ゴブリンの森:3
見張り場に比べ、ゴブリンの巣は簡単に見付かった。頻繁に通ることで草が十分に踏み固められ低い枝が折れた、所謂獣道ができつつあったのだ。それを辿ったところ、こうして巣に行き着いたのである。
だが巣の発見は簡単でも、そこから先は簡単ではない。巣は木を切り倒したか掘り返したかして空けた広い空間に作られていた。
そこが自分たちの領土であると示すように、斜めに組んだ木の杭をびっしりと並べて作られた柵。その内側には物見櫓代わりの木が幾つか残されており、その枝には小柄なゴブリンの姿が見える。柵には門がひとつだけ設えてあり、門の両脇には先ほど見張り場で倒したものより二回りは大きなゴブリンが、石の斧と槍を持って立っていた。
「実にわかりやすく『巣』だな」
「ゴブリンって、こんなものも作れるのか……」
「ゴブリンの質にもよるがね」
その、外見だけは自分の住む村とそう変わらない巣を見て、ジャックは心底驚いた。ゴブリンはずる賢く、そして器用な魔物である。そう聞いたことはある。だがそれは、飽くまで魔物としては、という程度だと思っていた。こんな、人間のそれに迫る知識と技術を持っているとは全く想像していなかったのだ。
「が、こいつは明らかに質が良すぎる。ぽっと出の連中が用意できる代物じゃねえな」
「え?」
「行くぞ。侵入場所を探す」
「あ、ああ」
旅人が憎々しげに何事かを呟いたが、ジャックは聞き逃した。身を翻した旅人について行く。今居る場所は、一歩草陰から出れば巣から丸見えだ。それはどこも同じだが、櫓の場所が悪い。こちらが見える櫓ができるだけ少ない場所が望ましい。
「どう攻めるんだ?」
「まず櫓を潰す」
旅人は事も無げに言った。
「少年、ここから弓であの櫓に居る奴は射られるか?」
「え? まあ、多分……いや、できる」
「よし。じゃあ少年はここに残れ。俺が向こうの櫓を落としたら、同時に撃て」
「わ、わかった」
ジャックの言葉に旅人は頷き、別の地点へ走る。本当は、ジャックはあまり自信はなかった。距離は約15メートル、遠いわけではない。だがこの暗さに、初めて使う弓と矢。それでも、できないとは言いたくなかった。足手纏いではないと示したかった。良いところを見せたかった。子どものちゃちなプライドであった。
「やるぞ……」
呟いて、己を奮い立たせる。少し離れた所にある草むらを見る。姿は見えないが、そこに旅人がいる。弓に矢を番え、引き絞る。呼吸を整え、『合図』を待った。
「……っ!」
旅人が草むらから飛び出し、櫓に襲いかかる。同時に指を離す。放たれた矢は空気を切り裂きながら飛び、櫓に居るゴブリンの首……そのすぐ横の幹に突き刺さった。
「ギッ!?」
「っ!」
しまった。そう声を上げそうになった口を慌てて閉じ、次の矢を番えようとする。その時には既に、ゴブリンの首にナイフが突き刺さっていた。
「グ、ギ……!」
断末魔もあげられず、ゴブリンが櫓から落ちる。旅人は襲いかかった櫓の上からナイフを投擲していた。ジャックから見て反対側の櫓のゴブリンも、それで絶命した。
(来い)
旅人が手振りで示す。ジャックは草陰から出て、柵代わりの杭を慎重に乗り越える。その横に櫓から降りた旅人が歩み寄る。
「惜しかったな」
「……ごめん。当てられるって言ったのに」
「そうだな」
旅人は死んだゴブリンの首からナイフを引き抜き、血糊を拭いて懐に納める。ジャックは自分が責められなかったことに、却って不安になった。
「……怒らないのか」
「俺はお前の親でも師匠でも上司でもない。相棒が失敗すればカバーする、それだけだ」
相棒。そう呼ばれる資格が自分にあるとは思えなかった。まだ何も役に立っていない。さっきの失敗を取り返したいという想いと、これ以上は本当にただの足手纏いだという不安。今からでも帰るべきかもしれない。だが……ゴブリンは、自分たちの村の問題でもあるのだ。誰かに依頼を受けたのだとしても、旅人に任せきりにするのは嫌だった。
「どうした。行くぞ」
「……ああ」
どちらにせよ、ここは既に巣の中だ。帰るには遅い。進まなければならない。覚悟を決めなければならない。
「行こう」
弓を握り締める。次は当てる。必ず。
今はそれだけで良い。他は後で良い。
