小矢部家の悲劇(一)
しばらくして、山森飛馬が大きなキャリーバッグを転がして、小矢部鉄平の家を訪ねてきた。東京は桜が満開だ。
「飛馬、よく来たな。まあ上がれ」
小矢部鉄平は杉並区の荻窪に住んでいた。一人で住むには広すぎる豪邸であったが、友人が訪ねてくるのは初めてだった。
鉄平の父親は十一年前に事故で亡くなり、母親もその後、すぐに精神的な病を患って入院生活を続け、昨年亡くなった。鉄平は父親が亡くなった後、この大きな家で、少年時代を一人で過ごしてきたのだ。
祖父が残した資産を引き継いだので、金に困ることはなかったし、住み込みで家事を見てくれた時子さんがいたので、普段の生活に困ることもなかったが、その時子さんも母親の後を追うように、昨年亡くなった。
大学に入ってからである。山森飛馬がどういうわけか、そんな鉄平にしきりと声をかけてきた。体育会系の彼はいつも明るくおおらかで、大雑把なところもあったが、嘘のない素直な青年だった。鉄平もいつしか、彼には心を許すようになった。
「鉄平、これはあの時の礼だ。両親がどうしても、おまえに渡してくれって言ってなあ。おまえは俺たち一家全員の命の恩人だ」
飛馬が転がしてきたキャリーバッグの中には、山森牧場の牛乳とヨーグルトが山盛り入っていた。それと、「これは妹の由紀からだ」と言ってチョコレートが手渡された。
「これもおまえの家で作っているのか?」
「これはな、由紀が街まで買いに行ったものだ」
「悪いな。よろしく言っておいてくれ」
鉄平は素直に礼を言った。
「自分で言ったらどうだ、鉄平。いつでも紹介するぞ。そうだ、今度、家に来い」
飛馬が嬉しそうに言うが、鉄平はどう切り返せば良いのか、わからない。モゴモゴと口ごもると、飛馬が豪快に笑った。
「ところで飛馬。おまえの家を襲った犯人だが、警察の取り調べで、どんな奴なのかわかったのか?」
鉄平が先日の山森家襲撃事件に触れてきた。
「それがなあ、鉄平。よくわからんのだ」
飛馬が言うには、逮捕された襲撃犯五人は全員が金で雇われた者で、雇った人物は、彼らに自分のことをオニと呼ばせていたことがわかった。またそのオニが、釧路市内から携帯電話を使って彼らを指揮していたこともわかった。しかし、オニが使っていたのは飛ばし携帯で、身元の特定は出来ていない。もちろん、オニとOT興業との関係もわからない。
警察はまた、任意でOT興業の取り調べも行ったが、いくら調べてもOT興業とオニとの関係を匂わす証拠は、出てこないと言う。
鉄平の思った通りだった。
「やはりなあ。OT興業の犯行は、実行犯の背後がいつも見えない。実行犯を指揮していたのは、実はタケチという男で、オニってのはタケチが仕組んだダミーだ。しかし、このタケチってのが、どうもよくわからない。何て言うか、亡霊のような奴なんだ」
飛馬は怪訝な顔をしている。
「いつも見えない? 亡霊のような奴? どういうことだ? 鉄平、意味がわからんぞ。OT興業は、そのう……、タケチって男と組んで、同じようなことをあちこちでやっているのか?」
「俺が知っているだけで、十件はある」
鉄平はこの三か月間の盗聴で、OT興業はタケチと組んで、少なくとも十件の暴力事件を起こしていることを知った。その全てにおいて、タケチの名前は表には出ていない。
「なあ飛馬、当たり前だが、俺たちは、身の安全が社会によって保障されているという前提で日常の活動をやっている。しかし現実は、決してそうではないということを知っておいた方が良いぞ」
鉄平の言うことは正しいのだろうと飛馬は思った。今回の山森家襲撃事件でも、実行犯の背後はわからず、黒幕の太田虎彦やタケチは無傷だ。新たな実行犯を仕立てて、また襲ってくる可能性は十分にある。
「ところで鉄平、おまえ、なんでそんなことを知っている? やけにOT興業に詳しいな。どうして、俺の家が襲撃されると、おまえはわかったのだ?」
飛馬が鉄平の痛いところを突いてきた。こういう時の飛馬は、後ろに引かないことを鉄平はよく知っている。
「どうした、鉄平。おまえ、何か人に言えないことをやっているだろう。いいから話せ。一人で抱えるな」
飛馬がさらに突っ掛かるように鉄平に迫ってきた。飛馬に彼の家が襲われることを教えた以上、もう彼に盗聴のことを黙っているわけにはいかない。鉄平は観念して、全てを打ち明けることにした。初めに口にしたのは、小矢部家の暗い過去である。
「飛馬。あいつらはなあ、俺の家族を滅茶苦茶にしやがったんだ」
それは飛馬の想像をはるかに超える悲惨なものであった。