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亡霊のたくらみ  作者: 長栄堂
第五章 微笑みの国
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十二月十五日、ナタポーンに会う

「あら、よくいらっしゃいました。あなたが多岐川さんの下の娘さん? お父さまに良く似てらっしゃるわ。目元はお母さま似かな。お二人の良いところを受け継いでおられるようね」

 ここでも早奈は容姿を褒められてまんざらでもない。

 彼女の名前はナタポーン・パチャグスリット。「ナタポーンと呼んでくれ」と言った。タイ自然科学大学微生物研究所試験評価部長の肩書がある。ニーナが探してきた多岐川正一郎のことをよく知っているという人物である。

 大きな声でよくしゃべるバイタリティ溢れる女性だ。日本語も話すが、複雑な表現は難しく、ニーナの通訳をところどころに入れながら、ナタポーンは話してくれた。

「いえね、あなた方が多岐川先生のことを聞くために、伊崎先生を訪ねたって聞いてね。伊崎先生からだと、多岐川先生の本当の姿が伝わらないのではないかと思って……」

 ナタポーンは、正しく多岐川正一郎のことを理解してもらうために、自分も話をしようと思ったらしい。

「伊崎先生は、多岐川先生に大変なコンプレックスを持っていてね、彼を貶めることばかり言うのよ。これまでも、ずっとそうだったわ」

「確かに、そのようなところはありました。日本で聞いていた話と違うところもあって、何が本当なのか、少し、わからなくなってきたところです」

 早奈が正直に答える。隼人は、しばらくナタポーンと早奈のやり取りを横で聞くことにした。

「多岐川先生は立派な方だったわ。私が最も尊敬する科学者の一人よ」

 ナタポーンは遠い昔を振り返るようにしみじみと言った。

「伊崎先生は多岐川先生のT737の話はした?」

「T737? それは何なのですか?」

「あら嫌だぁ。彼はそれも言わなかったの? 多岐川先生は、タイの北の方の村でセルロースを高速分解する菌を見つけられてね。その村に三年以上も滞在されて、菌の研究をされたのよ。その結果、セルロース分解菌には二種類があってね、その二つを掛け合わせると、もっと凄い能力を発揮する菌に変化することを突き止められたの」

 早奈はだまって真剣に聞いている。

「彼はね、その菌にT737という名前を付けたのよ。これは、最強の菌よ」

「伊崎先生は、父はそんな菌など見つけていないと……」

「それは嘘。伊崎先生もご存知のはずよ、T737が、今まで、誰も見たことがないスピードで、セルロースをあっと言う間に分解してしまう能力を持っていることを……」

「ナタポーンさんは、その様子を見られたことがあるのですか?」

「多岐川先生は、簡単な評価はご自分でなされていたわ。その菌を見つけた村にご自分の研究所を作られて……。でも、設備がないと出来ない評価もあってね、時々、この大学に評価を依頼されていたのよ。私が担当だったわ」

 ナタポーンは、多岐川正一郎から頼まれた評価を行う中で、セルロースが高速で分解される様子をたくさん目撃したと言う。なかでもT737は最高の能力を発揮したようだ。

 その後、多岐川正一郎は、約三年に亘る村での研究を終わらせ、十一年前の四月に研究拠点をこのタイ自然科学大学に移したとのことだ。そして事故に遭うその年の九月までのわずか半年間で、大学でもT737の培養と増殖に成功したともナタポーンは言う。


「伊崎先生は父が亡くなった後、自分が評価したが、何の能力も発揮しなかったって言われていましたけど……」

「多岐川先生が亡くなった後、伊崎先生は二回、評価を私たちに依頼されているの。一回目は、見事に能力を発揮したわ。二回目はその二週間後だったかな、また、菌を持ち込まれたけれど、これは駄目だったわ」

「二回目は、誰かが菌をすり替えたのでしょうか?」

「普通は培養の条件を守っている限り、菌が突然死滅することはありません。しかし多岐川先生は、T737の培養ノウハウの全てをスタッフに教えられていたわけではありません。ご自身だけの、秘密にされている条件があったと思われます。多岐川先生が亡くなった後、そのノウハウがわからずにT737をうまく培養出来なかった可能性が高いと私は思っています」

 ナタポーンは、あくまで技術的な問題だと思っているようだ。

「伊崎先生はその菌の評価を大学から頼まれたと言われていましたが、それは本当ですか?」

「それは本当よ。多岐川先生がお亡くなりになって二週間ほど経った頃かしら、伊崎先生がご遺族の同意書をお取りになって、自分にT737を評価させるよう大学と交渉されたのよ」

「大学が茜ばあさんと交渉したのではないのですか?」

「茜ばあさんって誰なの? いずれにしても大学は交渉していないわ。交渉したのは伊崎先生よ」

「じゃあ、一回目の評価は伊崎先生が勝手にやったということですか?」

「そういうことね」

 どうやらナタポーンの話では、伊崎睦夫は二回、菌の評価を依頼したようだ。一回目はまだ大学から評価を頼まれる前だから、多分、伊崎睦夫の独断でやったのだろう。この時は、菌は正常なセルロース分解能力を発揮している。

 二回目はその二週間後である。伊崎睦夫は大学に正式な評価を自分にやらせるよう働きかけ、再度、評価をナタポーンに頼んだ。ところが、この時の菌は能力を発揮しなかったようだ。そして伊崎睦夫は、なぜかこの結果のみを大学に報告している。

 なぜだろう? 

