カムランの戦い
ソラは黄昏を前に、膝をついた。他のヴァルハラ軍の仲間たちも、もはやその光景に目を奪われて判断を喪失している。
ヴィンセントだけが、嬉々としてその穴を見上げていた。邪魔立てする者は誰もいないと思われたが、
「ヴィンセント」
「アーサー。同志よ、如何な用かな」
意外なことに真っ先に反旗を翻したのはアーサーだった。後ろにはメローラとモルドレッドが当惑しながら立っている。アーサーの目的は世界の再生であり破滅ではない。ゆえに、この決別は定められていた。
「本はお前に渡さん」
「無理だ、同志。貴様はヴァルハラ軍に敗北した」
ヴィンセントはかつての仲間に杖を向ける。殺意の籠った魔術兵装を。アーサーも自身の真骨頂であるエクスカリバーを引き抜いた。二人の視線が交差する。
「認めよう。ここまで追い詰められるとは、想定外だった」
「私も同じだ、友よ。邪神が打ち倒されるとは。それも、殺したはずの仇敵に。だが、今はどうでもいい。道は開かれた。後は破滅の旋律を世界に広めるだけだ」
「そんなことはさせん」
アーサーから魔力の奔流。彼はヴァルハラ軍に囲まれた状況ながら、ヴィンセントしか眼中になかった。奇妙な信頼関係のようなものを構築している。少なくとも、ヴィンセントの阻止という目的だけはヴァルハラ軍と同じだった。ゆえに、彼の子どもたちも警戒はするが、行動を野放しにしている。
驚異的脚力で跳び上がったアーサーはヴィンセントと肉薄。素早い剣戟に物理法則が悲鳴を上げて、火花と軋音を放つが、その戦闘音楽もすぐに途切れた。
ヴィンセントの魔力にアーサーが押し負け、浮き島へと着地する。その様子に驚いたのは先程までアーサーと交戦していたメローラだった。
「どうして……?」
ヴィンセントが同志を見下ろしながら応える。
「説明していなかったのか? アーサー。貴様は確かに優れた剣士だが、その魔力量は聖杯と魂を繋ぎ合わせていたゆえに得られていた恩恵だ。聖杯が起動し、道が開かれた今、僅かな猶予しか残されていまい」
「お父様……」
代償なくして力は得られない。自分の父親が最初から死ぬつもりだったことを知り、メローラが目を見開く。モルドレッドは予想済みだったようで、顔をしかめるだけだ。
「別の道もあったように思えるが。父上」
「そんなものはない。奴を殺せ。世界を滅ぼすのはお前たちの本望ではないだろう」
アーサーは息子と娘に指示を出し、一時的な共闘を始めようとした。しかし、それを見咎めてもヴィンセントは平然としたまま別の敵へと視線を逸らす。
彼はソラを見下ろしていた。危惧すべきは彼女だけだとでも言うように。
「貴様が救おうと奮戦していた者たちは全て死んだぞ。引き分けではない。私の勝利であり、貴様の敗北だ、ブリュンヒルデ」
「…………」
ソラは黙って、虚ろな表情で空を見上げていた。黄昏。光と闇が混じり合い、その境界線が曖昧になる時間。
ソラの精神内部では死んだマーナガルムの魂が一気に入り込み、彼女を糾弾したり囃し立てている。
ヴィンセントは俺たちを裏切った。お前の救済が遅いせいで私たちは死んだ。殺せ! 殺せ! 復讐せよ! 気が狂いそうになるほど、ソラの心で死者は喚く。
そこに流れてくるのはディースの甘い囁きだ。甘美な誘惑。
――彼らの言う通り、殺しちゃおう。大丈夫、全て彼らのせいにすればいい。誰もあなたを責められない。もし責めてきたら殺しちゃえばいい。嫌なことを言う奴を全部全部虐殺すれば、世界は静かに、平和になるよ。
膨大な死者の訴追。殺人の強要。それはもはや魂の洪水だった。
ソラの精神力すらも上回っている。水の中に沈んで、浮き上がれない。死者たちが足を引っ張って、ソラの呼吸を阻害する。息ができない。苦しい。死んでしまう。壊れてしまう。
「――ソラ!」
「……クリスタル……」
その手を掴んでくれたのは、八年もの間、再会を待ち望んでいた親友だった。
クリスタルはソラの手を握り、彼女の覚醒を手助けした。息を求めるように、ソラは大きく深呼吸する。
「ごめん、ちょっと呑み込まれそうだった」
「それを言うならありがとうよ、ソラ。ヴィンセントが何かする前にどうにかしないと」
膝をついていたソラは立ち上がり、改めてヴィンセントを見る。彼は、再度攻撃を仕掛けようとするアーサーたちを気にも留めない。
