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亡霊のたくらみ  作者: 長栄堂
第五章 微笑みの国
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帰りの車の中で

 帰りの車の中で早奈は黙って考えた。なぜ、父は自分が発見した菌にT737という名前を付けたのか?

『T』という符号はわかる。恐らく多岐川の『T』だ。問題は『737』という数字だ。自然界にある二つの菌を見つけ、それを掛け合わせて創った菌に『737』という名前を付けた。美奈の誕生日は一二月一日、早奈の誕生日は六月十六日、二人の誕生日の数字を足し合わせると『737』になる。早奈は「まさか」と思った。

 いずれにしろ、チャイに会えばわかる話だ。

 それはともかく、問題は伊崎睦夫だ。

「伊崎先生、菌の評価を二回やって、駄目だった二回目の結果だけを公表した。しかも、この時の評価は大学に自分にやらせろと言って迫ったもの。これって、おかしいよね」

 それを聞いたニーナが、車を運転しながら会話に入ってきた。

「伊崎睦夫って人は、T737を自分のものにしたかったのではないですか」

「なるほど……」

 ニーナは頭が良い。

 伊崎睦夫は評価を行って、良い結果が出れば、T737を黙って自分のものにするつもりだったのだ。しかし、T737は培養が難しい菌だ。しばらくすると、菌は全て死滅してしまった。その後にやったのが二回目の評価だ。

 伊崎睦夫は残念だったろう。腹立たしいが仕方がない。そこで、伊崎睦夫は考えた。菌の評価を大学に頼まれたことにして、二回目の結果だけを公表してやろうと……。誰かがT737に注目し、それを再び創り出して、人類共有の貴重な財産にしようなどと、そんなふざけた考えを持たないように……。菌の評価を頼まれたことにしたのは、そうしないと結果を公表出来ないからだ。

 ニーナが言いたいのはこういうことだ。

 確かに……。そう考えると伊崎睦夫の動きは理解がしやすい。

 ここで早奈と隼人は考えた。

 このまま、誰もT737に注目しなければ、物語はここで終わっていた。しかしこの時、一人だけ、T737のことをよく知り、それを再び創り出すことに意欲的な人物がいた。それがチャイだ。

 そもそもチャイとは何者だろう?

 多岐川正一郎に連れられて美奈と早奈がタイに遊びに行った時、二人はチャイに会って写真を撮っている。多岐川正一郎が亡くなった十一年前、美奈はチャイには多岐川ノートを貸している。そして一年前、彼はわざわざ日本にやって来て、それを美奈に返している。

 これらのことから考えて、チャイは敵ではない。多岐川正一郎の身近にいた少年だ。多岐川正一郎がT737の培養に成功したタイ北部の村に暮らし、正一郎の横で、彼の研究の一部始終を見ていた少年だ。

 多岐川正一郎の訃報を聞いて、遺体のもとに駆けつけた彼は、T737を再び自分が創り出すことを子供心に誓った。チャイは、美奈に理由を説明して、多岐川ノートを借り、実験データもパソコンからコピーさせてもらった。美奈もチャイのことを覚えていた。だから、彼には多岐川ノートを貸し、データもコピーさせた。

 それから、十年の歳月が経ち、チャイは苦労して、日本語で書かれた多岐川ノートの中身を理解し、やっとT737を再び創り出すことに成功した。T737のもとになる二種類の菌が自生する彼の村なら、それが出来るのだろう。

 彼は、そのことを美奈と早奈に報告するために日本にやって来たが、まずいことにそれをある人物に知られてしまった。

 その人物は、まず美奈から多岐川ノートのコピーと実験データを奪い、そして今は、チャイが再び創り出したT737を狙っている。

 多岐川夫妻の交通事故も、ひょっとすると、その人物が事故に見せかけて行った殺人ではないか……?

 その人物は……?

「伊崎睦夫以外にはあり得ない」

「そうだね」

 多岐川正一郎の身近におり、美奈と早奈のことも知っている人物。そして、チャイが多岐川ノートを美奈と早奈に返そうとしていたことも知っていた人物。ただ美奈殺害の実行犯ではないだけで、伊崎睦夫は真犯人としての全ての条件を満たしているのである。

 一つだけ腑に落ちない点があるとすれば……。

「なぜ多岐川正一郎さんは、伊崎睦夫に旭村の名前を教えたのだろう?」

「伊崎先生は、それを隠そうともしないで私たちに平気な顔で教えてくれたよね。どうして?」

 そう。なぜ多岐川正一郎は、和賀寺永昌には教えなかったセルロース分解菌を見つけた日本の村の名前を伊崎睦夫には教え、また、伊崎睦夫はそれを早奈と隼人に教えてくれたのだろう? 彼が真犯人であれば、それは隠しておきたい事柄だと思うのだが……。

