ゴブリンの森:1
王都南側の一画に位置する酒場、『砂上の楼閣』。名付けた際に少なくとも素面ではなかったことは間違いないだろうこの酒場は、数代に渡って引き継がれ長く続いていることに加え、値段の割にそこそこ旨い酒と、値段の割にそこそこ旨く量が多めの料理を出すことで、近隣ではそこそこ知られた店である。店内はいつも、そこそこの客入りでそこそこ賑わっていた。
「おやじぃ、エールもう一杯!」
「こっちはワイン。赤ね。あと豚の腸詰めも」
「あいよー!」
「姉ちゃんこっち来て酌してくれえ! 膝の上座ってさあ、ぎゃははははは!」
「うるせーくたばれ酔っ払い!」
「ったく、親方は何もわかっちゃいねえんだよお! 俺がどんだけ必死にやってるか……もう腕一本でやってける時代じゃねえんだよお!」
「あーはいはい、辛いねー」
だがそれは、つい最近までのこと。数年前に代替わりした店主はそこそこ才能があったらしく、酒はともかく料理は格段に旨くなった。若く気っ風の良い娘を給仕に雇ったこともあり、現在人気急上昇中だ。
だがここは、普通の酒場としてだけでなく、あるひとつの噂によって人を集めていた。
曰く──『砂上の楼閣』には、妖精が住んでいる。妖精は客の話に耳を傾け、その願いを気紛れで叶えてくれるのだ、と。
無論、それは噂の域を出ない。本気で信じる者はそういない。だが話題のタネとしては中々に面白がられていた。ここに来る者たちは、己のささやかな願いを、愚痴をこぼすという形で口にする。看板娘はそれを嫌な顔ひとつせず聞き、しかも忘れずに覚えていて、次以降来店した際他の客が少なければ、よく話を振ってくれる。客にとって、それは嬉しいことだった。そうすると、次も、また次もと訪れる客が増えていく。
そんなちょっとした流行が生まれたこともあり、砂上の楼閣は日々の仕事に疲れた平民たちの癒しの場となっていた。店主はよく磨かれたグラスに酒を注ぎ、研究を重ねた自作料理を作りながら、客の会話に耳を傾ける。王都は国の中心、即ち流通の中心だ。人や物が、毎日大量に国中から集まり、そして流れていく。情報も同じだ。王都で酒場を営むうえで、情報は商品のひとつである。
そして砂上の楼閣においては、情報は更に重要な意味を持つ。
「……ああーっ、終わりましたね!」
「おう、お疲れさま」
砂上の楼閣店主のハンス・エヴァンズと看板娘のルイン・ナーヴェは、客の居なくなった店内でカチンと小さなグラスをぶつけ合った。
「なんか面白い話はあったか?」
「えーっとですね……」
日付は変わり、荒くれ共が散々食い散らかし飲み散らかした料理や食器を片付け、店内の掃除も一通り終わり。二人の仕事は、残りひとつとなっていた。
「アイヒェンラント側の国境が物々しい雰囲気だった、今年は漁獲量が減ってるらしい、カレントの領主が好き勝手やってる、フィンツの森でゴブリンを見た、カペイユの海軍が──」
ルインが客から聞いた愚痴や噂話を思い出しながら、簡潔にまとめてハンスに伝える。その内のひとつに、ハンスは鋭く反応した。
「ちょっと待て。フィンツにゴブリン?」
「え? はい。行商人のエドさんが、いつも通ってるフィンツの森でゴブリンの目撃談があったから、遠回りしなきゃならなくなったって」
「そいつは妙だな。フィンツの森どころか、少なくともここ十年間、サラス地方一帯でゴブリンなんか出たことねえぞ」
サラスはブレスティアの南側に位置する地方で、フィンツの森はここにある。このサラスでゴブリンの被害など、ハンスは聞いたことがなかった。居るとすればコボルトだ。
ただの聞き間違いではないか……と一瞬思ったが、ルインが聞き間違い、覚え間違いをしたことはない。そして情報源の行商人、エドは砂上の楼閣の常連であり、ハンスも良く知っている。
