小矢部家の悲劇(二)
もう半世紀以上も昔の話である。
鉄平の祖父・小矢部金吉は、横浜の貿易会社に勤めていたが、今から六十一年前、その会社を辞め、念願の小矢部輸入食品株式会社という輸入食品を専門に扱う会社を日本橋に立ち上げた。
主に、フランス料理用の高級食材や、ワインを輸入販売する会社で、折からの高度経済成長の波にも乗って、経営は順調に推移し、七年後には早くも全国展開も行った。大阪、名古屋、横浜、神戸、博多と店舗を拡大していったが、どの店でも金吉の持つ食材や酒類、特にワインに対する目利き力と信用が買われ、品物は引っ張り凧であった。
金吉は、三十一年の長きに亘って小矢部輸入食品株式会社の社長を務めたが、三十年前、売り上げが五十億円を突破したのを機会に、社長の座を娘婿の小矢部健司に譲った。
時を同じくして円高とデフレがやってきた。仕入れ値が下がり、輸入食料品への需要が急激に高まった。健司はこの波をうまく捉え、社業をますます発展させた。誰もが、小矢部輸入食品株式会社の輝かしい未来を信じて疑わなかった。
事件が起こったのは、小矢部健司が社長に就任して五年目のことである。初代金吉の時代から番頭役を務めてきた副社長の石松三郎が、今後の新店舗建設用として、計画の三倍余りの土地を無断で調達したのだ。
社長の小矢部健司が、気づいた時にはもう手遅れだった。土地は暴落を始め、石松三郎が購入した土地の莫大な評価損が出る羽目となった。
石松三郎は責任を取って会社を去ったが、小矢部輸入食品株式会社には、石松三郎が銀行から借りた二十億円もの借入金が残った。無借金経営を続けてきた小矢部輸入食品株主会社に初めて発生した多額の負債である。
しばらくして、銀行から借入金返済の要求がきた。さらにその債権を買い取ったという闇金融が会社に押しかけ、連日のように、その返済を激しく迫った。従業員や役員の中には家にまで押し掛けられた者も出てきた。
闇金融に激しい嫌がらせを受けた取締役は、健司の責任をいっせいに追及し出した。金吉が他界すると、健司への責任追及の声は一層激しさを増し、もはや健司の味方をするものは誰もいなくなった。
新店舗拡大に多額の投資をしたばかりで借入金の返済に充てる手元資金はない。借入金返済を目的とした新たな借入れや資産売却、増資は他の取締役がこぞって反対した。彼らを解任すると会社が回らない。結局、小矢部家が闇金融の要求を飲んで、会社の経営権を手放すことでしか、解決の道は残されていなかった。
問題はこの後である。金吉から全財産を相続した金吉の妻・清美と健司の妻・千恵子が相場よりはるかに安い金で株式を手放した後、その株式はいつの間にか、責任を取ってやめたはずの石松三郎の名義となり、彼が社長の座につくことになったのである。
闇金融から石松三郎に、ただ同然の安値で小矢部輸入食品株式会社の株式が渡ったのだ。闇金融からの借入金返済要求は、ピタッと止まった。小矢部輸入食品株式会社には、石松三郎が銀行から借りた借入金がそのまま残ったが、それを誰も問題にしなかった。
石松三郎と他の取締役による、絵に描いたような会社乗っ取り劇である。
このストーリーを描き、それぞれの役割と立ち回りの内容を決め、最終的に小矢部家から石松三郎にわずかな金で経営権を移すよう仕向けたのが、小矢部輸入食品株式会社の当時の総務部長、太田虎之助だ。
土地の資産価値が下がったとは言え、運転資金はまわっており、急いで借入金を返済しなければいけないような状況ではなかったし、実は銀行からの返済の催促はなかったのである。
それを太田虎之助が、あたかも銀行が取り立てを急いでいるかのように情報操作を行い、闇金融に取り立て屋の役回りを演じさせ、徹底した嫌がらせによって、会社を手放さなければ、倒産必至と小矢部家に思い込ませたのだった。
もちろん石松三郎とグルになって、彼から何らかの見返りが約束されての話である。
社長の小矢部健司が、自ら銀行との関係作りをやっていれば、防げた乗っ取り劇である。しかし、石松三郎以下古参の取締役は、健司には銀行に手が出せないようにしていた。
小矢部輸入食品株式会社は、石松フーズ株式会社と名前を変え、総務部長だった太田虎之助も取締役として経営の一角を担うに至ったが、その後、すぐに太田虎之助はOT興業という自分の会社を設立し、石松フーズから独立した。二十三年前のことである。
表向きは不動産売買や不動産開発を行う会社となっているが、実態は誰も掴めていない。
鉄平の父・小矢部健司は、しばらくして日本を飛び出し、妻の千恵子と生まれたばかりの鉄平を連れて、世界中を転々としたが、鉄平が十一歳の時に交通事故で亡くなり、母親も昨年、病気で亡くなった。
これは、母親の小矢部千恵子と鉄平の祖母に当たる小矢部清美から、鉄平が何度も聞かされた話である。