ジャックは旅人の背を追う。腰に括られた短剣が、ずしりと重かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
旅人は先ほど言った通り、まず櫓のゴブリンを全滅させた。外からの敵は見張っているが内側はまるで無警戒のようで、大して難しいことではなかった。
問題は次だ。巣の中は葉や草で作った簡素な寝床がいくつもあり、ゴブリンたちが休んでいた。これを虱潰しにしなければならない。
「俺が片付ける。少年は周りを見張ってろ」
そう言って、旅人は短剣を抜き、眠るゴブリンの首に突き立てる。ゴブリンはそのまま永遠の眠りにつき、短剣は血に濡れ、旅人は返り血に染まる。
それを何度も繰り返す。旅人は次々に、音も無くゴブリンを仕留めていく。全部で100匹は居るだろうか。その半分ほどを巡り終えた。
ジャックは巣の中心にある、一際大きく豪勢な寝床を見る。そこで眠っているのは、他の倍はあろうかという身長に丸太のような手足を持つ、巨大なゴブリン。群れのボスだ。傍らにはジャックよりも大きな棍棒が無造作に置かれており、その尋常ならざる怪力を示していた。
もしあのゴブリンと戦えば、この旅人は勝てるのだろうか。素早い身のこなしも鮮やかな短剣捌きも、あの巨大なゴブリンに通用するのだろうか。
ジャックは思い出す。幼い頃、一度だけ村に飢えた熊が来たことがあった。その時は村人総出で戦ったが、分厚い毛皮と脂肪と筋肉により、矢も鉈も斧も弾かれ、多くの犠牲者が出た。何度も何度も攻撃を繰り返すうち、次第に熊は弱り、最終的には倒すことができたが、あの時の恐ろしさは強くジャックに焼き付いている。
このゴブリンは、あの時の熊より遥かに大きい。旅人の強さは何度も驚かされたが、それでも小さな短剣で貫けるようには見えなかった。
だがそれも要らぬ心配だ。何せ今、その巨大ゴブリンは眠っているのだから。眠っている間に首を刺してしまえばいいし、刺さらなくても両目を潰したりすればどうにかなるだろう。
そう。眠っている間に。
──ブオオォォォォ……
「……なに?」
突然、どこからともなく、角笛の音が鳴り響いた。森全体に響き渡るような、大きな大きな角笛の音。
そんな音がすれば、必然──
「グ、ギギ……」
「ギャギャ!?」
「ギギギゲゲ、グゲゲッ!」
ゴブリンたちは一斉に起き出し、巣の惨状を見て取り、それをもたらした敵を見付けた。憤怒と憎悪と殺意の視線が無数に突き刺さる。ジャックはガチガチと歯を鳴らし、震える足で後退った。
「……わお」
ドスン。その音は、喧しく喚きたてるゴブリンたちに囲まれながらも確かに聞こえた。群れのボスが起き上がり、棍棒を取って地面に叩きつけたのだ。
「少年……逃げろ」
「グオオオオオオオオッ!!!」
ボスがその巨躯に見合った、荒々しい雄叫びを上げる。ジャックは見栄も勇気も砕かれて、一目散に逃げ出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
少年は必死に走った。恐怖と今までの疲労で足をもつれさせながら、必死に。
後ろからはゴブリンたちの怒号と、断末魔の悲鳴と、巨大な質量が土を砕く音が聞こえる。旅人が短剣を振るい、ゴブリンたちと戦っているのだ。50匹近い大群相手に、たった一人で。
それに比べて自分はどうだ。その旅人を置き去りにして、自分だけ助かろうとしている。
(だって無理だ! あんな化け物、勝てるわけない!)
ジャックは飢えた熊の恐ろしさを知っている。では、熊よりずっと大きい怒り狂ったゴブリンは、一体どれだけ恐ろしいのか。想像したくなかった。だからただ、自分に言い訳をしながら走り、柵を越える。
(あの人なら、きっと上手いこと逃げられる! あんなにすばしっこいんだから、俺を庇いながらじゃなきゃ、ゴブリンにだって捕まえられないさ!)
だから、きっと大丈夫だ。勝てるわけがないのだから、早々に切り上げて逃げ出すだろう。もしかしたら、ジャックが逃げる時間を稼ぐために足止めをしてくれているのかもしれない。だとすれば、できるだけ早く遠くに逃げることが、旅人のためにもなる。
(もっと速く、もっと遠くへ! 走れなくなったら、どこかに隠れてやり過ごそう!)
