釧路行き最終便
チャイを探しにタイに飛び立つことを決めた多岐川早奈と桐島隼人であったが、二人のタイでの奮闘記に移る前に、ここで少し時間を巻き戻して、この事件の鍵を握るある人物について触れておこうと思う。多岐川美奈が殺害された日の夜、東京・麹町のOT興業に忍び込み、盗聴器を仕掛けた小矢部鉄平である。
彼がどのように事件に絡んでくるのか? 時間は九ヶ月前の三月十三日に遡る。
三月十三日 午後六時
小矢部鉄平が、麹町のOT興業に盗聴器を仕掛けてから三ヶ月ほどが過ぎた三月十三日の夕方、彼は雲の上にいた。羽田発釧路行き最終便の中である。
鉄平は焦っていた。その日の昼過ぎ、いつものように盗聴器から流れてくる音声を聞いていると、突然、彼のよく知っている名前が出てきたのだ。
『オオタ、北海道の山森の牧場の件だが、親父への説得はどうなった?』
『それが……、タケチ。どうも、うまくいきそうにない。山森の親父が思ったより頑固でなあ……。買い手はいつまで待ってくれそうだ?』
『今日、先方から連絡があったが、あと一週間で色よい返事が聞けないなら、他を当たると言ってきた。あそこが買収出来ないと、他もうまくいかないぞ』
『悪いな、タケチ。このまま説得を続けていても前に進みそうにない。少し脅してくれないか?』
『そうか、仕方がない。方針変更だ。あの親父が売る気になるまで、痛めつけてやることにする』
『悪い、そうしてくれ。現地には、もうみんなを集めているのか?』
『ああ、いつでもオーケーだ。俺も今から釧路に飛んで、あいつらの指揮を取る。早速、今夜から襲撃開始だ。それでいいな? オオタ』
『わかった。了解だ。おまえが指揮を取ってくれるのなら安心だ。いつも手荒なマネをさせて悪いな、タケチ』
『気にするな。これが俺の性分だ』
会話はここで終わっていた。オオタと言うのは鉄平の盗聴相手の一人、OT興業の専務取締役・太田虎彦のことだ。タケチという男のことはよくわからない。OT興業の従業員ではないが、太田虎彦の会話の相手としてよく登場する。
そして彼らが、今夜襲うと言っている山森というのは、鉄平と同じ大学に通う山森飛馬の実家のことだ。
飛馬の実家は北海道で酪農を営んでいるが、最近、OT興業による牧場の買収攻勢にあっていると聞いていた。その説得がうまくいかないために、太田虎彦とタケチが飛馬の家を襲撃する相談をしているのだと、鉄平はすぐに気が付いた。
急いで飛馬と連絡を取ろうとしたが、彼は春休みで帰省している。電話をかけたが圏外なのか、電源を切っているのか、いっこうに通じない。住所を頼りに、家に行った方が早いと思い、釧路行き最終便に飛び乗ったのだった。
「釧路到着は十九時半か。そこでもう一度、電話してみるか。だめなら……」
鉄平は、今日中に連絡を取るのが難しければ、北海道警に駆け込んで、飛馬たちの保護を頼むつもりでいた。
「その時は、盗聴のことも全部話すか……」
鉄平はそれも仕方がないと思った。
三月十三日、午後七時
鉄平が釧路行き最終便の中でやきもきしている頃、山森久太郎の家では息子の飛馬が春休みで帰省し、久しぶりの親子水入らずの夕食で賑わっていた。
「親父、今日もOT興業がやってきたのか?」
夕食の後、飛馬が父親の山森久太郎に尋ねた。
「そうなんよ。何度、断ってもやってくるんよ、あの人たち。ほんと、しつこいよ」
久太郎に代わって、長女の山森由紀が答えた。
山森家は、北海道道東の中心都市、釧路市から車で一時間ほど内陸部に入った釧路湿原の北方にある。由紀の曽祖父の頃からの酪農家だ。
この辺りでは中規模の酪農業を営んでいるが、最近になって、東京に本社を置くOT興業という会社から、牧場の買収の話が持ちかけられた。