街から街へ商品を売り歩く行商人にとって、移動にかかる時間は儲けに直結する。経験豊富なエドが、大事な時間を浪費して遠回りをしたということは、その情報にはかなりの信憑性があると見ていい。
ゴブリンは身軽でずる賢く、集団で行動する魔物だ。商品を満載した重い馬車、通り慣れているとはいえ入り組んだ森、そこで見かけたというゴブリン。襲われれば一溜まりもないと判断したのだろう。
「フィンツの森は魔物が少ない。ゴブリンが住みつけば増えるのは早いだろうが、臆病なゴブリンが住処を移すのなら群れ単位だ。サラスには平原も多いし、途中で誰にも見られてないってのは考えにくいな」
「なるほど……」
「ふうーむ……」
ハンスは顎に指を当てて考える。今までいなかった筈の魔物。目撃情報は少なく、おそらくはまだ実害も出ていない。ゴブリンは単体では強力な魔物ではないが数が多く、逃げるのも隠れるのも上手い。殲滅するなら軍でなければ難しいが、終戦後の緊張が続く今、軍が動く理由としては弱い。
できる対処は精々、近隣の町や村で冒険者を雇い追い払うくらいのものだろう。そしてそれは当然、根本的な解決にはならない。
「……若に伝えておくか」
「え? でも、ゴブリンですよ?」
「この前のテロ騒ぎ聞いたろ。なんか起きてる気がするんだよ、この国で。それと関係あるかはわからんが、不自然な点はあるしな。それに、実際に動くかどうか決めるのは若だ」
「……そうですね。じゃあ、準備してきます」
ルインが店内の階段を上がって行き、ハンスは紙を取り出して、先ほどの情報を書き込む。それを終えると紙を丸め、階段を上がる。
しばらくして、砂上の楼閣の屋根裏部屋から一羽の鳥が飛び立った。夜空に溶け込むように黒いその鳥は、誰に気付かれることもなく、北へと飛んで行った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ある日、サラス辺境の村に一人の若い旅人が訪れた。サラスは街同士の交流が盛んな地方だが、この村は街道から離れた場所にあり、名物となる特産品や観光地もないため、外部の人間が通ることはそう多くない。ましてや宿を探しているともなれば、数日、ともすればひと月に一度という珍しさだった。
「よう来なさったね、お若い人。どうされました。何か怪我をされとるようには見えませんし、日もまだ高いですが」
加えて言えば、村を訪れるのは道中怪我をして休める場所を探していたとか、出立の時間を誤って夜になってしまったとか、そんな理由ばかりであった。そのような状況の村に宿屋があるわけもなく、大抵は村長が自宅の一室を貸し与えることになる。今回も例に漏れず、旅人の話を聞いた村長が快く受け入れ、こうして茶を出しもてなしているところであった。
「はい。見聞を深めるため各地を旅していまして。近くの町でこの村の話を伺ったものですから、お訪ねしようかと」
「はあ、そうですか……お若いのに、お心が豊かですなあ」
不思議な旅人だった。顔に傷でもあるのか、フードを目深に被っているせいで目は見えない。だが、口元を見る限りでは若い男。酷く灼けた嗄れ声で、訛りのない綺麗なブレスティア語を話す。出された茶を飲む仕草をはじめとする立ち居振る舞いは洗練されていて、旅の目的も合わせるとどこかの貴族の出だろうか。
「のどかな村ですね。畑、川、鶏、羊。生きるに必要なものを自分たちで賄っている。完成されていて、余計なものがない。世界の縮図のように思えます」
「ははは……そんな大層なものではございませんよ」
出で立ちや声から、村長も始めは気味の悪さを覚え、警戒した。だが話しているうちにそれも解け、純粋にもてなすことができた。顔や声は、きっと火事にでも遭われたのだろう。そう結論付けていた。