それもそのはず。急に湧いて出た湖の剣士が、彼らの妨害を始めたからだ。
「ランスロット! ここに来て邪魔を!」
「王よ、ここで死んでもらおう!」
メローラの叫びで、ソラは一瞬気を取られる。その隙に、ヴィンセントは穴の中へと浮遊していく。
クリスタルが銃撃を行ったが、全て障壁に弾かれた。くっ、と歯噛み。
「追撃しないとダメね」
「でも……みんなが……」
ソラが後方に目をやる。後ろにはヴァルキリーシステムの破損により、変身が解除された友人たちが集っていた。彼女たちは全員でそれぞれを支え合い、ソラとクリスタルへ想いを届ける。
「ソラ!! 私の代わりに、一発デカいのかましてやれ!」
メグミが精一杯の声で叫んだ。ふらりとよろめいたところをホノカが支える。
「どんな結末に終わっても、私はソラちゃんの味方ー! だから、頑張って!!」
ホノカ一人では支えきれず倒れかけたが、マリが引っ張ってどうにか持ち直す。
「あなたは底なしのバカ! でも、悪いバカじゃない、いいバカよ! そのバカさ加減で、ついでに世界を救っちゃいなさい!」
「みんな……」
みんなの声援がソラに力と勇気をくれる。こうしている今も、死者の声で気が狂ってしまいそうだ。
でもみんなとクリスタルが傍にいてくれるなら、ソラはまだ戦乙女として戦える。
「最後まで付き合ってくれる? クリスタル」
ソラは改めて問いかける。もはや訊く必要はないと知っていながら。
「もちろん、ソラ。どこまでもいっしょよ」
クリスタルは即答した。わざわざ答える意味はないと悟りながら。
ソラとクリスタルは見つめ合い、宙へと浮いた。到着点を見据えて、虹と銀の鎧が飛翔する。
オーロラの軌跡を残しながら、ブリュンヒルデとレギンレイヴは最後の戦いへと赴く。
絶望を希望で上書きするために。死者の魂を鎮めるために。
※※※
深淵の中心部に台座がある。その上に、分厚い本が一冊置かれている。原初の本。はじまりの本。
アダムとイヴは知恵の樹の実を食べたのではない。その樹を使って本を作ったのだ。人々はその本を様々な呼称でなぞらえる。知恵の実、知識の泉、エデンのリンゴ、悪魔の書、禁忌の書、深淵書物、真理の本、アカシックレコード。そして、おとぎ話の本。
誰もが羨むその本は、いつしか誰からも忘れさられ、忘却の彼方へと封じられた。
その場所を訪れたのは、人生で二度目だった。
あの時は、瀕死の重傷を負い、まともに執筆できなかった。かろうじて書けたのは新たな破滅への伏線。魔術師の数を増やせという簡易な文章だけだった。
破滅の記述は時間が掛かる。ただ一言、世界を滅ぼすだけではダメだ。それでは再生されてしまう。真なる破滅は再生を封じること。徹底的に存在を消去し、復活の術を残さないことだ。
北欧神話は滅びの物語であると同時に、再生の物語でもあるのだ。神々と巨人の戦いが集結した後、一握りの人間と神が生き残り世界を再生していく。
それは容認できない。世界は滅亡し、二度と再生してはならない。
ゆえに、ヴィンセントは丁寧に、破滅の物語を書き連ねた。希望の書を絶望の書へと変えるために。
文字には意識的無意識的問わず、書き手の意思が宿るという。では、自分の記した絶望が、世界をどう破滅させるのだろうか。
ヴィンセントは想像して、台座に立てかけた杖を執った。破滅する世界を目の当たりにすることはないと達観し、来客を招く準備をする。
別に、構わなかった。結果が破滅であれば。破滅が人生の命題だったのだ。原初の本にその方法を記した今、生に対する執着などとうに失せている。
「ヴィンセントさん……」
深淵の先、オーロラの降り注ぐ扉に立つ少女から、声が掛けられた。
恐れを知らない者。フレイヤが見初めた、戦争を止める勇者。ここまで屈強な戦士になるとは、ヴィンセントの予想外ではあった。当初は、ただ戦争を加速させるための人形でしかなかったはずだ。だが、少女は真実を見抜き、食らいつき、一度は自分の計画を頓挫させるほどまで切迫した。
だが、もう敗北は有り得ない。本には記述された。装置は破滅を成すために起動済み。
