和賀寺永昌に会う(二)
「早奈さん、誤解しないで欲しいのだが、あなたのお父さんが公開実験をやったのは、決してパフォーマンスなんかではない。彼は大学でプロジェクトを立ち上げて欲しかったのだよ。実用化が早く進むように……。とにかく、立派な人だったよ。伊崎君とライバル関係という人もいたが、器が違ったな。大学の評価も学会の評価も、多岐川さんの方が圧倒的に上だった」
和賀寺永昌は、どうも、伊崎睦夫のことは良く思っていないようだ。
「こういうことを言うのはどうかと思うのだが……、多岐川さんと伊崎君は、歳が五つしか離れていない。研究分野も同じでね、将来、多岐川さんがこの大学で教授になると、伊崎君の教授の目はなくなる。そこで、圧倒的に評価が高かった多岐川さんを追い落とすために、伊崎君が菌をすり替えたのではないかと勘ぐる輩が大勢いた」
早奈は、次第に当時の状況が見えてきた。
「伊崎君には申し訳ないが、僕もその一人だ。伊崎君がやったとしか思えないのだよ。しかし、多岐川さんは、誰が菌をすり替えたのか、そんなことにはまったく関心を示さなかった。僕は多岐川さんともっと一緒に仕事がしたかったよ。早奈さん、あなたのお父さんは、裏表も嘘もない、本当に気持ちの良い科学者だった」
和賀寺は、伊崎に対して言い過ぎているのを百も承知で言っている。それだけ、多岐川正一郎という人物に思い入れがあったのだろう。
「その後、多岐川さんはタイでも同じような菌を見つけたと聞いたが、僕はそちらの方はよく知らない。菌を見つけた村に三年以上滞在し、それからタイ自然科学大学に研究拠点を移したと聞いている。当時、伊崎君もその大学にいたので、彼は詳しく知っていると思うが、本当のことは言わないだろう」
「それは、どうしてですか?」
「伊崎君は、多岐川さんに強烈な対抗心を持っていた。今でも、多岐川さんを貶めることを平気で言うからね。多岐川さんがタイで菌を見つけていても、伊崎君は絶対にそれを認めないと思うよ」
早奈は和賀寺から父親のことが聞けて嬉しかった。多岐川正一郎への思い入れの激しい人物だが、結構、真相に近いところを見抜いているのではないかと思えた。
父・多岐川正一郎は、二十一年前に、京都北部の山村で、セルロースを分解する新種の菌を見つけていたのだ。そして、公開実験の前に、誰かが菌をすり替えた。
その一見些細に見える犯罪行為が、一年前の美奈殺害にまで続く、全ての始まりではないのか……、早奈にはそう思えてならなかった。
「多岐川さんが亡くなって、セルロースを分解する菌を見つけてやろうという人もいなくなってね。我々は方向を変えて、新種米の開発に取り組むことにしたのだよ。米の糖分を高めてアルコール化率が上がれば、それはそれで、世の中への貢献度は非常に高いと思うよ」
「その新種米の実証試験が、今回、経済産業省から助成金を受けて進められるプロジェクトの内容なのですね」
「そうだ。早ければ、来年の四月からスタートするよ」
「新種米の実証試験はタイのどこでされるのですか?」
「実証試験をやるのは、タイ東北部のイサーン地方というところだ。多岐川さんがセルロース分解菌を見つけたのはタイ北部だと聞いている。プロジェクトではセルロースも扱わないし、多岐川さんとは関係ないと思うのだがなあ」
「そうですか。よくわかりました。ありがとうございました」
真夜中に大学に侵入した不審者が、和賀寺の資料を盗み出した理由は、結局、よくわからなかった。しかし、そのようなことは、もう、どうでも良いことのように思える。
和賀寺は実に気持ち良く、早奈と隼人が聞きたい情報を出してくれた。
