序章 月と星と悪魔に願いを
少女は、たった一人で階段をのぼっていた。
深夜二時。
中西中学校校舎内。
校内には、張りつめた闇と透き通った静寂のみが満ちていた。
静寂を湛える闇。闇が強いる静寂。
そんな、静寂が張りつめ闇が透き通り満ちる中、
少女は、たった一人で階段をのぼっていた。
少女の小柄な身体を包んでいるのは、この学校の制服である、黒い襟地に赤いリボンのセーラー服。
肩に、背に流れる、ゆるやかに波うつ長い髪。その下に、この闇よりも昏く輝く瞳をひそませている。
少女は――。
手摺りに手を乗せ、一段、一段、階段をのぼってゆく。
まるで姿なき者たちにいざなわれているかのように、一段、一段、階段をのぼってゆく。
足音を立てず、呼吸すらしていないかのような静かさで、一段、一段、階段をのぼってゆく。
のぼりきった正面に扉があった。屋上へとつづく扉だ。
少女はドアノブに手をかけると、金属音を響かせないよう、ゆっくり、ゆっくり、扉を開けた。
初冬の夜空はかぎりなく澄んでいた。
凍てついた星たちは黒絹の空にまたたき、冷たい光を地上へと投げかけている。
星天に座するのは、もっとも強い光を放つ、真円を描いた白銀の月。
静謐なる月が放つ清浄なる光。
そのこうこうとした光に照らされながら少女は、この夜気よりも硬い表情で、一歩、一歩、灰色のタイルを踏みしめながら、柵のほうへと歩いてゆく。
柵の前までたどり着くと、手と足をかけ、流れるような動作で柵を乗り越えた。
柵を背に立ち、地面を見おろす。眼下には、墨色の闇が澱のように沈んでいる。
月の光も届かぬ闇。
その闇に向かって少女は、このガラスの夜を震わせるような声で叫んだ。
「悪魔よ! 黒き翼の堕天使たちよ! いまこの魂を汝らへと捧げます! ですからどうか彼女たちに、地獄のような苦しみを!」
声が闇に吸いこまれてゆくのと同時に、少女の足はタイルから離れた。
長い髪が宙に舞い、少女の小柄な身体は夜の海にダイビングするかのように、
下へ――下へ――。
眩き光の世界から、昏き闇の世界へと、堕ちていった……。
「やだ、お母さん迎えにきてないじゃん」
改札口を出た途端、松平桜子-(まつだいらさくらこ)は抗議の声をあげた。
「信じらんない。空もうこんな暗いのに。娘が変質者に襲われてもいいのかよ、鬼ババア」
などと自分の母親を口汚なくののしっているが、しかしそれは酷というもの。なぜなら彼女の母親は、いま、娘が最寄り駅の前にいることなど知らないのだから。連絡を受けていないのだから知りようがない。
いつもなら遅くなるときにはかならず駅に着く前に家に連絡を入れるのだが、しかし今日はそれができなかった。授業中に携帯電話を担任教師に没収されてしまっていたからだ。
「なにさ。授業中にメール打つくらい誰でもやってることじゃん。誰にも迷惑かけてないんだから別にいいじゃん。あの教師マジ頭おかしいよ」
いやいやいや。誰もやってないし。迷惑だし。頭おかしいのあんただし。桜子の背後を通りかかったOL風の若い女が小声でそう突っ込みを入れたが、しかしさいわいなことに、彼女の声は桜子の耳には届いていなかった。
ちなみに、桜子のななめうしろには公衆電話が鎮座ましましているのだが、しかし残念なことに、彼女のおニュー-(死語)の財布の中には一円玉一枚入っていなかった。先ほどまで友達二人とショッピングを楽しんでいたからだ。
片手に通学鞄を、もう片方の手に戦利品である春物のワンピースが入った袋を持ち、母親が迎えにくるのを待っていたが、しかしいつまで待っていてもくる気配はなく、青い闇は濃くなるいっぽうだし、お腹も空いてきたし、これ以上待っても無駄だと悟ったので、桜子は軽く息を吐き出すと、自宅がある方向に向かって歩き出した。
飲み屋やカラオケ店など一軒もない、閑静な住宅街。
いまはちょうど人がいない時間帯らしく、立ち話をしている主婦も、犬の散歩をさせている老人も、帰宅途中の学生や会社員も、塾に向かう子供もいない、路地。
自転車や自動車の往来も途絶え、町は夕食時とは思えないほど、耳が痛くなるくらいシンと静まり返っていた。
人々の営みのあかしである民家の明かりも高い塀にはばまれ、桜子のもとまでは届かない。
周囲には、人もなく、音もなく。
ただ街灯の無機質な光だけが、ぽつ、ぽつ、と、前に、後に、つづいているのみ。
いつもならうるさいくらいに聞こえてくる、木の葉のささやきも虫たちの合唱も、しかしどうやら今夜はお休みのようで。
いま、桜子の耳に入ってくるのは、自身が奏でる靴音だけ。
ぶるり、と桜子は小さく身を震わせた。
四月に入ったとはいえ、さすがにこの時刻はまだ肌寒い。
早く帰って温かなココアでも飲もうと、桜子は家路を歩む足を速めた。
家の近くまできたときだった。
立ち並ぶ街灯の下、人口の光の輪の中で、ぽつん、とその少女はたたずんでいた。
肩に、背に流れる、ゆるやかに波うつ長い髪。その下に、この夜よりも昏く輝く瞳をひそませている。
少女の小柄な身体を包んでいるのは、桜子も一ヶ月前まで着ていた、西中の制服である、黒い襟地に赤いリボンのセーラー服。
少女の姿を確認し、そしてその正体を確信した途端、桜子の悩みの種である腫れぼったい一重の双眸が、驚愕に見ひらかれてゆく。
雪原のど真ん中にいるみたいにがたがたと身を震わせている桜子を、セーラー服の少女があざ笑う。
少女の三日月形につりあがった赤い唇がひらく。
「おひさしぶりね、松平さん。半年ぶりかしら?」
聞き覚えのある声が桜子の鼓膜を震わせた、直後。
桜子の口から絶叫がほとばしり、ガラスの夜気を引き裂いた。