「戦乙女の鎮魂歌……。貴様は死者の魂を鎮められると自負していたな。その考えを肯定しよう。普遍的死者ならば、貴様のレクイエムは癒しとなり、希望となった。だが、私は違う。私は復讐を成すことでしか、安らぎを得られない。そう言う意味では、貴様のおかげで私も目的を果たせたと言うべきだが」
あらゆる企てを起こしたが、青木ソラは全て打ち破ってみせた。最後の最後でヴィンセントの計略が功を成したが、ヴァルハラ軍がこれほど疲弊しなければ、この場に辿りつくことはなかっただろう。
後一歩。後一歩遅ければヴィンセントは敗北し、青木ソラは世界を存続させることができていた。その遅れの原因をヴィンセントは知っている。
「私を殺せば、救えただろう。青木ソラ」
「……否定はしません」
ソラが静かに答える。多くの愚者は彼女が保身に奔ったせいで、世界が滅んだと恨むだろう。自らの実力、行動力、精神力のなさを棚に上げて。そういう人間は実に利用しやすい。彼らを使って世界を滅ぼしたようなものだ。
一部の高潔な人間は違うと言い張るだろうが、世界は滅んで然るべきだった。人間はほとんど愚者だ。愚か者には天罰が下る。あまりにも規模が大きくて、結果として世界全体が滅びるだけだ。
「でも、私は……」
ソラは意志をみせる。彼女なりの信念の結果だ。その強固な意志は事実として、ヴィンセントの計画を乱してきた。もし、功を焦って自分を殺そうとする愚者ならば、これほどまで手こずるはずはない。それを起因として別の計画を実行しただけである。
だが、彼女は真っ直ぐに危険を承知しながら罠をかいくぐり、自分の喉元へと食らいついた。偉大かつ強大。それは揺るぎない真実だ。
だからこそ、ヴィンセントはほくそ笑む。最大の障害は取り除かれた。後は、時を待つだけだ。
「どうする? 青木ソラ、クリスタル。もう破滅は始まっているぞ」
「あなたを止めます」
「どのように?」
ソラは持っていた剣を投げ捨てた。訝しんだヴィンセントは、その槍の召喚に口角を上げる。
主神オーディンが所持していた最大の武装。ブリュンヒルデ唯一の殺傷兵器、グングニールの出現。その槍はソラの覚悟の表れだ。
ヴィンセントは術式を構築しながら、二体のヴァルキリーと対峙した。
「急ぐがいい、ヴァルキリー。上手くいけば、破滅を食い止められるかもしれんぞ」
「止めます、絶対に! 世界は滅ぼさせません!」
ヴィンセントが閃光を放つ。天使の翼を持つソラが動く。
彼女の後方では、クリスタルがありったけの武装を展開。レーザードローンと身体の各部位に搭載された砲身による一斉射撃を敢行した。
ヴィンセントはその銃砲撃を黒の閃光で相殺し、神の槍を持つソラと肉薄する。
人生の終着点……破滅が、刻一刻と近づいている。
※※※
「……オーロラフィールドは消失したか」
ペガサスⅡのコックピット視点からも、オーロラの消滅が確認された。ソラが穴の中へ飛び込んだからだ。あの中では、世界の命運を決める最後の戦いが行われているのだろう。
戦術的に考えれば相賀はソラの援護に向かうべきだ。手をこまねいているヴァルハラ軍の仲間たちに指示を出して。
しかし、相賀と目を合わせるのは仇敵であるヘルヴァルドだけ。相賀はハッチを開けると、ヘルメットを投げ捨てた。元より、習慣でつけていただけだ。魔術によって概念及び物理的な保護されているコックピット内部なら、裸でも全く問題はない。空調管理もされているため、風邪一つ引くことすら難しい。
後頭部を掻きむしって、深紅の魔剣を見つめる。
「俺はどうするべきかな」
敵に向かって、意見を訊ねた。ヘルヴァルドの答えは相賀の予想通りのものだ。
「下手に関わっても足手まといになるだけだ。お前の相手は私であり――」
「俺の相手はお前だ。そうだな。愚問だった」
敵と妙な会話を交わして、相賀は再びパイロットシートに収まった。開閉ボタンを操作してハッチを閉じる。
情けない大人だとどやされるな、としみじみ思う。だが、こればかりはしょうがない。そもそも、少女を、子どもを前線に連れ立っている時点で大人として失格だ。今更、かっこつけるつもりもない。
「自分にやれることをするか」
「そうだ。来い、相賀」
武装変更をコンソールに入力し、目当ての装備を小型ミサイルコンテナがあった部分に換装させる。
「ふむ?」
ヘルヴァルドは油断しきっている相賀に剣を向けようともせず、ただ黙々と彼の装備変更を見守っている。万全の状態で、最大の力を発揮し決着をつけることを彼女は望んでいた。手に取るように気持ちがわかる。
