ゴブリンの森:2
少年、ジャック・レイトンは、平原を駆ける黒衣の旅人を必死に追いかけていた。二人の走力の差は歴然であり、本来ならとうに見失っているだろうが、旅人が時折足を止め何かを──恐らくはゴブリンの足跡を確認しているおかげで、どうにか追跡できていた。
それでも、旅人の足は速い。毎日休まず薪割りや畑を耕すことで鍛えられたジャックの体力をもってしても、その距離は離されるばかりだ。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ……!」
必死に走る。見失うのは時間の問題だ。故にジャックは考える。旅人はどこに向かっている?
ある日突然現れたゴブリン、その時偶然村に泊まっていた旅人、ジャックがゴブリンに襲われた時、旅人は颯爽と現れゴブリンを倒した。学のないジャックにも、これらに関係性はなくただの偶然であると思うことはできなかった。
旅人はゴブリンを探していたのだろうか? 確信というほどではなくとも、その可能性は高いように思えた。どこかの町で雇われた冒険者だろうか。なんとなく違うような気がしたが、そう大きな違いではないような気もした。
一先ず、旅人の目的はゴブリンの討伐だと仮定した。なら向かうのはゴブリンの住処か。それはどこだ? ゴブリンは人間の子どもくらいの体格を持ち、群れで行動するという。そんな魔物が隠れられる場所は? 野菜を盗みに来たのだから、村からはそう遠くない筈。
「ぜえ、はあ、あ、あそこだっ……!」
心当たりはひとつあった。村の男衆が狩りをする場所。ジャックも今年からそれに同行する予定で、数年前から毎日欠かさず弓の練習をしていた。
フィンツの森。ゴブリンはそこにいる。旅人はそこに向かっている。ジャックはそう結論し、ならばあと少しだと己を叱咤し、駆け続けた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
旅人はフィンツの森に入り、ゴブリンの痕跡を探していた。ゴブリンはずる賢く臆病な魔物だ。野菜の収穫に向かった同胞が帰って来ないと知れば警戒を強め、気付かれずに捜索することは難しくなる。
それならばまだ良い。最悪巣の場所を移され、今はかろうじて残っている痕跡も念入りに消される。そうなれば追跡は困難を極めるだろう。
それは困る。旅人は時間に限りがあり、その残りは多くなかった。野菜を盗み少年を攫おうとしたゴブリンを殺した時点で、今夜中にケリを付けると決めていた。そうせざるを得なかった。
(……わお)
そう、今夜中でなくてはならない。明日では遅い。時間が惜しい。今や危険地帯となった森まで自分を追って来た少年を、村へ送り届ける暇はないのだ。
「み、ぜえ、見つけたァ!」
「ちょっと静かに」
旅人は息を切らしながら自分を指差す少年を、口を塞いで黙らせる。ここは既に敵地。僅かな物音も立てたくはない。幸いにも、少年の声を聞き咎めた者はいないようだが。
「少年、なかなかに根性あるな」
「当たり前だ、はあっ、俺だって男だぜ、ぜえっ」
小声でそう言う少年に呆れる。どうしたものか、と。
旅人は一旦は少年を撒いた。それで諦めるだろうと思った。ゴブリンの件がなくても、夜の森は危険だ。それを狩猟を生計の一部としている村の者が知らない筈はない。故に、旅人を見失えば引き返すだろうと。
それは、少年の冒険心というものを、それに駆られた者の無鉄砲さを甘く見ていたが故の誤算だった。旅人自身に冒険に憧れる時期がなかったこと、接してきた少年少女は皆既にその時期を過ぎていたことなどから、旅人は『ワクワク』に対する認識が少々足りなかったのだ。
「なああんた、ぜえ、あんたゴブリン退治に来たんだろ、はあ、俺も連れてってくれ」
「その前に、少年。何故ここがわかった?」
加えて、誤算はもうひとつ。前述の通り、旅人は少年を一旦は撒いたのである。それがなぜ、こうして追い付くことが──否、見付けることができたのか。
「ぜえ、あんた、奴らの足跡辿ってたんだろ? はあ、俺もそれを辿ってけば、会えるのは当たり前だろ、ぜえ」
「……なるほどね。そりゃそうだ」
正論であった。正論であったが、しかしそれは、『少年がゴブリンの足跡を追える』という前提があって成り立つものだ。
ゴブリンは身軽だ。通って来た道筋も土の地面ばかりではなく、草が生えていた部分も多い。足跡ははっきりと残っていたわけではなかった。それを追えるとしたら、普段から獣相手に似たような追跡をしている狩人か、特殊な訓練を受けた者、あるいは特殊な才能を持つ者だ。
少年は狩人ではない。特殊な訓練を受けた様子もない。ならば残るは、才能か。
「なあ。俺が村へ帰れっつっても、帰る気ないだろ、お前」
「当たり前だ」
「ならついてこい。だが俺の指示には絶対に従え、嫌なら両足へし折ってここに捨てていく。いいな?」
ジャックは喜ぶより先に息を呑む。黒衣の旅人は影のように闇に溶け込み、目の前にいるのに朧気で、囁かれる声は嗄れている。まるで不可視の怪物と話している気分だった。
「お……おう。任せとけっ」