「毎日毎日、変化のない退屈な暮らしです。私のような年寄りは良いのですが、若い者は皆村を出たがります」
「変化がない……私のように訪れる者も?」
「はい、何せこんな場所ですから……変わることなど、今日は魚がよく釣れただの、大きな獣が狩れただの、畑の野菜が盗まれただの」
フードの奥で、旅人が僅かに目を細めた。村長は気付かない。
「野菜を? 獣に荒らされたのではなく?」
「ええ、随分雑でしたが、ちゃんと『収穫』されておりました。まったく、誰がこんなことを……どの家も、作る野菜に大した違いはないのですが」
「……と言いますと、この村のどなたかが?」
「わざわざこんな場所まで野菜を盗みに来る盗っ人などおりますまい。大した量ではありませんでしたので、あまり騒いではいませんが……続くようなら、対策を講じねばなりませんな。……それにしても、私の代でこのような事を起こしてしまうとは」
「心中お察しいたします」
村人に盗みを働く者がいることを悔やむ村長に、旅人は言葉をかける。村長は客人に気遣われた己を恥じた。
「すみません、お客人に愚痴をこぼしてしまうなど」
「いえ、お気になさらず。村を束ねる御身分なのです、苦労も多いことでしょう」
「ははは、いやはや参りましたなあ……さて、老いぼれの話など聞いていても仕方ないでしょう。お部屋にご案内しますので、お休みになられるなり村を見て回るなり、ご自由にしてくだされ」
「はい、ありがとうございます」
村長は旅人を二階の来客用の部屋に通し、鍵を渡した。受け取った旅人は部屋に荷物を起き、村長に礼を言う。村長が部屋を出ると、旅人はフードを脱ぎ、村を一望できる窓の前に立つ。
あらわになった昏い瞳は、村ではなく、その先にあるフィンツの森を見ていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
村の一日は、始まりも終わりも早い。王都であればこれから酒場が盛り上がるという時間には、村人のほとんどは明日に備え眠りについている。家々の灯りは既に落ち、村を照らすのは月と星のみ。その光の下、男が一人、野菜を盗まれたという、村の東端──フィンツの森の方向にある畑の前に立っていた。
男は、村長の家に招かれた旅人だった。旅人はしゃがみ込むと、十分とは言い難い明るさの中で、なんら不自由などないように畑を調べる。
(……まあ、遅いよな)
窃盗被害があったのは三日前のことだと聞いている。盗まれた野菜があったであろう畑の空白部分は既に均され、今さら痕跡を探ったところで徒労に終わることは容易に想像できた。
(さて、どうするか……ん?)
不意に旅人は顔を上げ、次いでその口が歪に笑う。視線の先には、小さな人影が五つ、村に向かって近付いて来ていた。
(俺にしては随分と運が良い)
その影は未だ遠く、月明かりがあるとはいえ夜であることもあって、常人には子どもにしか見えないだろう。だが旅人の目は、その異形をはっきりと捉えていた。
大きな頭、尖った耳、曲がった腰、緑色の肌。それらはゴブリンと呼ばれる魔物の特徴に、完全に合致していた。
旅人は物陰に身を隠し、ゴブリンたちの様子を窺う。野菜を盗まれてから急拵えで高さを足したのであろう、真新しい木の柵をゴブリンたちは容易く上り、畑へと侵入する。
「ギヒッ、ギヒッ」
「ゲゲゲゲ……」
ゴブリンは意外なほどの手際の良さで野菜を収穫し、蔓を編んで作った籠に入れていく。畑に残っていた野菜の一割ほどを収穫すると、籠の中は一杯になった。ゴブリンたちは満足そうに笑い、村を去ろうとし──
「おい、誰だ!? なにしてる!」
「ギッ!?」
(……わお)
ランタンを掲げた少年に見咎められ、身を竦ませる。少年は旅人には気付いていないようで、畑を荒らす不届き者を糾弾しようと無防備に近付いて行く。