早奈は和賀寺の資料にアクセスするという姑息な手段を使わなくて良かったと思った。落合真由美に頼まなくて良かったとも思った。和賀寺の資料ではなく、和賀寺の話に貴重な情報がたくさんあったのだ。
二人は礼を言い、深々と頭を下げて、部屋を退出した。
春山多恵子もドアまで見送ってくれた。
「早奈ちゃん、また遊びに来てね。一度、早奈ちゃんとゆっくりとお話したいわ。そう言えば、伊崎先生はしばらく海外ね。じゃ、また連絡するわ」
早奈は春山多恵子にも深々と頭を下げた。
「伊崎先生は怪しいな」
廊下を歩きながら、隼人が早奈にぽつりと言った。早奈も同感だ。
「そう言えば、早奈の両親が亡くなったのもタイだったよね」
「確か、タイの北の方だった。なんでも乗っていた車が、大きなトレーラーとぶつかって崖の下に転落したんだって。もう十一年以上も経つんだね。確か九月頃で、タイはすごく暑かったのを覚えている」
「大変だったな。美奈が十八歳で、早奈は十五歳の時か……」
「私は、茜ばあさんと美奈にくっついて行っただけ。それほど大変でもなかったよ。ところで、隼人は昨日、あれからどうした?」
早奈は昨日の隼人の行動が少し気になった。
「俺か? 俺も早奈と同じだ。四条烏丸のセントラルホテルに泊まったぞ」
「はあぁ……?」
「美奈を殺した犯人が、まだ、街をウロウロしているんだ。一人で放っておけるかよ」
「それって、ストーカーじゃない?」
隼人の気持ちは嬉しかったが、早奈は何か気に食わない。
「そりゃそうだけど……」
「どうして、私のいるところが、わかったの?」
「早奈が飛び出した後、和賀寺先生に今日のことをお願いして、それから、車で美奈の墓に行ったんだ。そうしたら、案の定、早奈が現れて……。そこからは車を置いて、歩いて早奈の後をついて行ったんだ」
「ふうん。そうなんだ」
その時に声を掛けられても、早奈はどう振る舞ったら良いのか、わからなかっただろう。色々と思うところはあるが、黙って見守ってくれた隼人に、とりあえずは感謝といったところか……?
「ところで、美奈がチャイから受け取ったノートには、セルロースを分解する菌のことが書いてあるんだね」
「親父さんはタイでもセルロース分解菌を見つけたんだ。あのノートには、その培養方法が書かれているんだろう。ハードディスクには、膨大な実験データが保存されているんだ」
犯人の狙いが次第に明確になってきた。
セルロースを分解する菌の現物が手元にあり、その培養条件を記した研究ノートと実験データがあれば、それは、今すぐにでも数十億円の現金に換わるだろう。もし、実用化されて、バイオアルコールとしてのビジネスが始まれば、数兆円を超える市場となることは間違いがない。
美奈を殺害した犯人は、恐らく研究ノートのコピーと実験データを手に入れた。あとは菌そのものを奪うことだ。そう考えると、チャイが言っていた「自分の村は世界中から狙われる」という大袈裟な言葉も、よく理解が出来る。多岐川正一郎がセルロース分解菌を見つけたタイ北部の村とは、チャイの村だ。そして、その菌は、今でもチャイの村にある。
「早奈。俺さあ、タイに行って、チャイを探してくるわ」
「何、それ? またまた自分だけが行くみたいなこと言っちゃって……。私も行くからね。絶対……」
「外国だし、危ないぞ。それに、めちゃくちゃ足手まといになるから、早奈は日本に残れ」
「何言ってんのよ。一人で日本に残る方が、危ないじゃない。それに、伊崎先生にも話を聞かないといけないでしょ。伊崎先生、私が行かないと絶対に会ってくれないよ。隼人だけだったら絶対に無理。ねえ、どうする?」
ここは引いてはいけないと早奈は頑張った。
結局、早奈が隼人を押し倒し、二人でタイに行くことになった。出発は三日後の十二月十四日、伊崎睦夫との面談のアポも取れた。