奇妙で不思議な絆で結ばれていた。復讐のために追い追われる相手だった二人は、互いに相手を知り過ぎた。
相賀はヘルヴァルドがなぜ自分と戦うのかすら、予測がついている。贖罪のためだ。奇しくも、相賀と原初の気持ちは同じだ。ヘルヴァルドは天音を殺した罪を、復讐が果たされることで払拭しようとしている。不器用な女だ、と思わざるを得ない。――自分と、同じだ。
「天音に怒られるぞ、ヘルヴァルド」
「他者に諭されようと、譲れないものはあるだろう?」
「全くその通りだ」
気さくに応じる。もしここに天音がいたら、確実に説教を貰っていた。相賀もヘルヴァルドも。
だが、この場に天音はいない。死んだ。殺された。だからこそ、赦せないし、止まる気もない。
ふと、相賀は下部カメラを浮き島へと向けてそこで祈りを捧げる少女をモニターに映した。
マリ。天音の妹。自分が保護するべき少女。彼女も復讐を止めてくれと泣きながら頼んできた。
やはり、自分はふがいない。子どもを無意味に泣かせる大人ほど、ぶん殴りたくなる奴はいない。
「時間は限られているぞ、相賀。ソラが世界を救済する前に、復讐を終わらせろ」
ヘルヴァルドの発言に、相賀は苦笑せざるを得なかった。親しみを込めた問いを投げる。
「おいおい、お前はどっちの味方だ?」
「お前の、敵だ!」
ヘルヴァルドが剣を唸らす。相賀もペガサスⅡを通常飛行モードへと移行させた。機銃を穿ちながら、ずっと大切にとってきた、四発の大型ミサイルを発射する。ヘルヴァルドはこちらの銃撃、砲撃を全て切り裂きながら突貫。大型ミサイルも難なく斬り落とそうとして、
「――何?」
刃が通らないことに驚く。
「そいつはミサイルじゃない。ロケットだ。とても頑丈な!」
「くッ!」
ミサイル改めロケットの直撃を受け、ヘルヴァルドは空中でよろめく。しかし、二撃目からは剣の腹を使って器用に弾き飛ばし、ロケットは無効化された。
だが、それも相賀の予想範囲内だ。元々、気を逸らす程度の小技でしかない。
本命をぶつけるべく、相賀は加速する。機体両翼に装備させた収納アームを展開し、抱き着く様にヘルヴァルドへぶつかった。
「接近戦を挑むか!」
「射撃戦では捉え切れないんでね!」
ヘルヴァルドをアームで固定した相賀はひたすらに機体の速度を上げて、ヘルヴァルドに負荷をかけ続ける。苦悶するヘルヴァルドだが、ただで負けるほど甘くはない。レフトアームをテュルフィングで切り裂いて、コックピットを叩き斬る。
防護窓が割れて、相賀とヘルヴァルドは至近距離で見つめ合った。掠った刃先で顔に傷がついたが、相賀は気にすることなく急降下。強引な加速とデタラメな運動の衝撃はヘルヴァルドだけでなく相賀すらも傷付ける。半ば自滅に等しい急降下と上昇を何度か繰り広げたあげく、浮き島から離れた二人は地上へと落ちて行った。
※※※
ソラとクリスタルがヴィンセントとの対決に向かう最中、メローラはモルドレッド、そしてずっと憎んでいたアーサーと共に共闘し、裏切りの騎士であるランスロットと交戦していた。
ヴァルハラ軍の援護は向かって来ているだろうが、まだ到着はしていない。それに、指揮系統は混乱し、どう行動すればわかっていない友軍も多い。
本来指揮するべきフレイヤはどこかへと行ってしまった。今はエデルカとコルネットによる安全確認の無線がひっきりなしに鳴り響いているだけだ。
しかし、意見を仰ぐ余裕はない。眼前の騎士は強敵で、こちらは満身創痍である。オーロラフィールドの恩恵で多少なりとも回復はしていたが、ホノカのエイルが損傷したため、ニケが統制していた支援魔術は発動不可能となった。
白い息を吐きながら、世界中で最も敬われる男と称される騎士を睨む。
「あなたバカなの? ヴィンセントはあなたも騙しているのよ?」
「お前こそ間抜けだ。例え世界が滅びるとしても必ず抜け道は存在する。滅んだ後の世界で再び原初の本を手にし、世界を私好みに染め上げるつもりだ」
メローラは呆れて言葉も出なかった。アーサーが鋭い眼力と共に剣の切っ先を向ける。
「やはり愚かだ、ランスロット。ヴィンセントはそのような抜け穴を全て排除する」