「さてはお前ら、野菜泥棒だな!? ちくしょう、ウチの畑から出て──」
少年は、この畑の持ち主の子だろうか。怒りと精一杯の勇気を振り絞り、盗っ人から畑を守ろうと見張っていたのか。幼いながらも村の一員たろうとするその尊い想いは、しかし一瞬のうちに粉砕される。
「な、お、お前らまさか、魔物……!」
ランタンに照らし出された姿は、明らかに人間のそれではなかった。生まれてからずっと平和な村の中で暮らし、実物の魔物を見たことなど一度もなかった少年は、怒りと勇気を失い、恐怖に囚われる。
弱肉強食の世界で生きるゴブリンは、少年の恐怖を敏感に感じ取った。声変わり前の少年の肉は柔らかく旨いことも知っていた。一度仲間同士で視線を交わすと、下卑た笑いを上げ、棍棒や石の斧を手に少年に飛びかかる。
「ググゲゲゲ!」
「ギャ、ギャ!」
「う、うわああああっ!!」
ゴブリンたちが得物を振り上げる。少年は反射的に手を翳して身を守ろうとする。それは倫理なき暴力の前には、あまりにも儚い抵抗であった。瞬く間に少年は打ちのめされ、ゴブリンの巣穴に連れ去られ、今宵の晩餐に並ぶだろう。
「ああああ……あ?」
だが、想像した痛みも衝撃も、いつまで経ってもやってこない。不思議に思った少年は閉じていた目を開ける。目の前には、先ほどまで死の化身であったゴブリンたちが、得物を振り上げた姿勢のままで倒れ、息絶えていた。
「な、なん……何が……」
「ちっ……そう都合良くはいかねえか」
震える手の中のランタンは、己の役目を忠実に果たし、魔物の死体を照らし出す。その後頭部には、夜闇に溶け込む黒塗りのナイフが突き刺さっていた。
「なるほど、俺には過ぎた幸運だと思ったが、俺じゃなくお前のだったわけだ」
「え、う、あ?」
少年の混乱はいよいよ極まり、意味をなさない声が漏れ出るばかり。尻餅をついて見上げると、そこには黒い影が立っていた。
「あ、あんた……」
「怪我はないか、少年」
「え、う、うん」
「そいつは良かった、ヒ、ヒ」
混乱した頭でも、それが誰かはどうにか思い出した。稀にしか来ない旅人のことは印象に残るし、彼らから外の世界の話を聞くことは少年の数少ない楽しみでもあり、よく覚えていたのだ。そうでなくても、その怪しい出で立ちと嗄れ声はそうそう忘れられはしない。
「じゃあな。村長殿によろしく言っといてくれ」
「え? おい、ちょ、待っ……」
止める間もなく、旅人は駆け出し、村と外の境界であり魔物の侵入を防ぐための高く頑丈な柵を一足飛びに越えて行った。何が何やら、少年にはまるでわからなかった。
後ろから大人たちの慌てた声。少年の悲鳴を聞きつけ、着の身着のまま飛び出して来たのだろう。
どうした、何があった、サムんちの畑の方だ──徐々に近付いてくる声に、少年は安堵を覚え、同時に訳のわからない焦燥に駆られた。
自分はすぐに大人たちに見付かり、保護されるだろう。何が起きたのか、その説明を求められ、終わる頃には──きっと、間に合わない。
それはダメだ。それだけはダメだ。今回だけはダメだ。何故かはわからない。ただ確信だけがあった。
少年は震える足を叱咤し、駆け出した。旅人を追って。
きっと後で散々に怒られるだろう。今はどうでもよかった。村のため、親のためと押し隠してきた少年特有の冒険心は、間近で見た非日常によってその枷を外されてしまっていた。
少年は、村を囲う柵をよじ登った。今まで何度も想像して、しかし本気で実行しようとは一度も思わなかった行為だった。柵の上に辿りついた少年は、一瞬の迷いも一切の躊躇いもなく飛び降りて、村の外へ出た。
生まれて初めての世界は、誰も守ってくれないという不安と、先の見えない恐怖と、素晴らしい冒険の予感に満ちていた。