自分たちが逃げ、探しても見つからなければ、ゴブリンたちは諦めるだろう。それから村へ戻ればいい。こんな恐ろしいことはもう懲り懲りだ。あの平和な村で、退屈で平穏な日々を過ごそう。
(奴らが諦めるまでの辛抱だ! 諦めるまでの! 諦め……る、のか? あんなに、仲間を殺されたのに?)
ゴブリンたちの眼を思い出す。あれは昔にも一度見たことがあった。弟を殺された村の娘が、鍬を手に熊に立ち向かった時の眼だ。太い腕に鋭い爪、大きな顎に大きな牙を持つ熊に、細い手足とボロボロの農具で殴りかかった時の眼だ。鍬を折られ体を引き裂かれのし掛かられ喰われながら、息絶える瞬間まで拳を叩きつけていた時の眼だ。
奴らは、きっと諦めない。もしも自分たちを見つけられなかったら、森には居ないと判断したら。次に襲うのは──
(だ、大体、始めからあのデカい奴を狙えばよかったんだ! そうすれば、後はザコしか残ってなかったのに……っ!)
逃げ出した時のことを思い出す。なぜ逃げられた? 目の前にはあんなにたくさん、ゴブリンが居たのに。
旅人が足止めしてくれたから? それもあるだろう。だがその前に、旅人は予め、逃げ道を作っていたのだ。寝ているゴブリンをわざわざ端から片付けていったのは、囲まれないようにするためだったのだ。もしこうしてゴブリンたちが目覚めた場合、自分だけでも逃がすためだったのだ。
(でも……でも、しょうがないじゃないか! 俺が何の役に立つって言うんだよ!)
危険なゴブリン退治に勝手について来た子ども。身の程をわきまえずワクワクしていたガキ。見栄を張ってできると言い、挙げ句失敗の尻拭いを押し付けたクソガキ。
そんな自分に何ができる。そんな自分が何の役に立つ。そんな自分を──どうして、相棒だなんて呼んでくれたのか。短剣を預けてくれたのか。
(ちくしょう……ちくしょうちくしょうちくしょう……!)
少年は必死に走る。足をもつれさせながら、必死に。
後ろではまだ、戦う音が聞こえる。それに混じって、小刻みな足音。追っ手だ、と少年は直感した。あれだけの数が居たのだ、一匹二匹はこちらに来てもおかしくはない。
少年は必死に走る。逃げ切れるか。それとも隠れてやり過ごすか。どちらが正しいのか?
──本当に、どちらかが正しいのか?
(ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう、ちくしょうっ!!)
逃げていいのか。逃げれば奴らは追ってくる。森の外まで、故郷の村まで、愛する父と母が待つ家まで。
隠れれば奴らは探す。草の根を分けて探し出す。いずれ村まで辿り着き、親によって床下に隠された幼子さえも。
「この……畜生があああァァ!!!」
ジャックは両足を地面に突き立て停止し、腰に括り付けた短剣を抜き放ちながら振り向いた。目の前にゴブリンが一匹。敵の頭をかち割ろうと、石斧を振り上げている。
ジャックは必死に走った。自分には石斧を躱す技術も、受ける腕力もない。なら相手が想像しているよりも速く走り、石斧が振り下ろされる前に一撃を加えるしかない。
狙うは首。心臓はダメだ、どこにあるかわからない。だが首は丸見えだ。その喉に、この切っ先をねじ入れる。
ジャックは走った。野を駆ける獣のように走った。放たれた矢のように走った。構えた短剣は牙であり鏃であった。
「ギ、グゲアアアッ!!」
ゴブリンが石斧を振り下ろす。ジャックの予想よりも速い。だが自分は更に速い!
