早奈と隼人の確執
早奈は一人で街中を歩いていた。
珍しく隼人が感情的になった。生まれて初めて隼人に怒鳴られた。
しかし、あれは隼人の本心ではない。あいつは意図してあの場をぶち壊そうとしたのだ。早奈も途中からそれに気が付いて、隼人に付き合った。
ただ、隼人はなぜあの場をぶち壊そうとしたのだろう? それがよくわからない。
「まっ、そんなことはどうでもいいっか」
後から隼人に聞けば済む話だ。ただ、少し腹が立つだけである。
それより、悩ましいのは和賀寺永昌の資料をどうするかだ。
和賀寺のパスワードを使って、資料を盗み見てはいけないのだろうか?
浅井和宏に全てを話して、調べてもらう方が良いのだろうか?
早奈の直感は、そのどちらにも、それが正しいというシグナルを送ってこない。
答えが出るまでもう少し時間がかかる、早奈はそう思った。
一時間以上歩いただろうか。いつの間にか、美奈の墓まで来ていた。美奈にどうすれば良いのかを聞くと、美奈が困った顔をした。
自分で考えろ……、そういうことか。早奈はまた歩き出した。
冷たい風に身体が芯まで冷えて、己れの感性が研ぎ澄まされるのを待った。
空が夕焼けで赤く染まっている。赤く色づいた景色が、次々とスローモーションのように後ろに流れてゆく。大勢の通行人の話し声も、車が通り過ぎる音も、何も聞こえない。ただ、静寂だけが支配するオレンジと赤の世界に早奈はいた。
途中、何人もの男が声をかけてきた。誰一人、良い男はいなかった。
早奈は歩いた。寒い北風の中をどこまでも歩いた。
鮮やかな赤色が、やがて黒みがかった赤に変わり、そして、いつの間にか、暗闇がやって来た。それでも、早奈はひたすら歩いた。今、どの辺りを歩いているのだろう。
もう一度大学に戻って、和賀寺のフォルダーに侵入して、資料を盗み見るか……。
あるいは、全てを警察に話して、後は警察に任せてしまうか……。
そのいずれも、それが良い事のようには思えない。
あるいは、もう一度、落合真由美に頼むか……。
今、隼人と顔を合わせても、どう振る舞えば良いのかわからなかった。通りすがりのホテルに部屋を取り、一人で食事を済ませ、そしてぐっすりと寝た。
隼人からも落合真由美からも連絡はないし、早奈も連絡はしなかった。
翌朝、ホテルを出た早奈は、洛西大学エネルギー科学研究センターにむかった。玄関から入って階段を二階まで上がった。時計を見ると午前十時前だ。
二〇三号室まで来て、ドアをノックすると、中から「どうぞ」という声が聞こえてくる。早奈はドアを開けて中に入った。
「おはようございます。先ほど、お電話した多岐川早奈と申します」
「やあ、おはよう。あなたが多岐川さん? 伊崎先生から、よくあなたの話を聞いていますよ。さあ、どうぞ」
丸顔で、頭にほとんど毛髪というものがない恰幅の良い中年の男性が、早奈を招き入れてくれた。
早奈が訪ねたのは和賀寺永昌、真夜中の侵入者が盗み出した資料の持ち主だ。
ホテルで一晩寝た早奈が出した答えは、和賀寺永昌に会って話を聞くというものだった。それで駄目なら警察に頼めば良い。落合真由美に頼むという選択肢は、完全に消えていた。
和賀寺の部屋に入ると、ソファに誰かが座っている。先客がいるようだ。
「なんで、ここにいるのよぉ」
その人物を見て、早奈は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
ソファに座ってにやにや笑っているのは、隼人だった。
「昨日、あれから先生を訪ねて、お願いしたんだ。多岐川早奈っていう伊崎先生の秘書からアポの申し入れがあると思うので、ぜひ会って、話を聞いてやって欲しいって……」
隼人は、自分も同席させて欲しいとも言ったようだ。
「そうしたら、今朝、秘書の方から連絡があったんだ。十時に早奈と約束したってね。それで俺もすっ飛んで来たってわけ」
しゃあしゃあと言う隼人に、早奈の気持ちは収まらない。
「何が、すっ飛んで来たってわけよぉ。それなら、私に言えばいいじゃないの。そんな回りくどいことをしなくても……」
「早奈がどういう答えを出すのか、わからなかったから、様子を見ようと思って……」
早奈の出す答えがわからなければ、和賀寺に同席させて欲しいなどと、頼んだりはしない。隼人は、早奈の答えを早奈より先に読んで、動いているのだ。
早奈はそれも気に食わない。ぶすぅっとしていると、和賀寺の秘書の春山多恵子が、羊かんとお茶を出しながら仲裁に入ってくれた。
「まあまあ、喧嘩なら外でやって下さる? 早奈ちゃんの恋人? 仲が良いのね」
早奈は、はっと我に帰った。春山多恵子のことはよく知っている。大学の事務に詳しいベテラン秘書で、早奈も彼女に教えてもらうことが多かった。
「でも、早奈ちゃん、いつも元気ね」
春山多恵子が早奈を揶揄するように言った。
このセンターで新参者の早奈は、目立たないように猫をかぶっていたのに、それがばれてしまった。早奈は顔が真っ赤になった。早奈がゆっくりと赤い顔を上げると、にこにこ笑う春山多恵子の後ろにもう一人、若い女性の姿が見えた。
「彼女はマリア・スコットさん。もうすぐ大きなプロジェクトが始まるので、彼女にも事務の仕事をやってもらうことにしたんだって……。イギリス系のタイ人でタイ語と英語と日本語がペラペラ。早奈ちゃんもよろしくね」
マリアは早奈と隼人ににこっと微笑んで、手を差し出してきた。
「ところで、どういった用件なのかな?」
和賀寺が人の好い顔を早奈に向けて尋ねてきた。それで早奈と隼人の確執は、完全に後回しとなり、二人は本題に入ることにした。