「私に言わせればあなたの方が愚かだ。一族の野望を成就させるため、人為的に創られた英雄。原初の本を利用して世界を再生させる? 立派だ。高潔な騎士ですな、我らが王。操り人形として生き、不満を抱くことなく己の使命を全うしようとするとは」
アーサーはランスロットの侮蔑に等しい放言に、眉根一つ動かさない。しかし、メローラは父親に困惑の眼差しを向けている。
人形だと、メローラは思っていた。自分のことを。父親の神話再現を強化させるための部品でしかないと。だが、ここに来て違うような、自分が間違っていたような想いが湧いていた。兄の言葉が脳裏をよぎる。――別の道もあったのではないか。
もしや、人形なのは自分ではなく父親なのか? 聖杯と魂を接続していたのなら、術式の威力をわざわざ向上させる必要はない。むしろ、子どもがいたせいで、父親の野望はまさに今潰えようとしている。
自分は何か決定的な勘違いをしていたのだろうか。メローラの迷いを、しかし父親は気にしない。
「ヴィンセントを始末する。まずはお前だ」
「できるものならやってみせろ、王よ!」
ランスロットにアーサーは突撃し、剣を鳴らす。だが、明らかに威力も速度も先程より低下して、技量によってかろうじてランスロットの剣技へ拮抗するだけだ。
アーサーに助けが必要だ。だが、助けるべきなのか? かつて戦っていた敵を。
「メローラ。行くぞ」
モルドレッドは当然のように誘ったが、メローラは従うべきか迷った。兄は妹を一目見て、笑みを浮かべると背を向ける。
「迷いがあるならそこにいろ。二人がかりならば余裕だろう」
「お兄様……」
モルドレッドは駆け出して、ランスロットと斬り合いを始める。ランスロットは優れた剣士だったが、それでもアーサーとモルドレッドの二人が相手では苦戦を強いられている。かの騎士は突然メローラへと顔を向け、なぜか勧誘してきた。
「来い、メローラ! 私に手を貸せ!」
「は? 何を言って……」
父親との共闘には迷いがあるが、湖の騎士との協力に迷いはない。即座に否定することができる。
だが、次にランスロットから放たれた真実に、メローラは声を亡失する。
「娘が父親に手を貸すのは当然だ! お前は私の娘なのだぞ!」
「……え」
その発言の荒唐無稽さに、本来のメローラなら失笑できたはずだった。有り得ない。そう鼻で笑うことが。
しかし、湧いていた迷いと、兄の怒りを携えた表情に彼女は真相を見出してしまった。
そう考えればつじつまが合うのだ。そもそもメローラというアーサー王の娘は後付けの設定でしかない。アーサー王伝説よりもはるかに後にできた物語の登場人物。それがメローラだ。古典には、メローラなる少女の存在は記されていない。
メローラが偶然発見した記憶の断片は、父が母を犯す姿ではなく――。不貞の騎士が、自分の母親を強姦したシーンだったのだ。
「あ、ぁ……」
「思い出せ、メローラ! この男が行ってきた数々の仕打ちを! アーサーは非情な男だ! 血が繋がらない娘を容赦なく見捨て、親友を奪った! 復讐するべきは今だ! アーサーを殺し、世界を我らの手中に収めるのだ!」
「ランスロット!!」
「止せ、モルドレッド」
アーサーの制止を聞かずに、モルドレッドは無理な剣戟を行った。その隙を見逃すランスロットではない。巧みな剣技でモルドレッドを斬りつけて蹴り飛ばすと、アーサーと剣と剣で曲を奏でた。
「今が好機だ、メローラ! 殺せ! 復讐しろ!」
アーサーの剣圧が徐々に弱まっていく。死期が近いのだ。ランスロットはメローラの援護を要請していたが、あくまでも念には念を入れているだけで、助太刀が不要に思えた。
直後、その見立てが正しかったことを証明するように、ランスロットはアーサーのエクスカリバーを弾き、左足を斬りつけて膝を突かせると剣で魔法の鞘を斬り落とした。
「終わりだな、王よ」
「……」
アーサーは恨み言一つ吐かない。ランスロットはその態度が気に入らないらしく、剣で何度か彼の身体を刺し貫いた。わざわざ急所を外している。
メローラは自分がどうすればいいかわからなかった。ランスロットは止めるべき敵……だとは思う。しかし、アーサーは? アーサーもヴィンセントを殺して原初の本に欲望を書き立てるつもりだ。父親を……いや、血の繋がっていない赤の他人を自分は救うべきなのか?