久太郎はその場で断ったが、彼らはあきらめずに何度も家に通って来ると言う。
「どうして、それほどまでにこの牧場を手に入れたいのか、さっぱりわからん。彼らはうちだけじゃなくて、あちこちに声をかけているみたいだ」
久太郎が不思議そうに言うと、飛馬が反応した。
「親父、日本にいるとよくわからんが、今、日本の食材は世界中で引っ張りだこなんだ」
「そうなのか?」
「世界中の人口が増えて、安全な食をどう確保するか、どの国も頭を悩ましている。日本の農産物への関心は高いぞ。美味いし、何より安心だからな……」
「しかしなあ、飛馬。あのOT興業ってのは駄目だ。真面目に牧場を経営しようという気持ちが感じられん。金儲けのことしか、考えとらんような気がする」
「転売目的かも知れないな。最近、廃村になった日本の農村や漁村を丸ごと安く買い取って、労働者を付けて外国資本に売りつける輩がいるみたいだぞ」
「日本の廃村を買う奴がいるのか? そんなのを買って儲かるんか?」
「日本で農産物や海産物を確保して、世界中に流通させるんだ。日本産というだけで、けっこう高値がついて、儲かるみたいだ。最近、その動きが加速しているみたいだな」
「働き手も海外から連れてくるんか?」
「日本人の雇用が難しい場合は、連れてくるみたいだ」
「世の中、変わったな」
「ああ、変わった。確実に変わった。もうすぐ世界の人口は八十億を超える。日本人は、外国からいくらでも食べ物が手に入ると思っているが、もう限界だ。これからは難しくなるぞ」
「海外からの食料調達は難しくなるし、国内の農産物は、気がついた時には外国資本に押さえられて、そのうち、にっちもさっちもいかなくなる日が来るってことか……」
「うちへの買収攻勢も、多分その一環だ。畜産にまで手を出してきているんだ。親父、うちの牧場は、そんな転売目的の怪しい奴らには絶対に売るなよ」
「当たり前よ、売るはずないじゃないの。それに、この辺りは廃村になんかならないわよ。どこの牧場にも後継ぎがいるし、うちも飛馬が後を継ぐんでしょう」
母親の久美子も会話に加わってきた。
「うちの牧場は、しっかり俺が後を継ぐぞ。由紀も一緒にやるか……」
飛馬は、大学では畜産学科を専攻しており、卒業後は父親の後を継いで、酪農の仕事に従事したいと考えている。妹の由紀もいずれは酪農の仕事に就きたいと思っているが、兄から急に話を振られて返答に困った。彼女の今の関心事は、まずは大学進学だ。
その時、飛馬に電話が掛かってきた。小矢部鉄平からだった。
『飛馬? 俺だ。小矢部鉄平』
「おう、鉄平。悪いな、何度も電話をもらったみたいで……。俺の携帯、壊れちまってなあ、さっき直ったばかりだ」
『飛馬、いいか、よぉく聞け。おまえの家の牧場、確かOT興業から買収の話があるって言ってたよな』
「今もその話をしていたところだ。それがどうかしたか?」
『今晩、OT興業に金で雇われた連中が、おまえの家を襲撃する。脅すのが目的だが、やり方は手荒い。素人じゃない。その道のプロだ。すぐに警察に言って保護してもらえ』
「鉄平、おまえ、どうしてそんなことがわかった?」
『それは聞くな、飛馬。相手は人を殺すこともなんとも思っていない危ない連中だ。警察にも俺から聞いたってことは、言わないでくれ。わかれば俺が殺される』
「わかった、鉄平」
『飛馬、絶対に自分で何とかしようと思うな。おまえでも無理だ。警察が動いてくれなければ、どこか安全な場所に逃げろ』
「わかった。警察に通報して、それからまた連絡する」
飛馬はその後、鉄平から聞いた内容を父親の山森久太郎に伝え、久太郎は北海道警に保護を要請した。