在する奇怪な男である。
早奈と隼人は、次に、鉄平から美奈殺害事件に関する盗聴記録を聞かせてもらった。昨年の十二月八日昼過ぎの盗聴記録である。
『店長とムスメはおまえが殺したのか? 相変わらず荒っぽいな、タケチ』
『可哀そうだが、ノートとデータを奪うためだ、仕方がない』
『警察は大丈夫なのか?』
『心配するな、オオタ。今回もオニの仕業のように見せかけておいた。警察が俺たちに目を付けることは絶対にない』
『わかった。なら安心だ』
『しかし、オオタ。今頃、ノートが出てくるとは驚いたな。それも、向こうからノコノコやって来るとは……』
『おかげでノートとデータのコピーは手に入った。あとはタキガワのキンだけだ』
『それももうすぐ在りかがわかるぞ』
『オトコを泳がせて後をつけるんだろう。警察に飛び込まなきゃ良いが……』
『確かに……、警察に飛び込まれるとやっかいだ。ただ、あいつも詳しいことは言えんだろ。大騒ぎになれば、あのオトコの村は世界中から狙われる』
『ははは。確かにそうだ。あいつの村は世界中から狙われる』
『オオタ、キンの在りかがわかれば、今度は奪いに行くぞ』
『了解だ。二十年前と十年前はそこまでの余裕がなかったが、今回はもう大丈夫だろう』
『ああ、もう大丈夫だ』
『キンも揃うと三十億か……。そいつは楽しみだ。なあ、タケチ』
太田虎彦とタケチという男が、美奈殺害事件について話しているようだ。
店長と呼んでいるのはムアン・サボーの店長スーで、ムスメは美奈、オトコとはチャイのことだろう。オニとは鬼塚恭介のことに違いない。
そして早奈と隼人は、何よりも、太田虎彦とタケチの二人が美奈殺害事件の真犯人で、タケチという男がその実行犯だったことをこの二人の会話から知った。鬼塚恭介は濡れ衣を着せるためにタケチが仕組んだダミーだったのだ……。
しかし……、ちょっと待てよ。そいつはおかしくないか……?
鬼塚恭介の指紋は美奈の部屋の壁に付いていた。犯行時、彼が美奈の部屋にいたのは間違いがないのだ。にもかかわらず、鬼塚恭介の仕業に見せ掛けるとは、どういうことなのだろう? 鬼塚恭介は、それで文句を言わないのだろうか?
どうも、タケチと鬼塚恭介の関係が、いまいちよくわからない。どういう条件が整えば、鬼塚恭介は犯人にされても文句を言わなくなるのだろう?
早奈と隼人には、今朝ほど殺されて、チャオプラヤー川の畔に遺棄された鬼塚恭介という人物がよくわからなかった。