十二月十五日、伊崎睦夫に会う(一)
次の日の朝はホテルを八時に出発し、タイ自然科学大学の微生物研究所に向かった。そこの特任教授を務めている伊崎睦夫に会うためだ。
大学までホテルから一時間以上はかかるらしいが、思ったほど渋滞は激しくない。ニーナの運転するSUVは快調にハイウェイを飛ばした。
日本と同じ左側通行だが、側道に点々と植えられたパームツリーが、ここは南の国タイなのだとわからせてくれる。
道からの見晴らしは良い。ところどころに金色の丸い屋根が見える。タイでワットと呼ばれる寺院だ。さすがは仏教国だ、数が多い。その周りには樹木が生い茂り、緑が目に優しい。
「ニーナ、ちょっと、聞きたいことがあるんだけど……」
運転するニーナに後部座席から隼人が話しかけた。
「何ですか?」
「俺たち、チャイっていう大学生を探しに来たんだけど、なんか、このタイで人を探す特別な方法ってないかな?」
「ありません」
隼人は我ながら間抜けな質問をしてしまったと後悔した。助手席に座った早奈が、腹を抱えてゲラゲラと大笑いをしている。
「でも隼人さん。タイの大学生がよく使うSNSで呼びかけてみるのは、いかがですか? それと人探しのビラ。あれをタイ中の大学で配るというのも、案外と効果があるかも知れません。写真があるのなら、それも付けてね。私も手伝いますよ」
がっくりと落ち込んだ隼人を見て気の毒に思ったのか、ニーナが相談に乗ってきた。
「顔写真をばら撒かれるって嫌じゃない? チャイが困らない?」
早奈の心配はもっともだ。チャイの了解を得ないで、顔写真をばら撒くのはマナー違反のような気がする。
「困れば困るほど、チャイは私たちの前に早く姿を現すでしょう」
「なるほど……」
ニーナの理屈ももっともだ。SNSやビラには写真も付けることにした。
タイ語はニーナにおまかせだ。隼人は目の前が少し明るくなったような気がした。
車はいつの間にか市街地を抜けて、郊外に入っている。
バンコクは巨大都市ではあるが、少し郊外に出ると、一転してそこは静かな田園地帯となる。まるで時間が止まったかのような、のどかな風景がどこまでも続いていた。
ところどころにネットを張った池が見える。ニーナが言うには海老を養殖しているとのことだ。
やがて、ニーナの運転するSUVは大学に着いた。市街地のキャンパスが手狭になったので、郊外に一部の機能を移転中のようだ。建築中の建物も多い。
少し早く着いたので車の中で時間待ちをし、午前十時ちょうどに伊崎睦夫を訪れた。ニーナは車で待っていると言う。
「伊崎先生、おはようございます」
「おお、早奈君か、よく来たね。そちらは桐島隼人君だったかな」
「はい。先生、お時間を取って頂いてありがとうございます」
隼人は伊崎睦夫と話をするのは初めてだ。
「それで……、どういった用件なのかな?」
ソファに腰を掛けると、早速、伊崎睦夫が問うてきたので、早奈が質問を始めた。
「今日は父の正一郎のことを伺いたくて、お邪魔しました。どのようなことでも構いません。父が生前、どんな仕事をしていたのか、教えて頂けませんか?」
「えっ? バンコクまでわざわざそのために来たの? そりゃ大変だね。どうしてまた今頃、多岐川さんのことを?」
「昨年、姉の美奈が亡くなったことに関係しているのですが、詳しいことは申し上げられないのです」
「まあいい、早奈君は、多岐川さんのことをあまり知らないと言っていたからね。と言っても、僕もあまり覚えていなくてねぇ。なにせ、二十年以上も昔のことだからね、彼が大学を飛び出したのは……。それからは、つき合いがないんだ」
「このタイで、父はどのような仕事をしていたのか、ご存じありませんか?」
「彼は、バイオエタノールを作るための新種の菌探しをやっていてね。それでタイにもやって来たんだよ。でもそれも実現しないまま、亡くなってしまった。早いものであれからもう十一年だ」
「父はセルロースを分解する菌を見つけたって聞いたのですが、それは本当なのでしょうか?」
「いやぁ……、それは怪しいな。和賀寺さんだろ、そんなこと言ったの」
「いえ、それは……」
「まあいい、誰に聞いたかなんて関係ない。それは違うよ。少なくとも、僕はそのような菌は一度も見たことない」
「父は菌を見つけたのではないのですか?」
「初めは、京都北部の村で見つけたって大騒ぎしたけど、公開実験は見事に失敗だった。次は十四年位前かな、タイで見つけたって大騒ぎしたけど、それも結局は証明出来ずに亡くなった。僕はタイで見つけた菌もセルロール分解菌ではなかったと思うがなあ……」
日本で和賀寺永昌から聞いた話とは、言うことがずいぶんと違う。
「京都で見つけた菌は、公開実験の時には、誰かにすり替えられていたと聞いているのですが、伊崎先生は何かご存知ないですか」
早奈がかなり露骨に菌のすり替えの質問をしたが、伊崎睦夫は顔色一つ変えない。
「それも和賀寺さんから聞いたのだな。僕は違うと思う。もし、すり替えられたと思うのなら、その犯人を探すべきだ。それもしないで、なぜ大学を辞めたのか? 早奈君の前で言い難いが、やなり、その菌は偽物だったのじゃあないかなと疑わざるを得ない」
伊崎睦夫はニヤッと笑って答えた。
「タイで見つけた菌も能力は発揮しなかったのですか?」
「ああ、はっきり言って発揮しなかった。それは僕が確認したよ。多岐川さんは、タイのどこかで見つけた菌の培養をこの大学でやろうとしていた。ここで菌の培養を成功させて、ちゃんとした機関のお墨付きが欲しいと言っていたな。でも、その前に亡くなってしまって、僕が多岐川さんが持ち込んだ菌の評価をやらされたよ」
「伊崎先生が、ですか……」
「その頃、僕も、ちょうど、この大学に滞在していたからね。大学に頼まれて菌の評価をやった。何の能力も発揮しなかったな、あの菌は……」
早奈はじっと耳を傾けている。
「僕も嘘はつけないからね、大学にはありのままの報告をしたよ。しかし、あれは情けなかったな」
「そうですか……」
伊崎睦夫は和賀寺が言っていた通り、多岐川正一郎がセルロース分解菌を見つけたことを認めるつもりはないようだ。