十二月十六日、北川幸江に会う(一)
翌朝、早奈がNPO法人『こぶし』に電話を掛けると日本人がでた。事情を説明し、小矢部健司のことを知っている人と話したいというと、運良く代表の北川幸江がいて、彼女に替わってくれた。北川幸江は午後なら時間が取れると言うので、午後一時にバンコク支部を訪問することになった。
午前中、日本の有馬記者から、隼人に電話が掛かってきた。
『桐島、遅くなってすまない。やっと、当時の特派員記者と連絡が取れたが、面白いことがわかったぞ。びっくりするな』
有馬慎吾は、なにやら思わせぶりなことを言う。
「桐島。これは公表されていないが、そのトレーラーを運転していた人物は、実は日本人で、名前を鬼塚恭介という」
「鬼塚……」
「そうだ。多岐川美奈さん殺害事件の重要参考人として指名手配されている人物だ。十一年前のこの交通事故は、恐らく事故に見せかけた殺人だ。去年の多岐川美奈さんの殺害事件と繋がっている可能性が高いぞ」
「そうだったのか……」
「その男は、事故の後、すぐに勤めていた日系企業を辞め、日本に帰っている。今は、桐島も知ってる通り、どこにいて何をしているのか、さっぱりわからん」
「鬼塚が勤めていた会社の名前はわかるか?」
「東京の麹町に本社のあるOT興業という会社のタイ現地法人だ」
「OT興業……? 聞いた事のない名前だな。日本の警察は、十一年前の事故の運転手が鬼塚恭介だってことには気が付いていないのか?」
「恐らく、まだ気が付いていない。十一年前の交通事故は、結局、対向車線にはみ出した乗用車の不注意によるものという結論が出て、鬼塚恭介は不起訴処分だ。だから鬼塚恭介に関する日本の警察のデータベースにはこの事故のことは詳しく書かれていないんだ。俺の方から京都府警に情報提供しておこうと思うが、桐島、それで良いよな」
隼人が了解し、そこで有馬記者との話は終わった。
鬼塚恭介が美奈と早奈の両親が亡くなった十一年前の交通事故でも顔を出して来た。しかも、その交通事故を起こした張本人としてである。
「これって偶然じゃないよね」
「もちろん偶然じゃない。鬼塚恭介ってのは、美奈を殺害した真犯人が雇った殺し屋だ。二人は十一年前の事故の時もつるんでいた。そして事故に見せかけて美奈と早奈の両親を殺害したんだ」
「目的はやはりT737を奪うため……?」
「それ以外にはあり得ないと思うんだが……、いまいちよくわからん。T737を奪うためだとすると、あまりにも計画がずさん過ぎる」
「結局、十一年前もT737を奪うことには失敗しているしね」
「そうなんだ。ひょっとすると、やつらはT737に世間の目が向くこと自体を嫌がっているのかも知れない」
「どうして?」
「それはわからない。しかし早奈、気をつけろ。もし俺たちがT737を見つけたら、鬼塚恭介が一気に襲い掛かってくるぞ。それは間違いない」
「どこかで私たちをじっと見張っているのかも知れないね」
「そうだ、早奈。それと女だ。若い女二人……。女に気をつけろ」
「ムアン・サボーにいた二人連れの若い客だね。いったい、どこで何をしてんだか……?」
早奈も隼人もさっぱりとわからなかった。
早奈と隼人とニーナの三人は、午後一時きっかりに、バンコク市内の中心地にあるNPO法人『こぶし』を訪ねた。鬼塚恭介のことはいったん置いておいて、まずは小矢部健司である。
応接室に通され、しばらく待っていると、北川幸江が入って来た。少し痩せ気味で、顔幅より広い細長の金縁眼鏡が、とても神経質そうな印象を与える。
「今日はお時間を頂戴して申し訳ありません。実は、お電話でも申し上げた通り……」
早奈が用件を説明すると、北川幸江は……。
「私がこのNPO法人を立ち上げて、もう三十年が経ちます。皆さんは、今の日本の食料自給率って、どれくらいかご存じですか?」
と、違うところから話を切り出してきた。
少し考えて、早奈が答える。
「そうですね、何年か前に四十パーセントを切ったという話を聞いたことがあります」
「そうです。よくご存知ですね。十年ほど前にカロリーベースで四十パーセントを切って、今もまだ下がり続けています。主食の米は、ほぼ百パーセント自給しているにも関わらず、この数字なのですよ」
何が言いたいのか、早奈も隼人も理解に苦しんだが、とりあえず北川幸江の話を聞くことにした。
「逆に言うと、六十パーセント以上は、外国から食料を輸入しているということです。食料と資源とエネルギーがなければ、国も国民も生きてゆけません。海外から安定して食料を調達出来なければ、日本という国は滅んでしまうのです」
早奈と隼人は黙って聞いている。北川幸江は先進国で食料自給率が五十パーセントを切っているのは日本だけだと言う。
「私たちは政府や企業の支援を受けて、ここタイで有機農法を広めるためのお手伝いをやっています。タイでも有機農法のニーズが強くなっていましてね。私たちの活動で少しでも日本とタイの結びつきが強くなれば、と思っています」
「『こぶし』というこの法人の名前の意味するものは何ですか?」
早奈は少しずつ、北川幸江に共感を覚えてきた。
「こぶしの花言葉は友情です。日本とタイの両国にとって大切なものだと、私は考えています。それと、つらい時、苦しい時に、じっとこぶしを握りしめて耐える、そういう思いもあるのですよ」
北川幸江は、初めて、少しニコッと笑った。
「十一年前に事故に遭われた小矢部さんは、私たちのそう言った思いを本当に真剣に受け止めて下さっていました。この『こぶし』の専門指導員として、タイの農村を回って熱心にお仕事をされていましたわ」
北川幸江は、やっと本題に入って来た。
「土壌改良とか有機農法と言いましてもね、今でこそ、皆さん、熱心に取り組まれていますが、昔は誰も耳を傾けてはくれません。そういったなかで、小矢部さんは有機農法の魅力を一生懸命に説明されていましたわ」
小矢部健司という人物は会社の経営者だったが、その会社を手放してこの世界に入ってきた人物のようだ。農学部の出身で、ISOや有機JAS認定のためのコンサルタントの資格も持っており、タイの人たちからも、ずいぶんと慕われていたと北川幸江は言う。
「そうそう、小矢部さんは……、ええっと、多岐川早奈さんって言いましたっけね、ごめんなさいね、歳を取ると人の名前が覚えられなくて……。あなたのお父さんとは、ずいぶんと仲が良くて、よく一緒にあちこちの村に行かれていましたよ」
「どの村に行っていたか、わかりませんか?」
早奈と隼人が同時に聞いた。
「色々な村に行っていましたからね。そう言えば、ある村で、なんでも稲にたちの悪いカビが生えて、その対策を多岐川さんに教えてもらったって、嬉しそうに言われていましたね。あれはどの村だったかしら……」
早奈の頭の中で、何かがぴくっとざわめいた。
「小矢部さんが書かれた報告書を全てファイルしていますから、それを調べたらわかるかもしれません。あいにく、人手不足でしてね、資料のある場所をお教えしますので、ご自分で調べて頂けますか」
北川幸江は、事務員に三人を資料室に案内するように言った。
「今日中に終わらなかったら、何日でも、通ってもらって結構よ」
北川幸江はそうとも言ってくれた。