「メローラ、私の元へ来い。トドメを刺させてやろう」
「……あたし、は」
混乱するメローラをランスロットは苛立ったように怒鳴った。
「来いと言ったのだ、早くしろ!」
びくりと震えて、言われるがままに従う。そこには生意気さを振りまく青い衣の騎士はいない。真実を告げられて、何もわからず怯えている少女がひとりいるだけだ。セレネと出会う前の、弱く意志のない傀儡が。
「殺すがいい。本望だろう?」
「……あ」
ランスロットはモルドレッドが落としたクラレントを、メローラに渡した。アーサーは怖じることなくランスロットを目視する。
メローラは剣を手に、ただただ狼狽するだけだった。心なしか手が震えている。
「殺せ、早くしろ」
「あたし……は」
カタカタと小刻みの音。切っ先が定まらずぶれている。
「殺すのだ、殺せ!」
モルドレッドはメローラの背中から手を回すと、クラレントを両手で握らせた。父親が子どもに剣を教えるような動作で、人間を殺せと脅す。
涙すらこぼすメローラは再びアーサーの顔を見た。――アーサーはずっと厳格な表情でこちらを見ている。
瞬間、メローラの幼い記憶がよみがえった。アーサーは一度だけ、メローラに剣の手ほどきをしたことがある。
まさに今と同じように、藁人形に向かって、剣の振るい方を教えてくれた。こんな悪意を伴ったやり方ではない。メローラの意思を尊重して、優しく教示してくれた。
「さぁ、殺せ、娘よ!」
剣が振り上げられる。そのままアーサーの頭を叩き割る――。
「違う! あなたはあたしの父親なんかじゃない!」
寸前にメローラは刃先を逸らして、ランスロットの拘束から逃れた。
アーサーは最低の父親だった。その点は変わりない。今でも嫌いなことも変わらない。いくら目的が崇高だったとはいえ、今までの行動が帳消しになるわけではない。
だがそれでも、ほんのひとかけらでも、父親だという証があった。自分の快楽のために母親を犯したこの男を父親だとは認めない。例え、血が繋がっていないとしても、メローラの父親はアーサーである。
「あたしは人を殺さないって決めた! あなたの思い通りにはならない!」
「そうか……そうくるのなら、まずはお前から殺してくれよう」
「……きゃッ!」
ランスロットは素早かった。前準備もしていないメローラでは敵わない。遠方で倒れていたモルドレッドが名前を呼ぶ。しかし、彼の救援は間に合わない。
ランスロットはメローラに、先程と同じように剣を振り上げた。後は難なく振り下ろすだけ。反射的に目を瞑り、血が迸る音を聞いた。
「……え?」
痛みを感じず、目を開く。そして、瞠目した。
「おとう、さま」
父親が割って入り、捨て身の覚悟で身体を差し出していた。ランスロットは驚愕し、喧しく喚いている。
「どこにそんな気力があった! お前は娘などどうでもいいはずだ!」
「――妻との約束だ」
アーサーは魔動力を使って、地面に突き刺さっていたエクスカリバーを引き寄せた。そのままランスロットの心臓目がけて突く。ランスロットは絶叫しながらもアーサーの左肩から斜めにクラレントを奔らせて、致命傷を与えた。
ランスロットが死に、アーサーも力を喪う。死の間際にアーサーはメローラを見つめ、その頬を撫でた。
「母親に似ている」
そう言い残して、絶命する。メローラはその亡骸を見下ろして、座り込んだ。
「卑怯よ、お父様。最後に、父親らしいことをするなんて」
これでは文句を言うこともできないではないか。
メローラは死体の横で咽び泣いた。悲しいや悔しいなどという気持ちを超越した、不思議な感情だった。