「あああああァァッ!!」
石斧は、その柄がジャックの肩を捉えて止まった。刃物としての切れ味は当然なく、鈍器として必要な勢いには到底足りず、その一撃は外したことと同義であった。
短剣は、過たずゴブリンの喉を貫いた。寝かせた刃は首を通る太く重要な血管と、生命維持に直結する頸椎を諸共に断ち切った。それはまさに必殺の一撃であった。
「……!!」
「はあっ……はあっ……」
ドサリ。ゴブリンは目を剥き痙攣し、声を発することなく倒れた。首から刃が引き抜かれ、ジャックの手には血塗れの短剣が残った。
「はあ、はあ……や、やった……!」
極度の緊張と興奮を越えて、膝はガクガクと笑い腰は今にも抜けそうで、心臓はバクバクとうるさい。それらは次第に、敵を倒し生き残ったことの高揚に変わる。
「やった、俺、できたんだっ!」
今年、大人たちに連れられて行く予定だった狩りに先んじて、ジャックは初めて命を奪った。その恐怖がないわけではない。だが今は、それを押さえ込む。
「今行くぞ、待っててくれよ、旅人さん……!」
疲労と恐怖で、身体も精神も限界が近い。それでも動かなければならない。彼には相棒がいる。きっと今日、一夜限りの相棒が。
それでも良い。相棒は相棒だ。それを見捨てて逃げるなど、男が廃る。例え神に許されても、自分自身が許せない。
ジャックは必死に走る。逃げて来た道を戻る。
戦うために。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「散り散りに逃げられるのが一番面倒だからな……そっちから向かって来てくれるなら楽で良い、ヒ、ヒ」
旅人は短剣を振るい、手近なゴブリンの首を掻き切る。振り向きざまに蹴りを繰り出し、後ろから近付いて来たゴブリンの頭を砕く。跳躍し、振り下ろされた巨大な棍棒を避ける。飛び散る土に近くに居た三匹のゴブリンが怯む。空中で身を捻りナイフを投擲、その三匹の首や眉間に突き刺さる。
「よう、助かったぜ」
「グオオオオオオオッ!!」
着地した旅人は歪んだ笑みを浮かべる。挑発された巨大ゴブリンは怒り狂い、更に攻撃の激しさを増す。
群れのボスはゴブリンとして規格外の巨躯と怪力を誇っていたが、いかんせん攻撃が単調であった。大型の獣や力を頼みにする戦士との戦いであれば、あるいは無双の活躍をしただろう。しかし旅人は巧みで、狡猾で、性格が悪かった。
一撃で岩を砕き熊を殺す自慢の棍棒も、誘導され躱される。その度に撒き散らされる土や石の欠片すらも、黒衣を翻して弾かれる。そうして旅人は、フードの奥でニヤリと嗤うのだ。
自分より遥かに小さい人間に良いように翻弄され、群れを率いる長のプライドは痛く傷つけられた。それは怒りや焦りとなって攻撃をさらに単調にし、時に同胞たちをも巻き込む。旅人の思う壺であった。
旅人の目的は群れのボスを倒すことではない。群れの殲滅だ。下手に頭を取れば、残るゴブリンたちは逃げ出す可能性が高い。まず雑魚を一掃してからボスを仕留める必要があった。
ちらと周囲を見渡す。見張り場から駆け付けたのであろうゴブリンたちの援軍も今は止まっている。つまりこれで全部。この場に居る者で総戦力。後は皆殺しにするだけだ。旅人は笑みを深める。残るゴブリンは10を切った。仕上げだ。
「さて、と」
旅人は懐に手を入れ、ナイフを取り出す。夜の闇に溶け込むような、黒塗りの刃。暗所では視認が極めて難しいそれらは、見た目にそぐわぬ重さと凶悪な切れ味を隠し持っている。
左右の指に挟んだ、合わせて八本。それをその場で一回転しながら投げる。刀身に刻まれた特殊な加工により音も無く飛ぶナイフは、ゴブリンたちの眉間に正確に突き刺さる。八匹もの同胞が同時に仰向けに倒れる様を見て、巨大ゴブリンは我に返った。
「グ、ギ……?」
「ヒ、ヒ」
周りを見回せば、あれだけいた同胞たちはもう一匹として残っていない。事ここに至って、巨大ゴブリンはようやく、自身が絶望的な状況に置かれていることを悟った。
「ギ、ギギ……!」
「ヒ、ヒ、ヒヒヒッ……」
目の前に立つ死神は、その笑みを深める。より歪に、より禍々しく。哀れな獲物は恐怖に囚われる。もはや、誇りも見栄も保つことは不可能だった。
「ギャ、ギィィィィッ!!」
巨大ゴブリンは、旅人に背を向け逃げ出した。幸いにも、そちらには巣唯一の出入口があり、おまけに門も開いている。逃げられるかもしれない。門の前には小さな影が立っている。同胞の生き残りだろうか? 僅かに希望が湧く。アレを足止めにすれば、もしかしたら逃げられるかもしれない。
だが。少しして気付いた。同胞ではない。アレはさっき、あの死神と一緒に居て、すぐに逃げた人間だ。
その小さくて無力で、蹂躙し略奪する対象でしかない人間が。
矢を番えた弓を構えて、立っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さっきは、矢が右に逸れた。いや、違う。いつも使っている弓が、左に逸れるのだ。その弓に合わせて、自分が右を狙っていただけ。この弓は真っ直ぐに飛ぶ。真っ直ぐに射れば中る。なら。
ジャックは左手を真っ直ぐに伸ばし、立てた指を恐ろしい怪物に真っ直ぐに向け、渾身の力で真っ直ぐに弦を引き絞る。
ギリギリと、弓が、体が軋む音。もっとだ。これでは足りない。あの巨体を討ち倒すには足りない。もっとだ。
もっと、もっと、もっと!