だが、ジャックは恐怖を呑み込み力強く頷いた。初めての外の世界、さらにはゴブリン退治だ。加えて心強い味方もいる。身の程を知らぬが故の興奮が、恐怖を覆い隠していた。危険な兆候と言えたが、旅人はジャックを受け入れた。
「じゃあ、まずは三つ。俺から離れるな、音を立てるな、周りをよく見て何か気になるところがあったら俺に知らせろ」
「どうやってだ?」
「背中つつくなり服引っ張るなりあるだろ。その後、気付いたところを指差せ。わかったな?」
「わ……わかった」
「よし……いいか、お察しの通り、俺の目的はゴブリン退治だ。んで、この森のどこかに奴らの巣がある。これからそれを探す。……持ってろ」
旅人は腰の後ろから何かを取り出し、ジャックに手渡す。革の鞘に収められた短剣だった。何かを思う間もなく手が短剣の柄を掴み、その刃を引き出す。闇の中に現れた凶器は、僅かな月明かりを受けて妖艶に輝き、無慈悲なる殺傷力を全身で主張していた。
「間違えて自分を刺すなよ。死ぬぞ。間違えても俺を刺すなよ。殺すぞ」
「……わかった」
生まれて初めて手にした、本物の武器。村で使っていた練習用の弓とは格が違う。ジャックは短剣を鞘に収めると、腰紐に括りつけ、落ちたりしないよう調子を確かめた。
「さて……行くぞ」
ジャックは無言で頷く。旅人はフードの奥で口元を歪め、森の奥へと進み始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
旅人は、誤算がもうひとつあったことを悟った。しかし、それは嬉しい誤算であった。ジャックの才能が想像以上だったのだ。
(あの木、なんか手の跡みたいなのがある)
(ほう、良く見付けたな)
(なあ、あの枝、あんな所折れるか?)
(いい着眼点だ)
(そこの草、踏み固められてないか?)
(ふむ……)
(見えるか? あそこ、ほら)
(……)
旅人は考える。自分は相当夜目が効くし、追跡の訓練も受けた。今回の標的であるゴブリンの知識も持っている。その自分とそう大きな時間差なく痕跡を見付け、漏れや誤りも1、2割程度と精度も高い。才能ひとつでここまでやってみせるか。旅人は舌を巻いた。
(案外役に立つかもな……)
実際に見付けてからはわからないが、少なくともそれまでは足を引っ張られるだけではなさそうだった。
(……待て)
(?)
身振りで停止を指示する。少年はわけがわからなかったが、大人しく従った。姿勢を低くし背の高い草の陰に隠れながら耳を澄ます。微かに聞こえるのは、足音。ザク、ザクと、足裏の固い皮膚と爪が土を切る音。
(……こっちだ)
旅人は音を立てずに歩を早める。少年はより一層慎重に、しかし可能な限り急いでついて行く。草の向こうに、蠢く影。
──見付けた。
「……っ!」
ジャックが襲われた恐怖を思い出し、悲鳴を上げそうになるが、必死に噛み殺す。ここで気付かれては全てが台無しだ。恐怖を抑え、冷静にならなくてはならない。
草陰から僅かに顔を覗かせ、敵の姿を目視で確認する。ゴブリン。数は3。木が開けた地点の草を踏み固め、ちょっとしたスペースを作っている。これが巣? 馬鹿な。外敵の接近をいち早く察知するための見張り場だ。ならば巣は、この奥にある。
(ここで待て)
旅人は草陰から跳び出した。その跳躍は高く、ゴブリンの死角、頭上まで達している。ゴブリンは二匹が何事かを話しており、残る一匹は別の方向を見ていた。その瞬間を見計らっての奇襲であった。
「!」
旅人は落下の勢いを載せて、両手の短剣を突き出す。切っ先は二匹のゴブリンの首を貫き、脊柱を縦に割り裂いた。
「!?」
残る一匹が物音に振り返ろうとして、そのこめかみに短剣が刺さる。着地と同時に駆け出していた旅人の一撃だ。瞬く間に、見張り場のゴブリンは全滅した。恐るべき手際であった。
「次行くぞ」
「あ、ああ……」
……強い。ジャックにはそれ以外の言葉が思い浮かばなかった。今までジャックが知る強さとは力の強さ、つまりは膂力と体格が全てだった。だがこの旅人は違う。村一番の大男で、他の男衆より頭二つ分は大きいバッケルおじさんでもとても敵わないだろう。だって、暗い夜とは言え、その動きがほとんど目で追えなかったのだから。
「……ん?」
次──巣か別の見張り場を探そうとする旅人に続こうとして、ジャックの爪先が何かを蹴った。視線を落として、拾い上げる。弓だ。それも村で使っているような、一本の木の棒でできた簡素な弓ではない。様々な素材が貼り付けられたコンポジット・ボウだ。話に聞いたことはあるが、実物を見るのは初めてだった。見回せば、近くに矢筒も立て掛けてある。
「これは……」
「森を通った狩人か何かから奪ったんだろう。貰っていけ。どうせ元の持ち主は生きちゃいない」
「……ああ」
ジャックは弓を握りしめ、跪き、死者へ祈りを捧げる。何ら意味のある行為ではない。貴重な時間を浪費するだけだ。だが旅人はそれを咎めなかった。
「……ありがとう。行こう」
腰に短剣を括り、背に矢筒を背負い、手に弓を持って、ジャックは立ち上がる。その姿は、いっぱしの狩人のようであった。