 早奈も隼人も、まだ伊崎睦夫という人物がよくわからなかった。


「ところで事故に遭ったのは、もう一人いたみたいね」

 早奈が事故のことを話題にすると、ニーナがまた話に加わってきた。

「当時のタイの新聞を調べましょうか? その方のお名前とお仕事が、わかると思いますよ。それがわかれば、また新しい情報が入るかも知れません」

 ビラをばら撒くより、こうして、少しずつ前進する方が効率的なんだろうと隼人は思った。

「ニーナはタイの新聞を調べてくれるかな。早奈は日本の新聞だ。新聞社のデータベースにアクセスすれば調べられるだろう。俺は有馬に記事になっていない情報がないか、聞いてみる」

 有馬というのは、大和新報という新聞社の記者をやっている隼人の大学時代の友人だ。フルネームを有馬慎吾といい、三条河原町から消えた店を探す時も、ずいぶんと協力してくれた。今回もきっと助けてくれるだろう。


 ホテルに戻って約二時間が過ぎた頃、早奈とニーナが隼人の部屋にやってきた。

 早奈が調べた日本の新聞には、事故にあった日本人のことが詳しく書かれていた。

 それによると、事故は十一年前の九月十八日午後九時三十分、チェンマイ郊外の小高い丘の上で起こっている。

 カーブの続く見通しの悪い道路を走っていた乗用車が、急にセンターラインを越えて反対車線に突っ込み、前から走って来た大型のトレーラーに激突したという事故だ。乗用車は跳ね飛ばされ、運悪く、道路横約十メートルの崖下に転落した。

 乗用車には三名の日本人が乗っており、うち二名は、多岐川正一郎(当時四十七歳)とその妻小百合(当時四十二歳)だ。もう一名は、小矢部健司という当時四十六歳のNPO法人『こぶし』のバンコク支部職員だった。

 崖下に転落した車は大破し、三名とも車から投げ出されたため、誰が乗用車を運転していたのかはわからない。

 この事故の目撃者はおらず、乗用車がセンターラインを飛び越えてトレーラーと正面衝突したという証言は、トレーラーの運転手から得たものである。

 ニーナが調べたタイの新聞には続報が載せられていた。

 それによると、乗用車が反対車線にはみ出したのは、タイヤ痕の解析結果からも明らかとのことだった。乗用車は急ブレーキをかけて対向車線に停止したが、そこに運悪く、大型のトレーラーがやって来て、正面衝突したようだ。乗用車には制限速度を大幅に超えるスピード違反の疑いと、シートベルトを着用していなかった疑いがあり、タイ警察は乗用車の不注意によるものと結論付けている。

 死亡した小矢部健司の妻・千恵子は、事故の後、マスコミに対して、『夫の健司は乗用車をチェンマイ空港に置いて、バンコクに出張していた』、『事故当日は、午後八時過ぎにチェンマイに着く飛行機で戻ってくる予定だった。遅くても九時には家に着くと言っていたのに、事故に遭っていたなんて信じられない』、『多岐川さんがチェンマイからバンコクに引っ越したので、事故の翌日に送別会を行う予定だった』、『息子の鉄平(十一歳)もそれをすごく楽しみにしていた』と話している。

 以上が、早奈とニーナが調べた事故の概要だ。

「有馬さんは……? 連絡取れた?」

 早奈が聞いてきた。

「有馬は、当時、タイの特派員をしていた先輩記者に、事故の状況を聞いてみると言っていた。連絡は明日になりそうだ」

 早奈は、小矢部健司が働いていたNPO法人『こぶし』についても調べていた。本部は東京にあり、政府や民間の支援を受けて、海外で主に有機農法の普及を進めている法人とのことだ。

 バンコクにも支部があり、支部代表は北川幸江という人物だ。先ほど早奈が電話を掛けたが誰も出なかったので、明日の朝、改めて電話を入れることにした。

「今日は疲れた」

 夕食の後、ホテルのラウンジで軽くアルコールを摂りながら、早奈と隼人はソファにもたれてくつろいでいた。ニーナは自宅に戻った。

 ジンベースのカクテルと、ほど良い音量で流れるジャズが疲れた身体を癒してくれる。気持ちの良い夜だった。次第に深まる酔いの中で、タイの二日目が、まもなく終わろうとしていた。


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