「ガアアアァァァッ!!」
怪物が雄叫びを上げながら迫る。ジャックは大きく息を吸い、大きく吐きながら更に弦を引く。
怪物は既に目前。醜い顔を恐怖に歪め、大きく目を見開いている。
その目を。射る。
「ガッ……!?」
怪物は走りながら膝をつき、倒れた。棍棒が巨体と共に落ち、地を揺らす。ジャックの足下に横たわる怪物は、後頭部から鋭い鏃を覗かせていた。
「…………はああああぁぁぁぁぁ……」
気が抜けたジャックは、その場にへたり込んだ。緊張の糸が切れて、今夜の疲れが押し寄せて来たのだ。いまだかつて、これほどまでに疲れたことはなかった。
「初の獲物としちゃあ、随分デカいんじゃねえか」
「ああ……ウチの村じゃ間違いなく新記録だぜ……」
「ヒ、ヒ」
旅人はジャックに手をさしのべ、ジャックはその手を取る。どうにか立ち上がったジャックに、旅人はニヤリと口を歪めて言う。
「お疲れみたいだな。負ぶってってやろうか?」
「よせやい。俺は村の英雄だぜ、それが負ぶさって凱旋だなんてカッコつかないだろ」
「ヒ、ヒ、ヒヒヒ!」
旅人は不気味に笑った。ジャックには嬉しそうに見えた。二人は並んで村へ向かって歩いて行く。
「あと、この短剣……ありがとうな。助かったよ」
ジャックは腰から短剣を外し、旅人に差し出した。旅人は少し考える素振りをした。
「……いや。やるよ、それ」
「え? いいのか? こんな立派な……」
「まあ、結構いいやつなのは確かだが、他にもまだあるし。少年が初めて狩りに成功したお祝いだ。あれだけデカい獲物仕留めたんだから、祝いの品も豪勢で構わんだろ」
「……そっか。ありがとな……ありがとう」
ジャックは再び、短剣を腰に括る。大切に使おうと心に決めた。会ったこともない狩人が遺した、この弓も。
「……あ」
「夜明けか。やれやれ、長い夜だった」
森を抜けると、ちょうど太陽が昇り始めた。明るい平原の向こうに村が見えた。ジャックの目に涙が浮かぶ。
「あれ……クソ、なんだよこれ……情けねえ……」
「……」
旅人は何も言わず、ジャックの頭に手を乗せた。ジャックは少しの間、泣き続けた。
「……じゃあな、少年。俺はもう行くから」
「え……そんな、せめて村まで来てくれよ! 礼もしてないし、村のみんなだってあんたに……!」
「そういうの苦手なんだよ。それに、こう見えて忙しいんだ」
「……そっか」
旅人は街道へ向かって歩き出した。村とは逆の方向だ。
黒一色の後ろ姿を見て、ジャックは短剣と弓を握り締め、精一杯の大声で呼びかけた。
「……なあ、あんた! また……また、会えるよな!」
「さあなァ! まあまた何か起きない限り、俺があの村に行くことはねえだろうからよ! 会いたいならお前から王都まで来な!」
「……ああ! 必ず行くよ! その時までには、この短剣と弓にふさわしい男になってっから!」
旅人は手を振りながら去って行く。ジャックは村へ向き直って、疲れた体を叱咤して走り出した。
王都。旅人はそこにいる。いつか行こう。いつか必ず。
そのためには、色々と勉強しなければならない。体ももっと鍛えなければならない。弓も、それに短剣の扱い方も練習しなければ。
退屈だった毎日が、まるで輝いているように思えた。明日が待ち遠しくてたまらなかった。
ジャックは走る。まずは心配しているだろう両親を安心させてやらないと。きっとその後、たっぷりと説教されるだろう。拳骨ももらうかな。それで、落ち着いたら、話してあげよう。自分が体験した、たった一夜の大冒険を。
そんなことを考えながら、ジャックは走る。その顔は、朝日に負けないくらい晴れやかだった。