 早奈も隼人も伊崎睦夫の行動の意味がわからない。彼は、いったい何がしたかったのだろう?


 いくら考えても前に進まない。早奈は話を変えることにした。

「ところでナタポーンさんは、チャイという青年をご存知ありませんか? 多岐川正一郎がT737を見つけた村の出身だと思うのですが……」

「その青年なら、多岐川先生の娘さんの住所を聞きにきたことがあるようよ。対応したうちの職員から聞きました。その職員なら今、事務所にいると思いますから、直接お聞きになりますか?」

 早奈が是非にと言うと、ナタポーンはその職員を部屋に呼んでくれた。ジュリア・ルイビルという名前の女性で、日本の大学への留学経験もあり、この大学では伊崎睦夫の通訳も担当していると彼女は言った。

「昨年の十一月の中頃でしたかしら……、チャイという名前の青年が、多岐川先生のノートをご遺族に返したいので連絡先を教えてほしいと言ってこの研究所を訪ねて来たのです」

「それで、ルイビルさんは、どうされたのですか?」

「多岐川先生のご遺族の住所をご存知なのは、伊崎先生だけでしたから、先生に相談しました」

 この点については、伊崎睦夫に嘘はないようだ。

「伊崎先生は連絡先を教えることは出来ないが、ノートは自分が返してやろうと言って、自分にノートを渡すようにずいぶんとチャイを説得されていました」

「チャイはノートを伊崎先生に渡していませんよね」

「ええ、渡していません。すると伊崎先生は、君はT737も持っているのかとずいぶんとチャイに詰め寄られていましたが、チャイは急に警戒したような顔になって、遺族の連絡先を教えてもらえないのであれば、もう良いと言って、帰ってしまいました」

「この研究所で、チャイの居所を知ってる方はおられませんか?」

「初めて見る顔だって、みんな言っていましたから、いないと思います」

「そうですか」

 残念そうな顔で早奈の質問が終わると、待ってましたとばかりに隼人が口を開いた。

「去年の十二月七日のことなんですが……」

「どうされましたか?」

「その日、伊崎先生がタイにおられたかどうか、教えて頂けませんか?」

「ちょっと、覚えていないので、去年の伊崎先生の勤務表を見てもいいですか? 少しお待ち下さい」

 ジュリアは持っていたタブレットの電源を入れた。

「去年の十二月七日であれば、伊崎先生はこのタイ自然科学大学に出勤されています。タイに入られたのが十一月一日、タイを出られたのは十二月の二十六日で、この間はずっとタイにおられたようですよ」

 少なくとも伊崎睦夫は美奈殺害の実行犯ではない。隼人もそれだけを聞いて質問を終えた。


 ジュリアが退席し、少し間が空いたところで、ナタポーンが多岐川正一郎の事故のことに触れてきた。

「それにしても、多岐川先生は、お気の毒でしたね。長年のご苦労がやっと報われるって時に交通事故に遭われて……。奥様も、これからはバンコクに定住するので、少しは安心だって言われていたのに……」

「母のこともご存知なのですか?」

 早奈の質問が再開した。

「ここにも良く遊びに来られていたわ。多岐川先生とは本当に仲の良いご夫婦だったわね。確か、事故に遭われた日もこの研究所に来られていて、夕方に夫婦一緒に出て行かれたわ。でも、大きな事故だったわね。日本人の方が三人もお亡くなりになったのですから……」

「えっ、三人?」

「新聞でそのように報道されていましたよ」

 両親以外にもう一名、亡くなった日本人がいたようだ。早奈はてっきり二人で事故に遭ったのだと思っていた。

「ご夫妻も空港で誰かと待ち合わせをして、一緒にチェンマイまで行くとおっしゃっていましたから……」

「それが誰だか、わかりませんか?」

「さあ? 古い新聞を見ればわかると思いますが、私は覚えておりません」

「そうですか。ありがとうございました。よくわかりました」

 ナタポーンは、知っていることを全て話してくれた。

 早奈たち三人は、自分たちが真相を明らかにしたら、必ず、ナタポーンに報告にくると約束をして面談を終えた。

 部屋の出口で別れるつもりだったが、ナタポーンはいつでも遊びに来いと人懐っこい顔をして、三人を建物の正面玄関まで見送ってくれた。

 訪問前は「伊崎に見つかると困るから裏口から入って来い」と言っていたナタポーンであったが、腹を括ったのか、そのような素振りはいっさい見せなかった。


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